第20話

   二十三


 昼休み、椿は燕を探し、美術室へとやってきていた。彼女はカンバスの前に座り、絵を描いていた。絵を描いている時の燕は、時々別人の様な表情をする。唇は真一文字に引き結ばれ、眼には刃物のような鋭利な光を湛えている。普段の彼女を知っているだけに、このような彼女の変貌ぶりには、毎度のことながら驚かされる。

「燕」

 椿が声を掛けても、彼女は全くの無反応であった。無視しているというよりは、椿の存在に気が付いていないようであった。

 椿はそれ以上彼女に話し掛ける事は無く、無言で燕から少し離れた場所に椅子を持ってきて椅子に腰掛けた。真剣に絵を描いている人間を邪魔したくはなかったのだ。

 椿の視線は最初こそ燕へと向いていたが、やがてその視線は、徐々に彼女が筆を走らせているカンバスの方へと近付いていった。普段の彼女であれば、描き掛けの絵を、相手の許可も得ず勝手に見るような真似はしないのだが、この時の彼女は殆ど無意識によって突き動かされていた。気が付いた時には、彼女は燕が描いている絵を、その双眸にはっきりと捉えていた。

 それは雪が降り頻るどこかの街並であった。寂しくて切ない、冷たい絵であった。燕はいつでも元気で明るい、太陽のような娘である。そんな彼女がこのような絵を描いているというのが、椿には少し意外であった。

 しかし考えてみれば、椿が燕と出会ってから、まだ二ヶ月しか経っていないのだ。たったの二ヶ月で人の全てを知ることなど、出来る筈がない。きっとこの友人には、椿が未だに知り得ない沢山の顔があるのだろう、そう思った時、椿は自然ともっとこの友人の事を知りたいと思えた。燕だけではなく、泉や日葵のことももっと知りたい、そう思えたのだ。

 椿はこの一年で、実に多くのものを失った。それ故に人と関わる事に憶病になりもした。人生など出会って別れての繰り返しで、どんな出会いがあろうと、最後には別れて終る。沢山の思い出と、それ以上の喪失感を残し、さようならも無しに人は消えていく。それならばいっそのこと、出会わなければいい。他人に深入りせず、ひっそりと生きていけばよい。椿はそう思っていた。まるで負け犬のようにいじけた表情で俯いていた。

 ――自分はもう誰にも助けを求めません。一人で生きていきます――そうんな風に思っていても、いざ誰かに優しくされると、直ぐに絆されてしまう。歩み寄られた分だけ、歩み寄ってしまう。そんな自分を椿は愚かだと呆れて自嘲した。

 しかし、この頃良く思うのだ。出会いがあれば、いずれ――どんな形にしろ――別れは来る。それならば、出会いに意味は無いのだろうか。出会いに意味がないというのなら、別れにも意味は無いのだろうか。きっとそんな事は無い。出会ったことで、変わった何かがある。別れた事で変わった何かがある。無意味な出会いなどなく、無価値な別れなどない。出会った誰かがくれた優しさは、きっと次に出会う誰かのためにあるのだ。

 もしも別れの末に、その思い出も何もかもを捨て、出会いを恐れ、己の空に引き籠ってしまったのなら、それはこれまでの出会いの全てを無駄にしてしまう事だ。

 だから、人は前に進まなければならないのだろう。

 椿は時計を見上げた後、席を立ち、燕の背後へと回った。別に足音を忍ばせていたわけでも無いが、やはり燕は一向に椿に気付かない。ここまで来ると少し面白い。

 燕の筆がカンバスから離れたのを見逃さず、椿は優しく彼女の肩に手を添えた。

「燕」

 彼女は驚いたように椿の方へと顔を向けた。

「どうしたの椿ちゃん?」

「そろそろ昼休みが終わるから、呼びに来たの」

 本当は随分と前からいたが、気付かれていなかったのなら、それを敢えて口にしようとは思わなかった。その真剣な横顔に少し見惚れていたことなど、知られたくはなかったからだ。何かにひたむきな姿というのは男女の境なく美しいものだが、この友人に対してそのような感情を抱くのを、椿はなぜか悔しく思った。

「次の授業、移動教室だから、早く片付けないと遅れるよ」

「あ、そうだった。ありがとう!」

 そう言うと燕はてきぱきと画材を片付け始めた。その後ろ姿を見つめながら、椿は何てことの無い風に、彼女の背中に話し掛けていた。

「ねえ、燕」

「んん、なあに?」

「私、一つだけ燕に嘘ついてたんだ」

「うそ? どんな?」

 もっと彼女の事を知りたいと思った。

 だから彼女に嘘を付き続けたくなかった。

 彼女を知りたいと思う気持ち同じくらい、自分の事も知ってほしいと思えた。

「私、実は絵を描くの好きなんだ」

 だから椿は本当の事を告げた。

 かつて絵を通じて、椿は人の感情を知った。悪意や嫉妬、善意や憧憬、様々な感情を浴びせられた。人と触れ合い、傷付けられ、傷付けてしまった。その末に一度は筆を折ってしまった。そして未だに椿は、人前で絵を描くのが怖い。人に絵を描けると知られるのが怖い。それでも、彼女には知ってもらいたかったのだ。椿は燕の隣にいたい。燕をあの子の代わりにしようなどと考えているわけではない。それでもあの子に出来なかった分まで、この友人を大切にしたかった。

 燕がこちらに振り向く。そして彼女はいつもと変わらない微笑みを浮かべ、こう言った。

「気付いてたよ」

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