第19話
二十二
月曜日の十五時過ぎ頃、匠吾は商店街にケーキを買いに来ていた。十二月十五日、この日は椿の誕生日であった。老人と中学生の娘の二人でホールケーキを食べ切れるか疑問ではあったが、誕生日に普通のカットケーキというのも恰好が付かないので、匠吾は数日前からケーキ屋にホールケーキを予約していた。
店員に予約していた名前を伝えると、直ぐに商品を持ってきてくれた。匠吾が会計を済ませて店を出た。匠吾がケーキの箱を片手に商店街を歩いていると、彼に話し掛けてくる人物がいた。
「あら、匠吾さんじゃない」
「なんだ、刻音か」
「なんだ、とはこれまた随分な挨拶だね」
そう言い、刻音は唇の端を上げて笑った。可愛くない笑い方である。刻音は昔からよくこういう笑い方をする娘であった。しかし今日の彼女の笑みは、いつもと変わらない表情であるにも関わらず、以前までと比べどこか明るく見えた。そのように感じたのは、彼女が長く伸ばしていた髪をバッサリと切り、表情が良く見えるようになったのが原因であろう。というのも、先日行われた時計技能士試験では、作業態度も採点対象であり、その中には整理整頓及び清潔の保持という項目がある。この項目では時計の組み立てという繊細な作業を行う上で、安全性の確保や部品の紛失や破損のリスクへの配慮が出来ているかを採点される。身だしなみをどこまでチェックされるかは不明であるが、刻音はあの長ったらしい髪では、減点の大賞になりかねないと判断したらしく、試験の前日に切ってしまったのだそうだ。
「しかし、随分とさっぱりしたものだな」
「それ、前に会った時も言ってたよ」
とそこで刻音は匠吾の手にぶら下がっているケーキの箱を見て、何かに気付いたような顔をした。
「あ、もしかして椿ちゃんの誕生日って、今日?」
「ああ、そうだ」
「へえ、それでプレゼントはちゃんと用意できたんですか?」
「ああ、それは大丈夫だ。この前は相談に乗ってくれて助かったよ」
「いえいえ、お安い御用ですよ。匠吾さんには、うちの爺さん共々いつもお世話になってるからね」
「それこそ礼には及ばん。こっちも仕事だからな。持ちつ持たれつだ」
「それもあるけど、この間爺さんの相談に乗ってくれたんでしょ」
「なんだ、あいつもう話したのか」
「ええ、ええ。試験で疲れて帰ってきたところで、いきなりあんな話されたもんだから、もう困ったもんですよ。まだ学科試験だって残ってるってのに」
刻音が肩を竦めて言う。
「それで、結局スイスにはいくのか」
「取り敢えず、今はまだ保留かな。正直、まだお爺ちゃんに教わりたいこともあるし……」
そう言葉を区切ってから、彼女はこうも続けた。
「でも、本当は薄々気付いているんだ。このままお爺ちゃんの下にいても、あの人を越える事は出来ないって。だから、これもいい機会なのかもしれないね」
その言葉を聞き、匠吾は不思議な灌漑を覚えた。あの厳時郎について回っていた小さな娘が、目的を見据えて、自分の将来について悩んでいる。その成長した姿に、に彼は時の流れを感じた。
「ところで匠吾さん」
「なんだ」
「スイス人て、何語話すの?」
「……そりゃ、スイス語だろう?」
これは匠吾も後になって知った事だが、スイスには四つの公用語があるが、スイス語という言語は存在しないらしい。
帰宅後、匠吾は冷蔵庫にケーキを入れ、夕餉の支度を始めた。和食の後にケーキを食べるのもどうかと思い、匠吾は珍しくハンバーグなどという手の込んだものを作っていた。
その他にもポテトサラダやコンソメスープなど、普段の彼ならば、面倒に思い、決して作ろうとはしない料理を作っていく。折角の孫の誕生日である、多少の手間は惜しまない事に決めていたのだ。しかし考えてみれば、魚を捌いたり、きんぴらごぼうを作るのだって、十分に手が掛かる。だというのに、ハンバーグほど面倒な気がしないのは何故だろうか。やはり作り慣れているというのが大きな理由なのか。そんなことを考えているうちに、椿が帰宅してきた。
「ただいま」
「ああ、おかえり」
匠吾は不意に窓の外へと目を移した。まだ十七時半ではあったが、既に外は随分と暗くなっていた。
「すまないが、雨戸を閉めてきてくれるか」
「うん」
背後で椿が去っていく足音を聞きながら、匠吾は料理を続けた。
十八時になり、夕飯の準備を終えた匠吾は、食卓に料理を並べた。
「……ハンバーグだ」
椿はよほど匠吾がハンバーグを作ったことが意外だったようで、目を丸くしていた。
「暫く作る予定はないから、味わって食べることだ」
「……私の、誕生日だから?」
「そうでもなれば、こんな面倒な物は作らん」
「そっか。その、ありがとうお爺ちゃん」
「ああ、冷める前に食べよう」
「うん。いただきます」
そう言い、椿は手を合わせる。
「召しあがれ」
匠吾もまたそう言い、手を合わせた。
椿がハンバーグを橋で切り分け、口荷運んだ後、一言「美味しい」と呟くように言った。それに何か答える訳でもなく、匠吾は黙々と食事を進めた。何か返すべきかとも思ったが、彼は既にその機を逸していた。誕生日だからと言って特に何か会話がある訳でもなく、いつも通り、食事の時間は静か良すぎていった。
「ケーキもあるが、まだ腹に余裕はあるか」
「うん、大丈夫」
その返事を聞き、匠吾は冷蔵庫からケーキを取り出し、そこに丁寧に蝋燭を立てていく。
「……流石に、この歳でケーキの蝋燭吹き消すのは恥ずかしい、かな」
その様子を見ていた椿が、苦笑いを浮かべながら言う。
「まあ、付いてきてしまった物を使わない野も勿体ない。我慢してくれ」
「うん」
匠吾は立て終えた蝋燭に火を付ける。
「誕生日おめでとう、椿」
「うん、ありがとう」
そう言い、椿はろうそくの火を吹き消した。蝋燭の火が消えたのを見て、匠吾は蝋燭をケーキから取り除き、ナイフでケーキ切り分けた。彼はケーキを小皿に取り分けると、それを一つずつ自分と椿の下へと配った。
久々に食べるケーキは甘ったるく、喉の乾く味をしており、老人には少しきつかったが、椿が美味しそうにケーキを食べていたので、彼も水を差すようなことは言わず、ケーキを頬張った。
食事を終え、椿が風呂に入っている間に、匠吾は食器を洗い、ケーキとポテトサラダの残りにラップをし、冷蔵庫へとしまった。タオルで手の水気を十分にふき取った後、彼は自室へと赴き、引き出しから紙袋に包まれたある物を取り出した。
それを持って、部屋を出た後、匠吾は椿が風呂から上がるのを今で待っていた。
暫くして洗面所の方からドライヤーの音が聴こえてきた。その音に耳を済ませながら、匠吾は彼女が今に戻ってくるのを待った。
やがて椿が居間へと戻ってきた。
「あれ、お爺ちゃんまだいたの?」
普段の匠吾は食事を終えると直ぐに作業部屋に戻り、仕事を再会するのだが、今日ばかりはそういう訳にもいかなかった。
「ああ、お前に渡すものがあってな」
「渡すもの……あっ、プレゼント」
すっかり忘れていたとでも言うように、彼女は目を見開いた。この様子では、匠吾がプレゼントに何が欲しいか考えておいてくれと言っていたことも、忘れていたのだろう。とはいえ、ここ最近は謹慎やら何やらで慌ただしかったため、それも仕方がない事なのかもしれない。
「ごめんなさい。全然考えてなかった」
「いや、別にいいさ。それよりも、これを」
そう言い、匠吾は紙袋に包まれていたそれを椿へと手渡した。
「それじゃ、渡すものも渡したことだ。俺は仕事に戻る。気に入らなかったら言ってくれ。その時は前に話した通り、現金にでも変えてやる」
そう言うと匠吾は居間を後にし、作業部屋へと戻った。早速仕事を始めようと、彼が鏨に手を触れかけた瞬間、どたばたと勢い良く廊下を駆ける音がしたかと思えば、部屋のドアが乱暴に開け放たれた。
驚き振り向けば、そこには一冊の本を抱えた椿の姿があった。
「ど、どうした」
匠吾にしては珍しく上擦った声で訊ねた。
「あ、あの! こ、この本、どうして、どこで……」
椿の言葉はまるで気持ちばかりが先走り、舌が上手く回っていないようで、要領を得ないものだった。しかし、断片的ながらも、その言葉から、彼女が訊きたがっていることは、ある程度匠吾にも分った。
「ああ、この間の古本市で、お前さんがその本を眺めているのが見えたからな。誕生日プレゼントにでもと思って買ったんだが……気に入らなかったなら……」
「これがいい!」
匠吾が言い終える前に、椿が食い気味に言った。彼女にしては珍しく大きな声であった。
「そ、そうか」
「これが良い。これ以上のプレゼントなんてないよ。ありがとう、お爺ちゃん」
「それなら良かったんだが……夜分も遅い。あまり大きな音は出すな」
「あ、ご、ごめんなさい」
椿は今さら恥じ入る様に打つ牟田。
「分ったなら、もう寝なさい」
「はい」
椿は部屋に入ってきた時とは打って変わって、大人しい動作で部屋を出ていった。
椿が出ていっ後も、匠吾は暫く閉ざされたドアを眺めていたが、やがて視線を卓上へと戻した。そこにはまだ手付かずの地金が、ヤニ台の上に置かれていた。仕事に取り掛かる前で良かったと、彼は息を漏らした。
それから仕事を再会した時には、彼はもう先ほどの出来事など忘れたように、目の前の仕事にだけ集中した。
悩んだ末に選んだプレゼントを喜ばれた事よりも、彼にとっては仕事の方が重要な事柄なのだ。彼のこのような人間味に欠ける様子こそが、彼の娘が父から遠ざかった所以なのだが、彼はそのことに気付いていなかった。
高坂匠吾という人間の本質は、結局どこまでいっても変わりはしないのだ。
二十三
昼休み、椿は燕を探し、美術室へとやってきていた。彼女はカンバスの前に座り、絵を描いていた。絵を描いている時の燕は、時々別人の様な表情をする。唇は真一文字に引き結ばれ、眼には刃物のような鋭利な光を湛えている。普段の彼女を知っているだけに、このような彼女の変貌ぶりには、毎度のことながら驚かされる。
「燕」
椿が声を掛けても、彼女は全くの無反応であった。無視しているというよりは、椿の存在に気が付いていないようであった。
椿はそれ以上彼女に話し掛ける事は無く、無言で燕から少し離れた場所に椅子を持ってきて椅子に腰掛けた。真剣に絵を描いている人間を邪魔したくはなかったのだ。
椿の視線は最初こそ燕へと向いていたが、やがてその視線は、徐々に彼女が筆を走らせているカンバスの方へと近付いていった。普段の彼女であれば、描き掛けの絵を、相手の許可も得ず勝手に見るような真似はしないのだが、この時の彼女は殆ど無意識によって突き動かされていた。気が付いた時には、彼女は燕が描いている絵を、その双眸にはっきりと捉えていた。
それは雪が降り頻るどこかの街並であった。寂しくて切ない、冷たい絵であった。燕はいつでも元気で明るい、太陽のような娘である。そんな彼女がこのような絵を描いているというのが、椿には少し意外であった。
しかし考えてみれば、椿が燕と出会ってから、まだ二ヶ月しか経っていないのだ。たったの二ヶ月で人の全てを知ることなど、出来る筈がない。きっとこの友人には、椿が未だに知り得ない沢山の顔があるのだろう、そう思った時、椿は自然ともっとこの友人の事を知りたいと思えた。燕だけではなく、泉や日葵のことももっと知りたい、そう思えたのだ。
椿はこの一年で、実に多くのものを失った。それ故に人と関わる事に憶病になりもした。人生など出会って別れての繰り返しで、どんな出会いがあろうと、最後には別れて終る。沢山の思い出と、それ以上の喪失感を残し、さようならも無しに人は消えていく。それならばいっそのこと、出会わなければいい。他人に深入りせず、ひっそりと生きていけばよい。椿はそう思っていた。まるで負け犬のようにいじけた表情で俯いていた。
――自分はもう誰にも助けを求めません。一人で生きていきます――そうんな風に思っていても、いざ誰かに優しくされると、直ぐに絆されてしまう。歩み寄られた分だけ、歩み寄ってしまう。そんな自分を椿は愚かだと呆れて自嘲した。
しかし、この頃良く思うのだ。出会いがあれば、いずれ――どんな形にしろ――別れは来る。それならば、出会いに意味は無いのだろうか。出会いに意味がないというのなら、別れにも意味は無いのだろうか。きっとそんな事は無い。出会ったことで、変わった何かがある。別れた事で変わった何かがある。無意味な出会いなどなく、無価値な別れなどない。出会った誰かがくれた優しさは、きっと次に出会う誰かのためにあるのだ。
もしも別れの末に、その思い出も何もかもを捨て、出会いを恐れ、己の空に引き籠ってしまったのなら、それはこれまでの出会いの全てを無駄にしてしまう事だ。
だから、人は前に進まなければならないのだろう。
椿は時計を見上げた後、席を立ち、燕の背後へと回った。別に足音を忍ばせていたわけでも無いが、やはり燕は一向に椿に気付かない。ここまで来ると少し面白い。
燕の筆がカンバスから離れたのを見逃さず、椿は優しく彼女の肩に手を添えた。
「燕」
彼女は驚いたように椿の方へと顔を向けた。
「どうしたの椿ちゃん?」
「そろそろ昼休みが終わるから、呼びに来たの」
本当は随分と前からいたが、気付かれていなかったのなら、それを敢えて口にしようとは思わなかった。その真剣な横顔に少し見惚れていたことなど、知られたくはなかったからだ。何かにひたむきな姿というのは男女の境なく美しいものだが、この友人に対してそのような感情を抱くのを、椿はなぜか悔しく思った。
「次の授業、移動教室だから、早く片付けないと遅れるよ」
「あ、そうだった。ありがとう!」
そう言うと燕はてきぱきと画材を片付け始めた。その後ろ姿を見つめながら、椿は何てことの無い風に、彼女の背中に話し掛けていた。
「ねえ、燕」
「んん、なあに?」
「私、一つだけ燕に嘘ついてたんだ」
「うそ? どんな?」
もっと彼女の事を知りたいと思った。
だから彼女に嘘を付き続けたくなかった。
彼女を知りたいと思う気持ち同じくらい、自分の事も知ってほしいと思えた。
「私、実は絵を描くの好きなんだ」
だから椿は本当の事を告げた。
かつて絵を通じて、椿は人の感情を知った。悪意や嫉妬、善意や憧憬、様々な感情を浴びせられた。人と触れ合い、傷付けられ、傷付けてしまった。その末に一度は筆を折ってしまった。そして未だに椿は、人前で絵を描くのが怖い。人に絵を描けると知られるのが怖い。それでも、彼女には知ってもらいたかったのだ。椿は燕の隣にいたい。燕をあの子の代わりにしようなどと考えているわけではない。それでもあの子に出来なかった分まで、この友人を大切にしたかった。
燕がこちらに振り向く。そして彼女はいつもと変わらない微笑みを浮かべ、こう言った。
「気付いてたよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます