第18話
二十一
日曜日の昼下がり、椿はスケッチブックと鉛筆を片手に、自室空窓の外を眺めていた。早朝にランニングに出かけようと、家を出たところ、外は一面雪景色となっていた。試しに彼女が雪の絨毯へと足を踏み出してみたところ、靴がすっぽりと埋まってしまったため、彼女は泣く泣くランニングを断念てした。しかし踏みしめた足の感触から、この日の雪は粉雪ではなく、ぼた雪であるという事が分かった。恐らく、明日には全て溶けてなくなってしまうだろう。それならばと彼女は思い立ち、今のうちにこの景色を描いてしまおうと筆を取った次第である。
しかし下書きを終え、彼女が色鉛筆で色を塗り始めたところで、彼女の手は止まってしまった。何かが違う。そう思ったのだ。しかしその違和感は明確な形を持っている訳ではなく、もっと曖昧なものであった。
パースが狂っているのか、はたまた色使いを間違えてしまったのか。ただ漠然とした違和感だけがあった。
最近になり、少しずつ以前通りの絵を描けるようになってきた椿であったが、それに伴い、以前のような分かりやすい違和感ではなく、自分でも何がおかしいのか分からないような、些細な違和感が目立つようになってきた。
「……よし」
彼女はそう言い、立ち上がると、押入れの襖を開け放った。押入れの中には、幾つかの段ボールや衣装ケースが敷き詰められていた。椿はその中からある物を探すため、段ボールを一つずつ開け放ち、その中身を改めていった。そして、ようやく椿はそれを見つけ出した。それはデッサン用の模型であった。
絵を描いている時に、こういう小さな違和感を覚えてしまう原因は、大抵手癖で描いてしまっていることに起因する。
風景と模型では、描く対象があまりにも懸け離れているが、それでも基礎は同じである。今の椿には基礎から叩き直す必要があるのだ。 時間を掛ければ掛けるほど、手癖が顕著に表れる。見たものをそのまま即座に描くことが重要だと考え、彼女は手癖が消えるまで、ひたすら速写を行うことにした。
速写に慣れてきた頃、彼女は模型の周囲にものを置き、遠近感をより意識し、描くことに務めた。
そしていい加減に手癖が消えただろうというところで、丁度彼女のスケッチブックの頁もまた尽きた。最早スケッチブックには、風景画を描けるだけの余白は残っていなければ、予備のスケッチブックもキラしていた。
さて、どうしたものかと、彼女が頭をもたげたところで、開きっ放しにされた押入れが目に入った。それを眺めていると、彼女の頭の片隅にある考えが浮かんできた。正確に言うのなら、その考え事態はずっと彼女の頭の中にあったのだ。しかし彼女はこれまでずっと、その考えから目を逸らし、実行しようとはしなかった。
あの押し入れの奥に仕舞いこんだあるモノがあれば、彼女は絵を描くことが出来る。しかしそれは同時に、彼女は本気で絵を描かなくてはならなくなる。無論これまでだって、彼女はいつだって余念なく真剣に絵を描いてきたつもりである。しかし彼女は絵を描きながらも、あくまでこれは練習だ、これはリハビリだと、どこかで言い訳をしていたのも事実である。しかしこれから彼女がしようとしていることには言い訳は通じない。彼女自身が言い訳をすることを許せない事なのだ。
だからこそ、彼女はずっとそれから逃げ続けていた。しかしここにきて、どういう心境の変化かは彼女自身にも預かり知らぬところだが、何故か彼女は今それをしなければならないというある種の使命感にも似た情熱を抱いていた。
椿はその情念に突き動かされるがままに、考えるよりも早く行動を起こしていた。
彼女が初めにしたことは、四角形の木枠に専用の道具を使い、布地を貼っていく作業であった。そして完成したものをイーゼルへと立掛ける。ここまで来れば、彼女がしようとしていることが何のなのかは、誰が見ても明らかであった。彼女が組み立てていたのはカンバスである。彼女は、油絵を描こうとしていたのだ。
下書き用の木炭、油絵具、筆、筆洗器とパレット、フィキサチーフと画溶液、道具はすべて揃っていた。後は実際に描くだけである。
しかしここから先は、一切の妥協が許されない工程である。一度描き始める前に、珈琲でも煎れようと思い、彼女は部屋を後にした。
台所に移動した椿は、薬缶を火に掛けている間に、マグカップにインスタント珈琲の粉末を入れた後、彼女は目を瞑り、ただ湯が沸くのを待った。
家の中はやけに静かで、ガスコンロの唸り声と換気扇が回る音、後は風が窓を叩く音だけが耳に響いた。
匠吾は何時ものように仕事部屋に籠って、仕事をしているのだろうか。それとも椿が絵を描くことに集中している間に、商店街に露店を出しに行ったのだろうか。
どちらにしろ、今この家の中には、椿しかいないような厳かな静寂に包まれていた。その静寂を破ったのは、薬缶が沸く音であった。
そこで椿はハッとしたように瞼を開き、コンロの火を止めた。マグカップに湯を注ぎ、スプーンで軽く掻き混ぜてやると、湯気と共に珈琲の芳ばしい香りが立ち上った。椿は火傷しないように、ゆっくりとマグカップに唇を近付け、その中身を口内へと流し込む。珈琲は特段美味しい訳でもなければ、不味くもない、飲みなれたインスタント珈琲の味であった。
しかし何故か、それが彼女にはとても懐かしい味に感じられた。何時も飲んでいる味だというのに懐かしく感じるなど、一体どういうことだろうかと、彼女が首を傾げていると、不意にあることを思い出した。
母がまだ生きていた頃のことだ。椿は昔から絵を描くのが好きな子供であった。一度絵を描くことに夢中になると、何時間でも絵を描き続けることが出来た。母はそんな椿に対して、良く「少し休憩をしなさい」と言い、子供の頃はホットミルクやカフェオレを、中学生になってからは珈琲を淹れてくれたのだ。
不意に彼女は頬を何かが伝う感触に気が付いた。ぽたりと、水滴が落ちる音がした。
椿は泣いていた。留めなく溢れ出る涙に困惑しながら、彼女は訳も分からず泣いていた。ようやく彼女が泣き止んだ頃には、珈琲はすっかり冷めていた。
そして彼女は今さらのように思うのだった。
――ああ、母さんはもういないんだ。
その夜、一仕事終えた匠吾が夜食を食べようと廊下を歩いていると、不意に椿の部屋の前で立ち止まった。それから、彼は自分の服の裾の匂いを嗅いだ。
「……シンナー臭いな」
作品についていた松脂を落とすためにラッカーシンナーを使ったからだろうか。
今日はさっさと風呂に入ろう。そう思い、彼は再び歩き出した。
匠吾には一つ、忘れられない夢があった。その夢を見たのが何時だったか、何故そのような夢を見たのか、今ではもう覚えてもいなかった。しかし、その夢の内容だけはよく覚えていた。
気が付けば、彼は真冬の夜の雪原で、一人何かを探していた。何を探しているのかは分からない。ただその何かは、何故だかとても大切なものだった気がした。だから、彼は必死になって、その何かを探していた。雪を掻き分ける手は、何時しか熟れた果実のように赤くなり、冷たさも痛みも感じないほどに感覚が麻痺していた。
それでもその何かは見つからなかった。
何時しか彼は力尽き、雪原の上に膝を埋めたまま一歩も動けなくなってしまった。
ふと彼が夜空を見上げると、下弦の月が彼を嘲笑うように見下ろしていた。
そこで彼の夢は終った。
何の脈絡もない、漠然とした夢であった。寝ている時に見る夢など、そんなものだ。ただの夢だと言ってしまえば、それまでの事である。しかし何故だか、匠吾にはこの夢が何かを暗示しているようでいてならなかった。そのため、彼は今日までその内容を忘れることが出来ずにいた。
ただ最近になって思うことは、夢の中で時分は無くした物を探しているのではなく、初めから在りもしない何かを探しているのではないかという事である。無論こんなものはただの妄想に過ぎず、夢に明確な答えなどないのだが、何故だかそう思えてならなかったのだ。
それ故に雪が降る度に、彼はこの夢を思い出しては、その「何か」の答えを探さずにはいられなかった。しかし、結局彼はその答えを見つけられずにいた。
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