第17話

 二十


吹き荒ぶ風に粉雪が舞う中、椿は通学路を一人歩いていた。雪から顔を庇うように、俯きながら通学路を歩いていると、「おーい」とどこかから陽気な声が聞こえてきた。顔を上げると、そこには椿の良く知る二人が並んで歩いていた。

「おはよう、佐々……燕」

「うん、おはよう椿ちゃん!」

「それと、泉もおはよう」

「ん、おはよ」

 最近になり、椿はようやく佐々木の下の名前を覚えた。彼女の名はツバキと一字違いのツバメというそうだ。こんなにも似た名前なのに、今まで名前を覚えていなかったのだから、彼女の他人に対する感心の無さは筋金入りなのかもしれない。とはいえ、語感が似ている上にどちらも春の季語に使われる字である。とはいえ、椿は十二月生まれのため、彼女の名である椿というのは、冬の季語である寒椿、または冬椿を指す。燕もまた五月生まれだというので、彼女の名は初夏の季語としての燕なのだろう。そのことから、彼女等の名が持つ意味合いは、大分ことなるのだろう。

「そういや、今日は自転車じゃないのか?」

「うん、雪が降ってるからね」

「全く今日は謹慎最終日だってのに、こんな天気になるなんて。つくづくついてないねえ、私達は……」

 泉がうんざりだと言わんばかりに肩を竦めると、

「え、なんで? 雪楽しいじゃん」

 燕が満面の笑みでそんなことを言った。

「……名は体を現すって言うけど、お前は全然燕っぽくないよな。今からでも鶫か白鳥に改名したらどうだ?」

「……あれはあれで、寒さから逃れるために日本に来てるから、違うんじゃないかな」

「じゃあ、シベリアン・ハスキーだ。燕、今日からお前はシベリアンハスキーと名乗れ」

「私はアラスカン・マラミュートの方が好きかな」

「豆柴みたいな成りして何言ってんだ、こいつ」

「……名前が犬になるのは良いんだ」

 佐々木アラスカン・マラミュート、もしそんな名前の人物がいたら、絶対に忘れないだろう。

「そういう泉ちゃんは、犬になるなら何になりたい?」

 最近泉と燕が下の名で呼び合うようになった。どういう心境の変化かと、泉に尋ねたところ「こいつといる限り、どう足掻いてもトラブルに巻き込まれると分かったからな。無駄な事に労力を割くのはやめた」と遠い目をして語っていた。

「そんなこと考えた事ねえよ」

「サル―キとかはどう?」

「どうって言われても聞いたことねぇよ。どんな犬種?」

「あのね、凄い足が速くて、スラっとしてる犬だよ」

「足が速いならまあ、いいか」

 しかし、可笑しな会話である。横で聞いていると、思わず笑みを溢しそうになる。などと考えていると、椿にも飛び火した。

「椿ちゃんは何の犬になりたい?」

「犬になりたいと考えた事は無いけれど。そうだね、なるなら寒さに強い犬になりたいかな」

「アラスカン・マラミュート?」

「どっちかというと、北海道犬」

 馬鹿真面目に質問に答えている自分自身に、椿はつい苦笑してしまった。

 学校に着くと彼女等は外套の雪を払い、濡れた靴を履き替える。三人は二階の生徒指導室へと向かった。室内に入ると、三人は外套を椅子の背もたれに掛け、ストーブの前へと寄り集まり、暖を取った。

 それから各々トイレに行ったり、本を読んだり、自習の準備をしていると、生徒指導の教員がやってきた。一限の時間には少し早いが、謹慎中は他の生徒との接触を避けるために、通常とは異なるカリキュラムで一日が進む。教員から自習用のプリントを配られると、三人は黙って、そのプリントの問題を解き始めた。当然だが、私語は厳禁である。問題を解き終えた順に、教員に採点してもらい、合格した者は授業が終わるまで、各自でまた自習という流れである。

昼休みになり、特にすることも無いので、椿は持参した小説「春琴抄」を読んでいた。燕はスケッチブックを広げ、そこに何かを描いており、泉は机に突っ伏して眠っていた。三人の間で特に会話が交わされる事は無く、時間だけがゆったりと穏やかに進んでいく。

 椿が紙面の文字を追いかけていると、やけに目が疲れる事に気がつく。ふと窓辺に近寄り、空を見上げれば、既に雪は止んでいた。代わりに日の光にさらされた雲の天蓋が白く輝き、眩しさが彼女の目を刺す。道理でと思いながら、彼女は目を細めた。蒼褪めた空よりも、真綿のように白い曇り空の方が眩しく感じるのは、椿だけだろうか。

 彼女はカーテンを閉めようかとも迷ったが、後ろに振り向いて、真剣に絵を描いている燕の姿を確認すると、彼女は諦めて自分の席へと戻った。

 昼休みが終ると、また自習だ。午後は反省文を描く事になったのだが、彼女等は既に三日間で何枚書いたか分からないほどの反省文を書いていた。最初の内は思ってもいない適当なことを書き、でっち上げていたのだが、三日目にもなると、流石にネタが尽きて来る。しかし、この反省文さえ、書き終えれば、ようやく長かった謹慎が解かれる。椿は前に書いた反省文を思い出しながら、言い回しを少し変えるなどの工夫を凝らし、どうにかそれらしいものを書き上げることが出来た。

 それから教員達との面談が終わり、晴れて三人は自由の身となった。

 他の生徒達よりも、少し早い下校時刻を迎えた三人は、並んで校門を歩いていた。この頃には、既に雪は溶け切ってしまっていた。

「……つっても、明日からも普通に授業あるんだよな」

「サボっちゃだめだよ」

「分かってるよ。生活習慣も、この三日間で大分改善されちまったしな」

 以前までは一体どんな生活サイクルをしていたのかとも思ったが、大体予想はつくので、椿は敢えて聞きはしなかった。

「ところで二人とも、折角謹慎も解かれたんだし、どこかで打ち上げでもしてく?」

 燕が無邪気にそんなことを訊ねてきたが、椿と泉は溜息を吐いて、首を横に振った。

「先公からは謹慎が解かれたからって、はしゃいだりするなって言われてんだろ?」

「下校後は真っすぐ家に帰れとも言われてたよ」

「え、そうだっけ?」

「……だめだこいつ」

「まあ、燕らしいと言えば、燕らしいけどね」

 苦笑いを浮かべながら、椿はそんなフォローにもなっていないフォローを入れた。

 燕が馬鹿な事を言い、それに泉と椿がツッコミを入れ、また誰かがしょうもない事を言い、それに皆が笑う。そんな有り触れたやり取りをしながら、三人は帰路を共にした。

 その時間も直ぐに終わりが来る。椿は泉と燕とは家の方向が違うので、途中で別れることとなった。彼女は二人に手を振り別れを告げた後、一人で帰路を歩く。

 椿は歩きながら考える。静かな一人の帰り道を寂しく思ったのは、一体いつ以来だろうか。彼女はもうずっと一人でよいと思っていた。しかし気付けば、彼女の孤独は明るい光に照らされ、綻んでいた。彼女は泉や燕といる時、自分の心が安らぐことを既に自覚していた。彼女等といる時、椿は確かな幸福感を感じていた。そのことに彼女は胸が痛んだ。椿が新しい友人を見つけ、呑気に幸福感に浸っていることを、かつての友人が知ったらどう思うのだろうか。今椿がこうしている間にも、あの少女は未だ立ち直れず、一人苦しんでいるかもしれない。そんなことを思うと、椿は胸が張り裂けそうになる。そしてまた自己嫌悪と罪悪感が綯い交ぜになったヘドロのような感情が心を満たしていく。人の優しさを裏切り、人の温もりから逃げた自分が、今さら誰かの温もりに縋ろうなどと、あまりにも虫が良すぎる話だ。

 そんな椿の胸の内を燕や泉に話したら、どうなるだろうか。燕はどこまでも友達想いの少女だ。泉も口こそ悪いが、お人好しだ。きっと二人は椿に寄り添い、彼女を慰めてくれるだろう。

 しかし、それではだめなのだ。他者の優しさを無下にする事は恥ずべき行為だが、それ以上に恥ずべき行為は、他者の優しさに甘える事だ。

 例え、どれだけ苦しかろうと、辛かろうとも、己の過去から目を背けてはならない。己の罪から逃げてはならない。だから椿は一生涯、この罪悪感と自己嫌悪と付き合っていくしかないのだ。それを償いなどと呼び、美化する気はない。こんなものはただの自己満足的な代償行為に過ぎない。償う事も、逃げることも出来ないのならば、せめて向き合い続けるしかないのだ。

 いま自分の周りにいる友人を大切に思うこと、かつて失くした友人を大切に思い続けること。きっとそれは、どちらも正しいことのはずだ。

 やがて暗がりの向こうに、見慣れた祖父の家が見えてきた。そこで椿はすっかり思考を打ち切り、早足で家へと歩いた。

 あくる日の朝、謹慎を解かれた椿は、平常通りに、自分が所属するクラスの教室へと入った。覚悟していた事ではあるが、クラスメイト達からの異物を見るような視線は、以前よりも強くなっていた。ただ椿もまた以前よりもその視線が気にならなくなっていた。そうした変化に、椿は自分のことながら驚いた。

燕はというと、彼女は教室に入るなり、いつもと変わらない元気な声で級友達に挨拶を投げかけていた。それに対して、級友達もぎこちないながらに挨拶を返している。燕は持ち前の明るさもあり、級友達からは好ましく思われているようだが、それと同時に何をしでかすか分からない危うさから恐れられていた。言ってしまえば、敵に回したくない人物なのだ。だからなのか、一見仲が良さそうに見えても、彼女と級友達の間には、どこか隔たりを感じざるをえない。そして彼女もその事に気付いているのか、どこか級友達と自分との間に一線を引いているように見える。椿がそのように思うのは、泉といる時の彼女の姿を知っているからなのかもしれない。勿論、これらの見解は、全て椿の妄想であり、ただの邪推に過ぎない。

「よう、高坂。ひさしぶり」

 椿がクラスメイトと談笑している燕を見ていると、ひとりの男子生徒が彼女に声を掛けてきた。

「……ええと、あ、桂木君か。おはよう」

「……まだ名前、うろ覚えだったのか」

「ごめん」

「まあ、いいけどさ」言いながら、桂木慎太は呆れたように溜息を吐いた。「それよりも田中達に一発かましたってのホント?」

「……まあ、どんな話を聞いているかは知らないけど、概ねは」

「おまけに斎藤のハゲに恥かかせたとか」

「それは泉だよ」

「まあ、何にせよ。やるじゃん、高坂」

 笑いながら言う彼の姿を見るに、田中達の周囲からの評判は、元々良くはなかったのだろう。

「褒められたことじゃないけどね」

「まあな。だけど口には出さずとも、内心ざまあみろって思ってる奴等は、結構いると思うぜ。なんなら、感謝してるやつもいるかも。だから、あんまり気に病むなよ」

 どうやら、彼は彼なりに椿の事を励まそうとしているようだった。以前までの椿なら――偉そうに分った風のことを言うな。余計なお世話だ。お前の同情なんていらない!――くらい思ったかもしれないが、今は素直に彼の心配を受け止めることが出来た。

「うん、ありがとう」

 だから素直に礼を言った。

「礼なら、日葵……ああ、妹に言ってくれ。あいつ、内気な癖に高坂には助けられたからって言って、わざわざ小川先生に抗議死に言ったんだぜ」

 やはり椿達のために証言してくれた者の中にいた桂木という名前があったのは、偶然ではなかったようだ。

「それは、今度ちゃんとお礼を言いに行かないとね」

「そうしてくれ。きっとあいつも喜ぶ」

 やがて始業のチャイムが鳴り、生徒達は各々の席へと付いて行く。

 その日の昼休み、椿は隣のクラスを訊ねた。

「あれ、高坂さん?」

 椿が教室に入ると、見知らぬ女子生徒が彼女に話し掛けてきた。

「あ、私は陸上部の佐藤佳那ね。泉なら、今はグラウンドで走ってると思うよ」

 どうやら、泉の友人のようだった。

「えっと、今日は泉じゃなくて、桂木さんに会いに来たの」

「桂木? それなら、あそこにいるけど」

 と言い、彼女は窓側の後ろから二番目の席を指差した。そこには本を読んでいる桂木日葵の姿があった。

 椿は女子生徒に礼を言い、日葵の下へ向かった。

「桂木さん」

 椿は日葵を驚かせないように、穏やかな声で彼女に話し掛けた。しかしそれに反して彼女は驚いた様子で、顔を上げた。

「こ、高坂さん?」

「うん、高坂だよ」

 返事をしてから、椿はなんとも間抜けな返事だと思った。更に困ったことに、退陣能力が低い彼女には、どう話し掛けておいて、どう話を切り出せば良いものか、彼女には分からなかった。数秒無言の時間が続いた後、痺れを切らしたように日葵が口を開いた。

「えっと、どうして高坂さんが?」

「あ、えっと、この間の件なんだけど、私達が不利にならないように証言してくれたって、桂木君、じゃなくて、ええと、お兄さんから聞いたから、そのお礼を言いたくて」

「あ、いえ、むしろ助けてもらったのは、こっちですから、はい。お礼とかは……別にいい、です」

「ううん、そういう訳にはいかないよ。ありがとう、桂木さん」

「えっと、はい。どう、いたしまして?」

 なんともぎこちない会話であった。とはいえ、当初の目的を果たすことは出来た。しかし、礼だけ言って帰るのも些か薄情な気もする。そう思い、椿は更に話し掛ける事にした。

「ええと、桂木さんは本を読むのが好きなの?」

「あ、はい」

「何の本を読んでいるの?」

 質問してから、椿は自分が呼んでいる本について聞かれるのが嫌いな事を思い出した。椿は日葵も同じタイプの人間であるという可能性を全く考慮していなかった自分が嫌になった。

「えっと、井上靖さんって分る?」

「あ、闘牛の」

「え、分るんですか?」日葵が驚いたように声を上げた。

「私も井上靖好きだよ。内容も面白いし、文体も読みやすくて」

「はい、そうなんです。読みやすい文体で、登場人物達の心理描写が丁寧に描写されていてとても面白いんです」

「それじゃあ、あれはもう読んだ? えっと――」

 その後、椿と日葵は大いに盛り上がり、彼女等の読書談義は昼休みが終るまで続いた。


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