第16話

  十九


 匠吾は作業台の前に座り、目の前の作品に地彫りを施していた。地彫りとは、模様の周囲の地金を鏨で彫り、細かい模様を刻み込む作業の事である。地彫りと一纏めに言いはするが、これにも幾つもの細かい技法が存在しており、地彫りでどの様な模様を刻むかによって、主となる模様の見え方も変わってくる。そのため、この地彫りの作業の出来によって、作品の善し悪しが決まると言っても過言ではない。ある意味では最も重要な作業であった。伝統的な地彫りの技法を一つ挙げるとすれば、魚々子彫りなどがある。しかし、このような伝統的な技法に限らず、個々の彫金師が編み出した極時の技法もあり、そういった技法は他の彫金師が一朝一夕で身に着けることの出来るものではなかった。独自の地彫り技法は、作品に唯一無二の個性を与えると共に、作品を作り上げた彫金師の自身の個性をも主張する。

 匠吾は自身の身体に染みついたリズムで鏨を叩き、地金に緻密な模様を刻み込んでいく。今彼が施している模様にも、彼が独自に編み出した技法が用いられている。長年の経験によって培われた技術と勘を頼りに、光の反射までも計算し、的確に鏨を打ち付けていく。

 千鳥達が朝焼けを求め、囀り始める頃、匠吾はようやく仕事を終え、席を立った。その頃には、腰やら首やら手首やら、あちこちが痛みを発していた。匠吾自身にその自覚はないが、彼は重度のワーカーホリックであった。それこそ、仕事の休憩と称して、別の仕事を始めてしまうような狂った人間である。彼が昼間定期的に露店を開く様になったのには、周囲からの強い勧めがあったからだった。それが彼を少しでも休ませるための、周囲の人間からの計らいであることを彼は知らない。

 仕事を終えた彼は台所へと赴き、朝食の準備に取り掛かった。それを終えると、彼は氷と炭酸水、ウィスキーを取り出し、ハイボールを作り、それを一気に飲み干した後、また一杯のハイボールを作る。今度は一気に飲み干したりなどはせず、ちびちびと酒を飲みながら、先日買った煙草の余りを一本銜えて火を付けた。

 仕事終わりに紫煙をくゆらせ、酒を飲む。この瞬間が彼にとっては抗いがたい、至福の時間だった。今ある分の煙草を吸い終えたら、今度こそ禁煙しようと彼は誓うが、彼がこの至福の時間を本当に手放すことが出来るのか、甚だ疑問である。

 グラスの中のウィスキーの嵩が半分ほどになったのを見計らい、彼は煙草の日をもみ消し、家の雨戸を開けに行く。外は薄暗かったが、東の空は既に赤く燃え上がり始めていた。

 寒さにかじかむ手をすり合わせながら、台所に戻ると、彼は残りのウィスキーを飲み干した。後、自身の寝室へと向かい、そのまま床に就いた。

 次に彼が目を覚ましたのは、昼前の事であった。当然だが、既に椿は投稿した後である。彼は欠伸を嚙み殺しながら、朝食をレンジで温めている間に、口を水でゆすいだ後、冷蔵庫から取り出した烏龍茶を飲んだ。朝食を温め終えると、彼は居間まで向かうのを億劫に感じ、台所でそのまま朝食を済ませた。

 皿を洗い、歯磨きと洗顔を済ませ、洗濯機を回した後、彼はその日の仕事に取り掛かることのした。先ずは仕事道具の手入れから始める。鏨をバーナーで炙り、やすりで削っていく。その後また火入れをして、鏨を整える。一本終ったら、また一本とその作業を繰り返していく。一口に鏨といっても、幾つもの種類があり、彫金師はそれを用途に応じて使い分けるのだ。数百本を越える鏨を所持している彫金師は珍しくなく、中には千本近くの鏨を所持しているものさえいるのだ。

 当然匠吾も数百本を越える鏨を所持していた。とはいえ、流石にそれら全ての手入れをしていては、仕事をする時間がなくなってしまうので、彼はその日の仕事で使う鏨の研磨だけ行っていた。

 匠吾は鏨を磨きながら、それとは全く関係のないことを考えていた。それは先日椿と交わした会話の内容であった。間違いを犯さないことよりも、正しくあろうとする意思が大切だと、彼は椿に対して偉そうに講釈を述べた。そのことを思い出すと、彼は溜息を吐かずにはいられなかった。その言葉自体は彼の本心からの言葉であり、間違っているとは思っていない。なら、何が問題かというと、その言葉を放った人間が匠吾であることに他ならない。不思議な事に匠吾の悩みの多くは、その原因を辿っていくと大抵彼自身に帰結するのだ。

 正しくあろうとする意思が大切、偉そうにそんな台詞を吐いておきながら、匠吾は正しく在ろうとすらしなかった人間なのである。そんな人間の言葉に、いったいどれほどの説得力があろうか。

 もうずいぶんと前の事である。その夜は雪の降りしきる、凍てつくような夜であった。匠吾が何時ものように、作業部屋で仕事をしていると、家の固定電話がけたたましく鳴り響いた。こんな夜中に一体誰だろうか、などと訝しみながら彼が電話に出ると、それは近くの交番からの電話であった。

 彼が急いで交番まで出向くと、そこには不貞腐れた顔の明美の姿があった。そこで匠吾は初めて、娘が家を出たっきり、帰ってきていないことを思い出した。妻がなくなってからというもの、娘は家に寄り付かなくなり、食事も外で済ませてくることが多くなっていた。

 匠吾はそんな明美に対して、何も言えなかった。娘の意思を尊重していたと言えば、聴こえはいいかもしれないが、その実匠吾はただ単に娘に無関心なだけであった。彼は既に娘との関係の修復を諦めていたのだ。もしも、出来うるだけの最大限の努力をしたうえで、匠吾が諦めていたのなら、彼にもまだ同情の余地があったかもしれないが、彼はそれすらもしなかったのだから、最早救いようもなかった。彼は自分を拒絶する娘に対して、何も思っていなかったのだ。ただ最低限同居人としての気遣いと無干渉を保つだけで、それ以上の保護者としての責務を果たそうとはしなかった。だから、彼は娘が帰ってきていなくても、気付くことが出来なかった。

 交番にいた明美のあちこち傷だらけで、衣服も泥で汚れていた。また娘の顔はやや赤みを帯びていたが、匠吾は初めそれが寒さによるものだと思った。しかし少し近付いたところで匠吾は、直ぐに彼女がアルコールの臭いを醸し出している事に気が付いた。

 明美は匠吾に一瞥もくれず、何も喋ろうとはしなかった。匠吾もまた彼女に対して、何かを言おうとはしなかった。代わりに同席していた警官が、事情を説明してくれた。といっても、節召された内容は単純明快であった。夜中に明らかに未成年の少女が傷だらけになって、酒瓶を煽っているのを見かけたから、そのまま補導したとのことだ。

 それから明美から事情を聴いた警官は心底呆れたという。なんでも彼女は些細な事から友人と喧嘩になり、その喧嘩に負けたその憂さ晴らしに酒を飲んでいたそうだ。最早匠吾は警官に謝るほかなかった。

 警官は明日の朝にでもこの件を学校に報告すると言っていたが、匠吾はそれを受け入れた。こんな時間まで外出していた事に関しては、保護者である匠吾の監督不行き届きであったが、飲酒をしていたことに関しては、匠吾も庇いようがなかった。

 交番を出た後も、二人の間に会話はなかった。最早この父娘は互いに何も期待していなかったのだ。その後、明美は三週間の停学処分を受けた。

 その間明美はこれまでの荒れた生活が嘘のように大人しくなっていた。しかし、家の中に会話らしい会話は終ぞ生まれる事は無かった。もしも匠吾が本当に正しく在ろうとする大人であるのならば、彼は多少強引にでも娘と向き合うべきだったのだ。しかし、彼はそうしなかった。彼は娘に対して、何を話しても無駄な相手、向き合っても仕方のない相手と、勝手に見切りを付け、諦めていたのだ。

 かつて彼の師は、彼を他人のために心を削れる人間だと評した。確かにある一時までは彼はそのような人間であった。彼の中で何かが変わったのが、何時の頃だったかは定かではない。しかし、切っ掛けになったのはやはり妻に先立たれた事だろう。妻の葬儀を終えた時、彼は安どしていた。しかしその時に彼が感じたのは、解放感などという生易しい感情ではなかった。その時彼が感じたのは空虚な脱力感であった。その感情の根源は、妻が亡くなったことに起因するものではなかった。それよりも遥か以前から、彼が心の内に抱えていた、そして彼が目を逸らし続けていた虚無こそが、その正体であった。妻の死に際し、微塵の寂寥も悲哀もない時分に気が付いた時、彼は己が内に潜む虚無を初めて明確に自覚したのだ。それと同時に、これまで彼について回っていた疑問が氷解した。彼は家族を物として扱ってはいたが、その実彼は家族を大事なものとは思っていなかったのだ。芸術など解さない金持ちが権威のために、何百万もする名画を飾るように、彼は愛情など分からないのに、己が真面な人間であることを照明するために、ただ家族を大切にしてきただけなのだ。

 それを自覚してしまった時、きっと彼は馬鹿らしく思ってしまったのだ。誰かを愛する振りをすることに、誰かを大切な振りをすることに、彼は嫌気がさしてしまったのだ。それでも彼は、表面上は娘に対してそれまで通りに接していた。娘は母が死んだというのに、これまでと何も変わらない父に対して不信感を抱いたのだろう。娘は匠吾を避けるようになった。しかし匠吾はそんな娘の態度を気にしなかった。彼には最早そんな娘と向き会えるだけの気力は残っていなかったからだ。何時もと何も変わらない、平然とした態度を取り繕う事で精一杯だった。

 娘はどこまでも機械的な父の態度が理解できず、嫌気がさしたのだろう。気付けば、二人の間には大きな溝が出来ていた。その溝を匠吾は埋めようとはしなかった。彼は家庭を保つことに疲れていたのだ。

 それが人として、親として間違っているということは彼も重々承知の筈であった。しかし、ならなぜ彼は、娘と向き合おうとはしなかったのか。決まっている、それが一番楽な選択だったからだ。どんな言い訳をしたところで、結論はそこに行きつく。彼は無干渉という暗黙の了解に甘え、親としての責務を放棄して、娘から逃げたのだ。

 それは匠吾の弱さであり、間違いであり、罪である。彼は正しくあるべき時に、正しく在ろうとしなかった。あまつさえ、最も正しさとは懸け離れた間違いを犯した。

 そんな人間が正しく在ろうとする意思が大切など、良くもぬけぬけと抜かせたものだと、彼は自身の面の皮の厚さに嫌気がさした。

 師は彼の心を鋼と称した。しかしその鋼が、もう随分と前に錆びついていたことまでは、彼の師も気が付いていなかったようだ。

 研ぎ終えた鏨を眺めながら、匠吾は思う。道具はどれだけ刃こぼれし、錆びつこうが、人が手入れをすれば、また息を吹き返す。しかし人の心はどうだろうか。一度腐った人の性根というものは、果たして治るものなのだろうか。

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