第10話
十三
飛んできたバレーボールをトスで打ち上げると、次の瞬間にバレーボールが勢いよく椿の顎を打ちぬいた。アッパーカットを食らったみたいに身体を仰け反らせた椿の視線の先には、その原因となった憎きバレーボールの姿があった。このままだと目の前のボールが、自分の顔面に落ちて来ることに彼女が気付いた時には、既にボールは彼女の眼前に迫っていた。
彼女が諦め、ボールを顔面で受け止める準備をしていると、横から伸びて来た手が、勢いよくボールを弾き、その軌道を変えた。
拍子抜けしたように、態勢を立て直すと、ちょうど向こう側のコートに落下したボールの姿を捕らえた。それから、審判の笛の音が聴こえ、試合が終わった。
「大丈夫?」
「多分、大丈夫。ありがとう、佐々木さん」
椿は答えながら、今しがた自分を救ってくれた人物の方へと振り返った。
「前から思っていたけど、もしかして椿ちゃんって、運動音痴?」
「まあ、否定はしないよ」
会話をしながら、椿と佐々木はコートの外へと移動する。椿はつい先週、学校生活における自分の在り方を見つめ直したばかりであったが、未だに佐々木との交流は続いていた。というのも、佐々木は椿から話し掛けずとも、自分からぐいぐい話しかけて来るのだ。だからといって、露骨に避けても、それはそれで周囲に悪印象を与えてしまうだろう。何よりも、佐々木を傷付けてしまうのは、椿も本望ではない。
「なんか意外だね」
「そう?」
「うん、椿ちゃんって、運動が出来るイメージだったから?」
「それはまた、なんで?」
体育館の壁に背を付け、椿が問う。
「だって、二人乗りの自転車をバランスも崩さずに凄いスピードで漕いでたし、この間のマラソンの時も結構前の方を走ってたでしょ」
「あー……でもまあ、走るのが早い人がサッカー上手いとは限らないし、ボディビルダーみたいに筋肉ある人が、皆格闘技が上手いとは限らないじゃない」
「確かに」
「身体を単純に動かすだけならともかく、スポーツとかだと、どうしても技術的なものが必要になってくるから、苦手なんだよね」
「へえ。じゃあ、運動じゃなくて、スポーツが苦手なんだね」
「うん、そんな感じ」
そこで、ふと椿は気になって訊いてみた。
「佐々木さんは苦手なこととかないの?」
「勉強」
「即答だったね。って、そうじゃなくて、スポーツとかの話だよ」
「うーん、スポーツはどれも楽しいからね。苦手な物とかはないかなー。あっでも、バスケとか、どうしても身長がある方が有利だからね。好き嫌いは別として、得意ではないかもしれないね」
スポーツはどれも好きというのは、如何にもこの快活そうな少女らしい答えだった。しかし、それならば、何故この少女は運動部に入らなかったのだろうか、と椿は不思議に思い、そのことを訪ねてみた。
「あははは、それ、よく聞かれるよ。みんな、私が美術部だって言うと、不思議そうな顔するんだよね」
「ごめん」
「別に怒ってないから平気だよ。でも実際、私にもよく分かってないんだ」
「分からない?」
「うん。私、基本的に嫌いなものがないんだ。勉強は、まあ例外として、大抵のものは好きなんだよ。運動も音楽も演劇も好き。でも、絵を描くことだけは、他の好きとは違う、特別な好きだったんだ。なんで絵だけが特別だったのかは、私にも分からないけど、とにかくこれじゃなきゃダメだって、そう思ったんだ」
その感覚は、椿にも少し分る気がした。本を読むのが好きでも、小説家になりたいと思ったこともなければ、映画が好きだからと言って、映画監督になりたいと思ったこともない。音楽もそうだ。ただ一つ、絵だけが椿にとっての特別な何かだった。しかし今の椿には、それを口に出して、共感することは出来なかった。そんな資格が自分にはないような気がしたのだ。
「本気でやってる分だけ、辛い事や大変だと思う事は多いけどね。それこそ、苦手だと思う事も多いよ」
「へえ、例えば?」
「人物画が苦手かな」
「どうしても、人間は動いちゃうからね。石膏像を描くのとはやっぱり違うよね」
「それもあるけど、元々風景や動物を描くのが好きで絵を描き始めたから、どうしても人を描く練習は後回しになっちゃうんだよね」
とそこまで語ったところで、佐々木は「っあ」と何か思いついたように声を上げた。その横顔に、何故だか椿は嫌な予感がした。
「でも椿ちゃんは描いてみたいかも」
嫌な予感が的中した。
「椿ちゃん、絵のモデルになってよ」
「……嫌だけど」
「そこをどうか!」
佐々木が顔の前で両手を合わせながら言った。
「絶対にイヤ」
「絶対に可愛く描くから!」
「それなら、もっと可愛い人に頼みなよ」
椿がそう言うと、佐々木はきょとんとした顔をした。
「椿ちゃんは可愛いよ、豹みたいで」
「……豹って可愛いの?」
「ジャガーとチーターも可愛いけど、私は豹の方が可愛いと思うよ」
「……そう、なんだ」
つくづくこの娘の感性は分からない。
「だから、モデルになってくれない? お願い!」
何がだからなのだろうか。
しかし、困った。佐々木の何が性質が悪いかというと、この娘は本当に顔は良いのだ。背の低い小動物みたいな娘に、必死な眼差しで下から見上げられてしまうと、その願いを断っている自分の方が、なんだかとんでもない極悪人のように思えてきてしまう。
「……分ったよ」
気付けば、椿は溜息を吐いて、そう呟いていた。我ながらあまりにチョロ過ぎる、と椿は自分の意志の弱さに嫌気がさした。
「ほんとう! ありがとう、椿ちゃん‼」
しかし佐々木に、満面の笑みで元気一杯の声でそう言われると、悪い気はしなかった。
「あ、もちろん、裸婦じゃなくていいからね!」
「当たり前だろ」
椿は半ば本気で佐々木の顔面を鷲掴みにしてやろうかと思った。そのような邪悪な思考をしていたが故に、天罰でも下ったのか、遠くから飛んできたバレーボールが、椿の頭へとぶち当たった。
「……っぐ!」
「だ、大丈夫⁉」
「……やっぱり、球技は嫌い」
その日匠吾は、午前中に車を出し、家具屋へと赴いていた。若い家具デザイナー兼木漆工芸家が営むその店は、家具の設計から製造、販売まで請け負っているという店だった。その分値は張るが、一部のマニアや常連からは高い評価を受けている。彼がこの店に訪れたのは、家具を買いに来た……という訳ではなく、以前に製作依頼を受けていた箪笥の金具を納品するためであった。
「いやあ、相変わらず、素晴らしい出来ですね。流石は伊沢匠吾といったところですかね」
店主である青年が匠吾に向かって煽てるように言ったが、それに対して匠吾は不機嫌そうに顔を顰めた。
「……号で呼ぶな」
伊沢匠吾、それは師匠が匠吾を一人前の彫金師として認めた際に、彼に与えた号であった。その号は匠吾がかつて捨てた誇りの象徴であり、彼に重く圧し掛かる咎の一つでもあった。その号を作品に刻む度に、他者からその号で呼ばれる度に、彼は陰鬱な感情を抱かざるを得なかった。
伊沢一門十六代目当主伊沢鉄山、それが匠吾の師の名であった。匠吾は数多くいた鉄山の弟子の中で、唯一伊沢家以外で伊沢を名乗ることを許された弟子だった。この称号を得るまでに、彼が一体どれだけの兄弟弟子達を蹴落としてきたかを考えれば、彼が暗鬱な感情を抱くのも当然の断りである。そして、何よりの不幸は、彼の兄弟子の中には伊沢鉄山の実の息子がいたという事実だ。匠吾よりも長く、ずっと近くで父の背中を追いかけていたあの兄弟子が、目の前で弟弟子に伊沢の号を与えられるのを見て、何を思ったかなど、最早語るまでもない事だろう。
匠吾はこの兄弟子を尊敬していた。誰よりも愚直で真面目に彫金と向き合い、伊沢の姓に恥じぬようにと、努力を重ねてきた男である。そんな彼の努力も誇りも全て否定し、打ち砕いたのが匠吾だった。だから、匠吾は伊沢一門を抜け、独立した彫金師としての道を歩むことに決めたのだ。
匠吾が一門を抜ける際、鉄山は匠吾を引き止めはしなかった。きっと師は職人である自分よりも、父親としての自分を優先したのだろう。それでも、鉄山が姪である忍を紹介したのは、匠吾に十七代目の座を継がせることを諦めきれなかったためか、或いは何れ産まれる匠吾と忍の子にでも伊沢一門を当主にしたかったのかもしれない。どちらにしろ、師は最後まで匠吾の才を諦めきれなかったのだ。結局、彼の兄弟子が十七代目の座に就いたのは、鉄山が肺炎で亡くなった後のことであった。
そんな過去があるため、匠吾はあまり伊沢の号を人に呼ばれることを好ま師く思っていなかった。
「またまた御謙遜を。貴方の実力は今の伊沢家の……」
店主の言葉を匠吾は重く低い声で遮った。
「くどい」
それを見て、店主は曖昧な笑みを浮かべ、肩を竦めた。
「これは失礼しました。ですが、貴方はもう少し、自分を誇った方がいい。貴方は彼の名工伊沢鉄山に認められた男なのですから。少しくらい胸を張ったって、誰も文句は言いませんよ」
店主の言葉を聞き、匠吾は鼻で笑った。
「高々数十年の積み重ねで、何を威張れるというのだ。所詮一人の人間の研鑽など、先人達が繋いできた歴史の一端に過ぎない。俺が積み上げてきたものも、何れは次の世代が抜いていく。人が真に誇れるものがあるとすれば、連綿と受け継がれてきた歴史だけだ」
芸術家のように名など残らずとも、確かな技術を後世に伝えた職人達がいた。そんな無名の名工達の事を思えば、匠吾は少し名が知れている程度で、何かを威張ろうと言う気にはなれなかった。
しかし、そんな彼の言葉に対して、店主は先ほどまでの軽薄の笑みを引っ込め、無表情に匠吾を見つめた。
「……あんた、そいつは傲慢だろう」
当然の反応ともいえるだろう。匠吾の言葉は一見謙虚であるようにも聴こえるが、自分の域に達していない者、先人の域を越えられなかった者、歴史の一端にすらなれなかった者、その全てを否定し、蹴散らす様な残酷な言葉でもあった。
「それを傲慢だと思うのなら、お前は職人に向いていない」
言いながら、匠吾は目で語った。文句があるのなら、自分の仕事に見合うだけの作品を作ってみろ、と。その姿に、いよいよ店主は不愉快そうに顔を顰めた。
「俺はあんたの仕事に敬意を払っている。だが、あんたは嫌いだ」
「知っているさ」
「あんたは受け継がれてきた歴史こそが、誇れるものだと言ったな。だったら、あんたは伊沢家の当主の座に就くべきだったんだ。あんたは受け取るべき歴史のバトンを、自らの手で放り捨てたんだ」
「ああ、だからこそ、俺に誇れる物など何一つないのさ」
それだけ言うと、匠吾は店主に背を向けて歩き始めた。
「あんたはいつだってそうさ。才能があって、何でも出来て、何でも手に入れられた癖に、自分には何もないと嘯く。俺はあんたが嫌いだ」
背後からそんな声が聞こえたが、それに匠吾は何も答えなかった。
車を走らせながら、匠吾の口角は自然と上がっていた。店主との会話は、終始剣吞な空気のまま終ったが、匠吾はあの店主の事を気に入っていた。彼は野心のある若者が嫌いじゃなかった。我が強く、反骨精神の塊のような若者ならば、猶良い。その点において、あの店主は叩き甲斐のある相手だった。あの男なら何れ、匠吾の作品では釣り合いにならないほど、素晴らしい作品を作ることが出来るだろう。あの男にはそれだけの伸びしろがある。かの有名な六角柴水が菊蒔絵螺鈿棚を考案したのは、二十五歳の頃だったという。
才能のある若者というのは、それだけで見ていて楽しいものだ。
しかしそんな思いとは反し、匠吾はどこか物足りなさを感じていた。その感情は、やはり彼が彫金師であり、あの若者はあくまで木漆工芸家であるという点に起因するのだろう。見ていて楽しい若者ではあるが、張り合いのある相手ではないのだ。根本的なところで、彼等は戦っている土俵が違うのだ。これは時計職人の厳時郎にも言えることであった。
厳時郎は匠吾にとって、間違いなく張り合いのある相手ではある。しかし、それは厳時郎が職人であるからではなく、彼の個人としての性格に起因するものだ。
だから彼はいつも空虚だった。後ろを振り返ってみても、自分を追い掛ける影など一つとしてない。かつて取った弟子達も、結局最後まで彼を追い詰めてはくれなかった。
しかし、それが彼に与えられた罰なのだろう。継ぐべきものを継がなかった罪に対する罰なのだ。選ぶ道を間違えたとは思わない。仮にそうだったとしても、今さら後悔などしても仕方がないことである。この空虚感は、彼が一生付き合っていかなければならないものなのだ。
それから匠吾は家には帰らず、商店街へと向かった。商店街にある青果店で適当な果物を買った彼は、その足で時計屋へと赴いた。彼が時計屋の戸を開き、店内へと足を踏み入れると、つい先日腰を痛めたばかりの厳時郎が時計を弄っている姿が目に入った。
「なんだ、もう腰はいのか?」
「ふん、この程度のことで、いつまでも仕事を休んでいられるか」
などと言っていたが、彼が座る椅子の横には、杖が立掛けられていた。
「お医者様が言うには、ずっと寝てばかりいるよりは、出来るだけ普段通りの暮らしをして、身体を慣らしていった方がいいらしいよ」
と店の奥から顔を出しながら刻音が言う。
「そうかい。ま、こいつは見舞の品だ」
そう言い、匠吾はカウンターの上に先ほど果物屋で買って来たフルーツを置いた。
「ふん、余計なお世話だ」
「ありがとう、匠吾さん」
「それじゃ、用はそれだけだ」
そう言い、匠吾は時計屋を出ようとしたところで、
「おい」
「なんだ?」
「そこに余ってる懐炉がある。もってけ」
「……ふん、余計なお世話だ」
などと言いながら、匠吾は懐炉を一つ手に取り、店を後にした。
いつものように露店を広げ、匠吾はぼんやりと道行く人を見ていた。この頃は、行きかう人々の姿も厚着が目立つようになってきた。暖かそうな外套やマフラーを身に着け、寒さから逃れるように、人々は速足で匠吾の前を通り過ぎていく。商店街には、いつの間に憑りつけたのか、光の灯っていない電飾が目立つようになっていた。
十一月も既に終わりに差し掛かっている。あと一週間もすれば、十二月になり、それも過ぎれば、新年だ。とはいえ、だからどうしたという話なのだが。今さら一年の終わりに感慨深さを感じるような歳でもない。老人はただ過行くもの見つめるだけだった。などと考えている時に限って、立ち止まり、老い耄れの店をひやかしていく物好きが現れる。
「いらっしゃい」
匠吾が無愛想にそう言えば、フードを被った客人は言葉に窮し、軽くお辞儀をして、店頭に並ぶ商品を見つめ始めた。フードの隙間から覗く前髪の端には、花の意匠が施された髪留めが見え隠れしていた。
「……これ、何ですか?」
客人は商品の一つを指差し、恐る恐ると言った様子で匠吾に問い掛ける。それは楕円形の黒いプレートに金銀の花びらの意匠が施された物だった。
「そいつは着物の帯留めだ」
もうじき初詣や成人式もある。この時期になると、自ずと和服に合うような小物制作の依頼が増える。一月ほど前から匠吾の下にも、何件か依頼が舞い込んできている。この帯留めは、サンプルとしてwebサイトに乗せるために作ったものだ。
「……手に取ってみても、良いですか?」
「構わん」
匠吾が言うと、客人はその帯留めを手に取った。それから少し意外そうな様子を見た後、指先で帯留めを突いていた。
「これ、金属で出来てるんですか? てっきり、木か何かだと」
「表面には漆を塗っているが、地金には鉄を使っている」
それは布目切りといい、地金に縦、横、斜めと細かい格子状の切れ込みを入れ、そこに切り出した薄い金や銀の板を嵌め込む、伝統的な象嵌技法で作られたものであった。金属をはめ込んだ後は茶渋で防錆処置をした後、漆焼きをし、最後に表面を磨くことで完成される。
匠吾の返答を聞くと、客は興味深そうに、帯留めを見つめていた。
「……綺麗」
「京都の象嵌師には負けるがな」
などと匠吾は思ってもいないことを口にした。
客人は暫くの間、帯留めを興味深げに眺めていたが、やがて礼を言い、立ち去っていった。その帯留めは、少女が買うには少し高すぎたのだ。それから何人か酔狂な客が店を冷やかしにやってきたが、結局その日は何も売れなかった。もう少しクリスマスらしい商品でも、作ってみようかなどと考えながら、彼は商店街を後にした。
――椿ちゃんのことは描いてみたいって思えたんだ。
椿は帰りの道すがら、佐々木に言われた言葉を思い出していた。思えば、この頃の椿は、何かを描こうという気持ちばかりが先行し、何を描きたいかということを全く考えていなかったように思う。そもそも椿が絵を描いていたのは何故か。それは絵を描くのが楽しかったからではないのか。だからこそ、彼女は絵を描くのが好きだったからなのではないか。
そう考えると、椿が絵を描けなくなったのも頷ける。彼女は一番大切な自分自身の気持ちを無視していたのだ。自分が何故を絵を描きたいのか。自分が何を描きたいのか。先ずは、その答えを見つける必要があったのだ。
「……とはいってもなあ」
彼女は溜息を吐き、灰色の空を見上げた。彼女には描きたいものが一つもなかったのだ。今の彼女にあるのは、何かを描かなくてはいけない、そんな強迫観念じみた感情だけだった。
「まあ、これで一歩前進か」
問題の要点は見つかったのだ。今はそれを素直に喜ぼう。椿にはあまり認め難い事実かもしれないが、佐々木との交流は、確かに彼女に良い影響をもたらしていた。
しかし、だからといって、急に描きたいものが見つかる訳もない。
今はゆっくりと、描きたいものを探していくべきだろう。これまでが少し焦りすぎていたのだ。そう思うと、椿は少しだけ肩の荷が下りたような気がした。しかし、それと同時に彼女の内から沸々と何か淀んだモノが込み上げてくる。それは自分自身への怒りか、自分自身への嫌悪か。淀みの底から現れたそいつは椿に問う。――今さら、お前にそんな権利があるのか。――あの程度の事で、折れてしまったお前に、今さら絵と向き合う資格があるのか。――お前が傷付けた誰かは、今も絵を描けずに苦しんでいるかもしれないのに、お前はまたのうのうと絵を描こうというのか。
その思考から逃げようと彼女は歩を早めたが、どれだけ歩を早めようとも自分の中から聴こえる声から逃げる事は出来ない。気付けば、彼女は無我夢中で走っていた。脳に回す酸素を減らし、頭蓋の中で鳴り響く声を少しでも黙らせようとしたのだ。そうして、どれだけ走った頃か、気付けば、彼女はいつかのゲームセンターの前までやってきていた。
逃亡の象徴、己の弱さの象徴、安息のぬかるみ。彼女は自分の情けなさに唇の端を嚙みながら店内に入る。とそこで、
「っよ。また会ったな、不良ちゃん」そんな声が聞こえてきた。
振り向けば、ジュースの缶を片手に泉が立っていた。
「うん、久しぶり」
「久しぶりって程でもないけどね」
「でも不良は心外かな」
「この辺りじゃ、中学生が下校途中にゲーセンに寄るのは、十分に不良の用件を満たしているよ。先公に見つかったら、間違いなく怒られる」
「それは、気を付けないとね」
ただでさえ、既に教師から目を付けられるようなことをしてしまっている。とはいえ、折角ここまで足を運んだというのに、何もせずに帰るのも勿体ない。次から気を付ければよいだろう。今日は一先ず、ゲームを楽しもう。
「今日もメダルゲームか? それともまたレースでもする?」
椿は僅かに思案した後、首を横に振った。
「今日は少し、違うゲームをしてみようと思う」
こちらに転校してくる以前から、椿はゲームセンターには良く通っていたものの、遊ぶゲームと言えば、メダルゲームかレースゲームばかりであった。しかし、今の椿は何でもいいから刺激が欲しかった。煩わしい自己嫌悪を忘れられるような、そんな刺激を彼女は求めていた。
「へえ、何するの?」
「泉は普段何をして遊んでいるの?」
「あー、私はもっぱらレースゲームだけど、たまにリズムゲームなんかもしてるかな」
「リズムゲームっていうと太鼓のやつ?」
「いいや、ダンス系のやつで、流れて来る譜面に合わせて、足元のパネルを踏むゲームだよ。知らない?」
「へえ、そんなゲームがあるんだ。それじゃあ、そのゲームをやろうかな」
「決まりだね。それじゃ、ついてきて」
そう言うと、泉はジュースの最後の一口を飲み干し、自動販売機横のゴミ箱へと投げ入れた。 泉に付いて行くと、 モニターの前には台があり、台にはそれぞれ左右上下の矢印が刻まれたパネルが敷かれていた。台は二つ並んでおり、泉の説明によると、一人で四枚のパネルを使うモードと八枚のパネルを使うモードがあるらしい。二人プレイの際には、一人四枚ずつのパネルでプレイするそうだ。
椿は泉と共にモニターの前に並び立つと、泉に聴いた。
「初心者でもやりやすい曲とかってある?」
「うん。Valkyre dimensionって曲がおすすめだよ」
「それじゃ、それをやってみようかな」
椿は泉の言葉を疑わず、その曲を選択することにした。
しかし、実際にプレイしてみると、
「……! ちょ、これ、めちゃくちゃ難しいじゃない⁉」
最初の数秒はゆったりとしていたが、次の瞬間、馬鹿みたいな量の譜面が流れていきた。
「はははは、敵の言葉を鵜呑みにする方が悪いのさ! ほら、次の譜面が来るよ」
「こ、この、野郎……!」
結果は言うまでもなく、椿の惨敗だった。
「……なんなんだよ、あの曲、頭おかしいだろ」
「あっはっはっは、言えてる。私も未だにクリア出来てないからねー」
「そんなもの、素人にやらせるなよ」
「でも、動きは結構よかったと思うよ」
「そう?」
「うん。何か運動とかやってんの?」
「まあ、たまにランニングしてるくらいかな」
椿がそう言うと、泉はその場で硬直した。
「どうかしたの?」
「……椿って、もしかして陸上部?」
固い声で問う泉に対して、椿はかぶりを振って答える。
「まさか。第一、運動部に入ってたら、こんな時間にゲーセンなんかにこれないでしょ」
「それも、そうか」
その声はどこかほっとしたようだった。
「……私が陸上部だと、何かまずい事でもあるの?」
「いや、別に何もないよ」
なら、さっきの態度は何だったのだろうか。椿は自然と首を傾げていた。そんな彼女を見て、泉は溜息を吐いた。
「私さ、実はあんたが通ってる学校の陸上部なんだよね」
「そうだったの?」
「そ、だからもしも、あんんたが陸上部だったら、気まずいなーって、そう思っただけだよ」
「へえ、そうだったんだ」
答えながら、椿は多少驚いていた。身長から泉は高校生くらいと思っていたものだから、椿と同じ中学生だったことが、意外だったのだ。
「……なんか、訊いてこないの?」
「訊いてほしいの?」
「いや、別に。ただ、こういう話したら、普通は何か訊いて来るんじゃないかなって」
「あー、まあ、私も似たようなもんだからさ」
椿は頭を搔きながら言った。
「どういうこと?」
「まあ、そのまんまの意味だよ。こっちに転校してくる前の話だけど、色々あって夏休み頃から部活サボり気味になって、ゲーセンに入り浸る様になってたんだ。夏休み明けた後も、学校には行ってたけど、部活には顔出してなくてさ。だんだん、学校に行くのもしんどくなっていってね。多分、もしもあのままあの学校に通っていたら、私も不登校になってたんじゃないかなって。それを考えると、あまり踏み込んだこと訊こうって気にはなれないんだよね」
「……私も、その色々ってヤツについては触れない方が良いんだろうね」
「まあ、そうしてくれると助かるよ」
話したところで、相手も反応に困るような話である。
それから三回ほど同じゲームをプレイした後、椿は帰宅した。
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