第9話
十一
日曜日の昼下がりのこと、二人の若い男女が、匠吾の家を訪ねてきた。匠吾は以前にある品を作る様にこの男女から依頼されており、今日はその品を受け取りに来たのだ。匠吾が完成したその品を見せると、彼等はたいそう満足した様子で、その品を受け取り、匠吾に礼を言って去っていった。
「今のお客さん?」
彼等が去った後、椿が訊いてきた。
「ああ、結婚指輪を作ってくれと頼まれていたんだ」
「結婚指輪……そう言うのも作っているんだ」
「たまにだがな」
昔から、知人に結婚指輪や婚約指輪の作成を依頼されることは多々あったが、最近では、若い知人が減り、そのような依頼も少なくなったが、今でも銀婚式用の指輪を用意してくれという依頼はたまにある。また知人の息子や孫などが噂を聴きつけて、匠吾に結婚指輪を依頼することも稀にだがあった。先ほどの二人も、匠吾のかつての弟子の娘とその恋人であった。
匠吾はこれまで、四人の弟子を取ったことがある。一人目は才能に恵まれ、自信家な男だった。自惚れやすいところがあり、教育に苦労したが、今では東京で店を開くほど立派に成長した。二人目は不器用だったが、努力家で真面目な男だった。そんな彼の熱意に応えようと、匠吾も根気強く技術を教えた甲斐もあり、彼も立派に成長し、今は一人目の弟子と共に働いている。
三人目の弟子は女で、それなりに見込みはあったが、物作りの才よりも、商才の方があるようだったので、そちらの道を進めてみると、大手のジュエリーメーカーに就職し、そこでバリバリと出世し、やがて仕事関係で出会った男と結婚した。その時も匠吾が結婚指輪を作ってやった筈だ。先ほどの男女の女の方の親というのが、この三番目の弟子だった。
四人目の弟子を取ったのは十年くらい前だっただろうか。突然、高校生くらいの青年が匠吾の元に訪ねてきて、弟子にしてくれと申し込んできたのだ。何時もぼんやりとしていて、何を考えているのか分からない、掴みどころのない青年だった。学べることを学べるだけ学ぶと、修行してくると言って、海外に旅立っていった。帰国後に一度だけ会ったが、軽く話すと土産だけおいて、またどこかに旅立っていった。その後は一切音沙汰はないが、あの男なら今もどこかで元気にしているだろうと、妙な安心感があった。
「……しかし、あの小さかった子が結婚か。時の流れは早いものだ」
呟いた後、匠吾はちらりと椿の方へ視線を送った。この数十年と、様々な人間の成長を見届けてきた匠吾であったが、自分にまさかこんな大きな孫がいたなんて、思いもよらなかった。流れる時の中で、匠吾は多くのものを見てきたつもりだったが、椿を見ていると、自分はそれ以上に多くのものを見落としてきたのだと、実感させられる。
「ん、なに?」
椿が匠吾の視線に気付き、振り返る。
「いいや、何でもない」
だからせめて、この娘の行く末はしっかりと見届けてやらねばならないだろう。例え、全てを見届けてやることは出来ずとも、この残り短い命が尽きるまでは、そうしてやるべきだ。
などと思っておきながら、案外百まで生きたりしてな、と付け足すように考えてから、匠吾は商店街に向かう準備をして、家を出た。
商店街に着くと、時計屋の前でキョロキョロとしている刻音の姿が見えた。仕事の最中で出てきたのか、今日の彼女は、長く伸ばした髪をひっつめ髪にして、頭の後ろで縛っていた。
「おい、そんなところで何してるんだ」
匠吾が声を掛けると、こちらに気が付き、刻音が振り向いた。
「あ、匠吾さん。良かった、ちょうど今、匠吾さんのこと探していたんだ」
「俺を?」
「うん、実はお爺ちゃんが……」
「厳時郎に何かあったのか?」
まさか酷い病気でも患ったのだろうか。
「ぎっくり腰になっちゃって」
なんだ、ぎっくり腰か、とは匠吾も思わなかった。この年になると、ぎっくり腰も死活問題だ。治りが遅いというのもあるが、ぎっくり腰かと思っていたら、圧迫骨折やヘルニアだったなんて言う話もある。
「……最近、寒くなってきたからなぁ」
「うん。それで、お爺ちゃんを病院に送らないといかないから、匠吾さんに店番を頼みたんだけど」
「ああ、そういうことなら、任せておけ」
最近、腰痛に悩まされている匠吾にも、他人事のようには思えなかった。
刻音に連れられて商店街を出ていく厳時郎を見送った後、匠吾は念のため、帰りが遅くなるかもしれないと、電話で椿に伝えた。
「……しかし、ぎっくり腰か」
ぎっくり腰は本当に辛い。匠吾は自分も気を付けなくてはと思い、帰りに湿布を買ってから帰ろうと決めた。ただでさえ、昨年尿路結石になったのだ。二年連続で苦痛を味わうような破目にはなりたくない。
そんなことを考えていると、店の戸が開く音が聞こえた。
「いらっしゃい」
匠吾がぶっきらぼうに言うと、
「ありゃ、匠ちゃん、何してんの?」
そんな陽気な声が聴こえてきた。
「なんだ、ナベさんか」
ナベさん、こと鍋島淳一は御年七十二歳になりながらも、現役で畑仕事と酪農を続けているという傑物だ。匠吾よりも年上だというのに、その鋼の肉体は未だ衰えを知らず、活力に満ち溢れていた。数々の超人エピソードを持ち、飲み仲間達からは敬意と親しみを込めてナベさんと呼ばれている。
「おう。それで、匠ちゃんはこんなとこで何してんの? 厳ちゃんは?」
「ぎっくり腰で、さっき刻音に病院に連れていかれた」
「ありゃあ、それはご愁傷さまだ」
「そいつは今度、厳時郎に会った時にでも言ってやりな。それで、ナベさんは時計でも買いに来たのか」
「いやよう、ちょいと時計が壊れちまったみたいで、厳ちゃんに直してもらおうと思ってな」
そう言い、鍋島は腕時計を一つ匠吾に差し出した。
「ふむ、時計の修理は俺では、どうにもならんな。分った。後で厳時郎達が帰ってきたら、伝えておこう。この時計は預かっても構わないか」
「ああ、構わねえよ」
しかし、時計を匠吾に受け渡した後も、鍋島はその場を立ち去ろうとしなかった。
「他に何か御用でも?」
「ああ、来月にはクリスマスだろう。今年、うちの孫も中学校に入学したところだし、入学祝とは別に、今年のクリスマスは何か奮発したもんでも、送ってやろうかなと思っててな」
そうか、クリスマスか。匠吾はそんなイベントのことなどすっかりと忘れてしまっていた。
「そういうことか。なら、お好きに見て行ってくれ。何か目ぼしいものが見つかったら、呼んでくれ」
「せっかく、匠ちゃんがいることだし、匠ちゃんが選んじゃくれないか」
「そういうのを、俺が選んでしまっていいのか」
「おらが選ぶよりゃ、匠ちゃんが選んでくれた方が、よっぽどいいさ」
「……そうか。分った」
匠吾は立ち上がると、店内に置かれた腕時計に目を移す。
「クォーツと機械式の時計なら、やはりクォーツの方がよいか」
「ああ、そうだな」
値段的な問題もあるが、中学生が使うものなら、クォーツの方が何かと便利だろう。
「予算は、二万円前後くらいのものでいいか?」
「ああ、それくらいで頼む」
「お孫さんの誕生日は?」
「五月だけど、それがどうしたんだ?」
匠吾はその言葉を聞き、時計を二つ取り出して、帳台の上に乗せた。
「左はお孫さんの誕生日である初夏をイメージして作られた時計、右はクリスマスらしく、冬をイメージして作った時計だ。好きな方を選んでくれ」
先ず、左の初夏をイメージして作られた腕時計には浅葱色の文字盤が使われていおり、見るものに爽やかさ与える。更によく見れば、腕時計のベゼルと裏面には、それぞれ互いの尾を追いながら、弧を描いて飛ぶ二羽の燕の姿が彫られていた。
続いて、右の時計は雪をイメージした銀色を基調とした腕時計で、文字盤は二層の板から構成されていた。一層目の銀色の板は時字が刻まれる外周だけを残し、中心を雪輪型にくり抜かれており、下層に敷かれた水縹色の文字盤が見えるようになっていた。よく見れば、下層の文字盤には、細かい朝の葉模様が刻まれている事が分る。更に時計の裏側には六花の意匠が施されていた。
「右の方は、文字盤の色が紺色の物もある」
と言い、匠吾は比較用にもう一つ時計を出す。
「ううん、悩ましいなぁ。クリスマスプレゼントなら、やっぱり冬らしいものを選ぶべきなんだろうが、時計ってなると、やっぱりずっと使うものだしなぁ」
それから鍋島は五分くらい悩んでいたが、やがて左の時計を買う事に決めたようだった。
「まいどあり」
匠吾は腕時計を箱の中に仕舞い、プレゼント用のラッピングをした後、紙袋に入れて鍋島に受け渡し、会計を済ませた。
「そんじゃあ、おらぁけえるけど、厳ちゃんによろしく言っといでけろ」
「ああ。最近は肌寒いから、ナベさんも気を付けな」
「おう、匠ちゃんもな」
そう快活に笑うと、鍋島は店を後にした。
鍋島が店を出ていった後、匠吾は自分も孫にクリスマスプレゼントくらいは用意してやらなければと、改めて思った。
帰ってきた厳時郎と刻音に鍋島が来たことと、時計の修理の件を伝えた後、匠吾は先ほど鍋島が買っていかなかった雪の意匠が施された時計を購入して、店を出た。
湿布を買い忘れていたことに気が付いたのは、家に帰ってからの事だった。
匠吾から、帰りが遅れるかもしれないという電話を受けた後、何となく暇だった椿は家の物置きを探索してみる事にした。以前、掃除をしている時に、物置の本棚に古そうな本が沢山入っていたことを思い出したのだ。
物置の本棚を物色していた椿は、やがて一冊の本を手に取った。古くて今にも崩れ落ちそうなその本を頁を捲ってみれば、そこには墨で描かれた獅子の絵が載っていた。獅子だけではない、更に頁を捲れば、兎や狐、蛇、草花など、様々な絵が描かれていた。どうやら、子の本棚に収められている本は、どれも匠吾が彫金の見本とすべく買い集めた、見本帳のようだった。どれもこれも、貴重なものであることは、椿にも分かった。それをこれだけの本棚が埋まるまで集めているとは。恐らく、ここにあるものは、ほんの一部に過ぎないのだろう。匠吾は何時も無口で、何を考えているか分からない祖父であったが、自身の仕事には自身を持っている取り組んでいる事は、椿も知っていた。その裏には、このような研鑽と勉強の数々があったのだ。
それだというのに、椿は自分が情けなかった。たかだか中学生の分際で、自分に才能があるなどと溺れて、調子に乗っていた。その挙句の果てに、周囲から圧力に曲げて、筆を折ってしまった。彫金師の道は、決して楽なものではなかっただろう。祖父は、これまで一体どれだけの挫折や困難に打ち勝ってきたのだろうか。それに比べて、自分は一体何をしているのだろう。そんな悔しさや惨めさを覚えながらも、椿はそれ以上に目の前に絵に惹かれていた。
今はそんなことを考えているよりももっと、ここに描かれている絵を観察したい。もっとこの絵を目に焼き付けたい。もう碌な絵も描けない癖に、今更そんなことをして、何の意味があるのか。そんな疑問すら無視し、椿は食い入るように、ただそこに描かれている絵を見つめていた。長い時間を掛けて、一冊を読み終えると、また次の一冊を手に取り、それを読み耽る。
そんなことを繰り返していると、不意に周囲が明るくなった。驚いて顔を上げると、物置の入り口に、匠吾が立っているのが見えた。
「こんな場所で、電気もつけずに何しているんだ」
彼の手は、物置の入口の直ぐ横にある照明のスイッチの上に置かれていた。どうやら、急に周囲が明るくなったのは、彼の仕業だったようだ。
「えっと、物置に本があったから、何か面白いものはないかなと、思って」
答える椿の手にある本を見て、匠吾はやや意外そうな顔をした。
「そんなものを見て、楽しいのか」
「うん、楽しいよ」
「そうか。だが、ここは寒い。居間か自分の部屋で読みなさい。それと、暗いところで本を読むのも止めなさい。目を悪くする」
「はい」匠吾と共に物置を出た後、椿は匠吾に訊ねた。「あそこにあった本、どれも古いものだったけど、ああいう本って、どこで買えるの?」
「ああいった本を専門に販売している古書店か、たまに開かれる古本市なんかでも買えるな。大半はそのどちらかから仕入れているが、一部は師匠や知人から譲り受けたものもある」
「そうなんだ」
椿には古書店と言えば、漫画ばかりが売っている古本屋のイメージが強かったので、そのような古書店があることに素直に驚いた。
「……来月辺り、近くで古本市が開かれる。興味があるなら、お前も来るか」
「良いの⁉」
思わず、椿が声を張り上げると、匠吾は面食らったような顔をして、
「あ、ああ」と上擦った声で頷いた。
十二
匠吾がまだ若かった頃、師に連れられ、一人の老翁の仕事の見取り稽古させてもらったことがある。とうに八十を過ぎているという、その老翁の手さばきは、正しく達人のものであった。鏨と槌をまるで自身の手足かのように操り、銅板を削り、そこに一頭の龍を描き上げてみせた。空想上の生き物である龍が、その銅板の中では、本当に生きているのではないか、そう思わせるほどの迫力と躍動感を持った絵だった。
それはある種の極地であった。彫金とは極めれば、ここまでの物を完成させられるものなのかと、匠吾は衝撃を受けた。それと同時に己が目指すべき地点が、どれほどの高みにあるのか知り、愕然とした。しかし、その老翁は言った。
「まだ自分が納得できる作品は作れていない」と。
匠吾にとって、極地だと思っていた場所を、目の前の老翁がそこはまだ通過点だと言ったのだ。そこで匠吾は本当の意味で驚き、言葉を失った。
還暦をとうに過ぎ、古希も間近に迫ってきた匠吾だが、未だにあの老翁の域に辿り着けてはいなかった。それどころか、後二十年掛けても、あの老翁の域に達せられるのか分からない。歳を取るほど、あの老翁の凄さが身に染みて分かるようになる。自分と老翁の間にある深い隔たりを実感させられる。しかし、それでも挑まずにはいられない。自分の中に燃える情熱が、諦める事を許さないのだ。朽ち掛けの肉が悲鳴を上げようと、魂がそれを黙らせ、肉を突き動かすのだ。
その身に余る情熱を抱える老人が、ある大仕事を受けたのは、今から丁度半年ほど前のことであった。以前に神社の建て替えの際に錺金具の制作を匠吾が請け負った縁で、懇意になった神社の神主から、新年に合わせ、干支をモチーフにしたレリーフを奉納してくれないかと頼まれたのだ。
匠吾の下に来る依頼の多くは、箪笥の金具や皿、アクセサリー等の小物の製作が多かったが、レリーフ制作の依頼は稀にあった。依頼がなくとも、彼は時間を見つけては、いつか見た老翁の描いた龍の姿を思い出し、レリーフを彫っていた。そしてその度に、彼は己の未熟を嘆き、嘆きに暮れた時間を取り戻すかのように、彼は更に仕事に専念し、己の腕を磨くことに務めた。
今回作り上げた干支のレリーフの出来にも、彼は納得できていなかった。もっと技巧を凝らし、より生き生きとしたものを作ることが出来たのではないかと、作り上げた後になって思うのだ。しかし、出来上がってしまったものは仕方がない。彼は出来上がったレリーフを自分が最も信頼している仕上げ師に仕上げを依頼した。匠吾にも軽い塗装や鍍金の技術はあり、普段なら仕上げまで自分でやるのだが、大きな仕事や大量受注があった際には、専門の仕上げ師に後のことを任せていた。匠吾が仕上げ師に依頼を出したのが、先月の出来事であった。
そして今日、その仕上げ師から、件のレリーフが完成したという連絡が入った。匠吾は直ぐに向かうと伝え、通話を切り、出掛ける支度をした。
「どこか出掛けるの?」
彼が玄関を出ようとしたところで、背後から椿の声が聴こえた。振り向けば、洗濯物の入った籠を持つ椿の姿があった。今日は月曜日だったが、祝日で学校が休みだった。
「ああ、ちょっと仕事でな」
そう答えてから、匠吾は昨日椿が物置の絵草子や画集に興味を示していたことを思い出した。そこで彼は、この娘は絵が好きなのかもしれない、という事に思い当たった。
「お前も来るか?」
先日の四十九日法要の際、彼女はまだ自分の心に整理がついていない様子もあった。いい気分転換にでもなればと思い、匠吾はそう口にしていた。
「いいよ、仕事の邪魔になると悪いし」
しかし、椿は曖昧な笑みを浮かべて、それを断った。
「仕事と言っても、預けていた品を取りに行くだけだ。気にしなくていい」
匠吾がそう言うと、椿は少し悩む素振りを見せた後、
「うん。それじゃあ、行く」と頷いた。
一先ず、匠吾と椿は手分けして洗濯物を干してから、二人は家を出た。椿が助手席に座り、シートベルトを締めたのを確認した後、匠吾はゆっくりと車を発進させた。しかし、車が動き出してから直ぐに、彼は後悔した。先ほどのやり取りから、椿がそこまで乗り気ではないように感じたからだ。仕事の邪魔になるというのは、あくまで方便で、普通に面倒臭かっただけなのではないか。この年頃の子供にとって、身内の仕事など普通は興味の対象外である。どこぞの時計屋の孫などは稀有な例だ。普通は家でスマートフォンやパソコンで動画を見たり、ゲームをしている方が断然楽しいに決まっている。いらない気を遣った末に、逆に気を遣わせてしまったかもしれない、と反省すると共に彼は軽い罪悪感を覚えた。
しかし、既に車を出してしまった後だ。今さら、興味ないなら、やっぱり帰るか、などと言える筈もない。これ以上余計な事を考えていると、煙草が吸いたくなりそうだったので、匠吾は車の運転に集中することにした。
鍍金職人の工房につくと、口ひげを生やした三十代半ばほどの男が、匠吾達を出迎えた。
「いらっしゃい。待ってたよ、匠吾さん」
「ああ、すまんな」
男の名は藤本と言い、匠吾が若い頃から世話になっていた仕上げ師の弟子であった。八年前に先代が亡くなってから、彼がその後を継ぎ、この工房の主となった。
「ところで、そちらお嬢さんは?」
藤本がちらりと、椿に目をやった。
「孫だ」
「ああ、この娘が噂の」
「始めまして、孫の高坂椿です」
「こりゃ、ご丁寧にどうも。藤本三郎です」
と軽く会釈した後、藤本は揶揄うような笑みを浮かべて、匠吾に向き直る。
「しかし、自分の自信作を孫に見せたがるなんて、意外と匠吾さんも可愛いところあるっすね~」
「余計な御託はいい。仕上がったものをさっさと見せてくれ」
この男は腕は良いが、少しお喋りきらいがある。それに、あの作品は自信作というほどの物ではない。精々、秀作がいいところ、傑作には遠く及ばない出来である。
そんな匠吾の心の内など露知らず、藤本は肩を竦めていた。
「へいへい。そんじゃ、ちょいと待っててくれ」
そう言うと、藤本は工房の奥へと消えていった。その後姿を最後まで見送ることなく、匠吾は応接用のソファに座った。それを見て、椿は勝手に座っていいものかと、少し迷うそぶりを見せた後に、匠吾から少し距離を開けて、ソファに座った。それから椿は少し落ち着かない様子で、周囲を見回していたが、やがて匠吾の方を見て、声を掛けた。
「この会社って、どういうことをする会社なの?」
「電気鍍金や電機鋳造と言って分かるか?」
匠吾が尋ねると、椿は首を横に振った。
「電気を用いた化学反応で、金属に鍍金加工を施すのが電気鍍金だ。そして、その技術を応用して、金属を加工するのが電気鋳造だ。この会社では、主にこの二つがメインに仕事をしている。今日ここに来たのは、以前に預けていた作品の鍍金加工が終ったという連絡があったからだ」
「へえ……」
匠吾の話を真剣に訊いていた椿は、聞き終えると感心したように頷いた。その様子を見て、匠吾はもう少し話しても良いかと思い、更に話を続けた。
「昔は金消しって技法が良く使っていたんだがな。いろいろと問題があってな、今は鍍金加工が必要な場合は、電気鍍金を使うのが主流だ」
「金消し?」
「アマルガム法ともいうな。水銀に金と梅酢を加えたものを、少しずつ塗って、火で炙るんだ。そうすると、水銀だけが蒸発して、表層に少量の金だけが残る。それを何度も繰り返して、作品の表面に鍍金を施すのさ。金消し法を用いて作られたもので有名なものには、東大寺の大仏なんかがあるな」
「でも、それって危ないんじゃないの?」
「ああ、だから最近はあまり使わん」
金消しには、電気鍍金よりも鍍金が剥がれにくいことや、より深みのある色合いを出せるという利点もあったが、本人の健康問題の他にも環境問題などの問題もあり、今ではあまり使われない技術であった。それでも伝統的な技術が必要になるような、特別な仕事をする際などには、稀に用いる事もあるが、あまり孫に心配を掛けたくないので、そのことは言わなかった。
そんな話をしていると、藤本が一抱え程する平べったい段ボールを持って戻ってきた。
「よいしょっと、こいつが完成品だ」
そう言い、開きかけていた段ボールを開けると、そこには一枚のレリーフが入っていた。
そこに描かれていたのは、銀の風が吹き付ける中、黄金の草原を走る一頭の黒駒と、その上に乗る弓を構えた鎧武者の姿があった。
「どう、良い出来でしょう?」
「ああ、流石だ。いい仕事をする」
「あんたにそう言われるのに、一体何年掛かった事やら」
それから匠吾は藤本と、仕事の話や最近銅が高い何という愚痴交じりの会話を続けていたが、ふと隣にいる椿の事を思い出した。子供にとって、大人達の会話など退屈なものに違いない。その証拠に、先ほどから視界の端に映る椿の姿は、一言も喋らず、つまらなそうに俯いていた。当たり前だ。子供が大人の会話に割って入れる筈もない。
更に言えば、無理に連れてこられた上に、その連れてきた張本人が、時分の事を忘れて会話に夢中になっている姿など、見ていて面白いものではないだろう。
「あー、すまんな、長話が過ぎた」
そう言い、匠吾が横にいる椿の方へと振り向くも、椿は何も答えず、視線を下に向けたままであった。怒らせてしまったかと、匠吾が思った時、彼はあることに気が付いた。
椿の視線は自身の足元ではなく、それよりも斜め前方にあるテーブルの上に置かれたは段ボールへ、正確に言えば、その中身に注がれていた。彼女は俯いていたのではなく、目の前のあるレリーフを見ていたのだ。
そこで彼女は何かに気付いたように顔を上げて、匠吾の方に振り向く。
「ごめん、何か言った?」
「いや、お前がつまらないんじゃないかと思ってな」
「ううん。見ていて、全然飽きないよ。とても繊細で力強い彫刻、まるで生きているみたい。塗装も細かい所まで丁寧に行き届いてる。これが自分で筆を持って塗ったんじゃなくて、機械で行われたなんて信じられない。これ、場所によって、鍍金が塗り分けられているけど、どうなっているの?」
その問いに応えたのは、藤本だった。
「ああ、そいつには、マスキング処理ってのを用いられてるんだよ」
「マスキング処理?」
「そう、初めに全体に下地となる鍍金を施した後に、次の鍍金を施したくない箇所にマスキング剤っていうのを塗ってから、鍍金をすると、そこだけ鍍金が付かないんだ。それを何度も繰り返して、一枚のレリーフを完成させるのさ」
「……一つの鍍金を貼り終えるのに、どれくらいの時間が掛かるんですか?」
「大体四時間くらいだな。勿論、鍍金の厚さにもよるがな。薄いもんだと、二三時間で終ったりもする」
椿はその後も藤本や匠吾に疑問に思ったことを訊ね、その返答を真剣な顔で訊いていた。
藤本の工房を出た後、帰りの車の中で椿が唐突に口を開いた。
「ごめんなさい」
「何がだ?」
突然の謝罪の意味を理解できず、匠吾が問う。
「仕事中だって、分っていたのに、気になったことをずけずけと訊いちゃって。迷惑だったんじゃないかなって、そう思って」
なんだ、そんなことか、と思い、匠吾は言った。
「気にするな。来る前にも言ったが、今日のは仕事というほどのものでもない。それに、あいつも楽しそうにしていた」
匠吾もまた、例えお世辞でも、自分の作品を生きているみたい、などと褒められて、悪い気はしなかった。職人にとって、自分の仕事を褒められることほど嬉しい事は無い。そうじゃなくとも、世の中のおっさんと呼ばれる生き物の多くは、若者が自分の仕事に興味を示してくれることを嬉しく思う生き物なのだ。
帰宅後、匠吾は作品が完成したことを電話で神主に伝え、作品を届けるのに都合のいい日を確認していた。電話を終えた匠吾が、昼飯でも作ろうかと、台所に赴くと、椿がインスタント麺を作っているところだった。丼ぶりが二つ並んでいるのを見るに、匠吾の分も作ってくれているようだ。
「あ、冷蔵庫のもやしとハム、使ってもよかった?」
匠吾に気が付いた椿が振り向き、彼に訊ねる。
「ああ、構わんよ」
そんなやり取りに、匠吾は微かな既視感を感じた。その原因を探ろうと、記憶の糸を手繰り寄せていくと、その糸は一つの記憶と結びついていた。夜遅くまで作業をしていた匠吾が、夜食を食べようと台所に赴くと、そこには既に先客がいた。それは明美であった。大方、徹夜で勉強していたのが、空腹に負けて夜食でも探しに来たのだろう。実際、彼女の手にはインスタント麺の袋があった。二人は互いの顔を見て、苦笑した後、
「冷蔵庫の野菜、勝手に使ったら、母さんに怒られるかな」
「なに、構わん。腹に入ってしまえば、こっちのものだ」
そんなことを言い合いながら、二人で袋ラーメンを食べたのだったか。この頃には、匠吾と明美の会話は減っていたが、それは年頃の娘らしい、年相応な態度であった。まだ忍も生きており、親娘の関係が冷え切る前の、細やかな記憶だった。
――そんな時代もあったのだな。と昔日を懐かしむ匠吾に、椿が声を掛ける。
「お爺ちゃん、出来たよ」
その声で匠吾の意識は、現実へと呼び戻された。
「……ああ、ありがとう。熱いから居間まで俺が運ぶ。箸を持ってきてくれ」
「うん、分った」
椿の返事を背後に、匠吾は湯気が立つどんぶりを、二つ手に持ち歩き始めた。
あの頃の自分がもっとちゃんとしていれば、そんな後悔をしそうになり、匠吾はその思考を打ち切った。過ぎ去った日々を悔やんでも仕方がない。今は目の前のことにだけ集中しよう。今度こそ、同じ失敗をしないために。
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