第11話
十四
円形に切り出した金属板に透かし彫りで模様を刻み込み、それを玉台に乗せ、矢坊主で叩き椀状に整形していく。
今回の匠吾が制作しているのはブローチだった。依頼者とは、主に電話とメールでやりとりをしていたのだが、なかなかこだわりが強いようで、素材や図案などにも積極的に依頼者の意見を取り入れたフルオーダーの作品となっていた。そのため、実際に制作に取り掛かるまで時間は掛かった。
一つ目のパーツが完成し、次のパーツの制作に取り掛かろうとしたところで、部屋の戸をノックする音が聞こえた。
匠吾が手を止めて振り向くと、部屋の戸が開かれた。
「なんだ?」
彼は戸の向こうにいる孫娘に問い掛けた。
「今日、ちょっと友達と遊びに行ってくる、からお昼ご飯はいらない、です」
最近は減ってはきたが、椿は未だに匠吾に対して、敬語を使う事がある。良い所のお坊ちゃん、お嬢ちゃんでもあるまい。家族間での会話に無理をして敬語など使わずとも良いのに、と匠吾はどこかむず痒く思っていた。また他のことに集中している時や気が抜けている時を除くと、匠吾と話すことに緊張しているのか、彼女の口調はどこかたどたどしかった。とはいえ、相手にも相手のペースというものもある。椿もそのうち慣れるだろうと彼は楽観視し、そのことに対して、特に何も言いはしなかった。
「そうか」
匠吾ははただそれだけ言い、作業台に向き直ろうとして、あることに気が付き、再び彼は椿へと目を向けた。正確に言えば、彼女の左手首に視線を送っていた。
「……その時計は?」
彼女の手首には時計が嵌められていた。
「入学祝の時に、母さんが買ってくれたやつ、です」
「そうか。良い時計だ」
「……ん、ありがと。それじゃ、いってきます」
そう言い、椿は戸を閉め、さっさと出かけてしまった。
部屋に残された匠吾は一人頭を抱えていた。まさか既に腕時計を持っていたとは。それも母親の形見である。匠吾が今さら腕時計などプレゼントしても迷惑でしかないだろう。
やはり何が欲しいか、直接椿に訊ねた方がよいだろうかとも思ったが、それには少し懸念点があった。匠吾も馬鹿ではない。あの娘が普段から匠吾に対して遠慮している節がある。匠吾が何か欲しいかと問うても、あの娘の事だから素直に答えない可能性がある。だからといって無理に聞き出そうとすれば、それこそ迷惑になってしまう。いらぬ世話ほど煩わしいものはない。そもそもあの娘は何が好きなのだろうか。絵を好むことは分っているが、それだけである。画材でも買ってやるべきか。しかし自分が使う道具は、やはり自分で選んだものが良いだろう。しかし、現状椿が好む者はそれ以外に何があるのか、匠吾には分からなかった。
「いや、今は仕事に集中しよう」
最悪の場合はクリスマスと誕生日プレゼントを合わせて、少し多めに小遣いでも渡せばよいだろう。
椿は土日だというのに、制服に身を包み、自転車を走らせていた。佐々木の家が分からないため、学校で待ち合わせをすることにしたのだ。
道すがらのコンビニで昼食を買った後、学校まで着いた椿は、佐々木のが来るまで、教室の自分の席で、本を読んで待つことにした。十一月末という事もあり、肌寒かったが、勝手にストーブを点ける訳にもいかないので、彼女は温くなった缶コーヒーの缶で指先を温めた。
佐々木の話では、この中学校の美術部は、あまり熱心に活動を行っておらず、土日は基本的に部活がなく、熱心な生徒が自主練習に来る程度だという。因みにその熱心な生徒は大抵の場合佐々木であるそうだ。
腕時計に目をやるが、まだ佐々木が来るまで時間が掛かりそうだった。普段持ち歩いている文庫本を家に忘れてきてしまったため、どうにも手持無沙汰であった。ぼうっと、自分以外誰もいない教室を見回してみるも、別に何か新しい発見がある訳でもなく、退屈な時間だけが過ぎていく。
椿がちびちびと缶コーヒーを飲みながら、時間を持て余していると、他に見るものもないので、彼女の視線は自然と正面の黒板へと向かった。きっと今週の日直当番は几帳面な性格の持ち主だったのだろう。黒板の表面は汚れ一つない綺麗な状態で保たれていた。
黒板をじっと見つめていると、椿の中の何かが刺激されるような感覚を覚えた。心がざわざわとし、落ち着かない。右手は忙しなく、缶コーヒーの缶を握ったり開いたりを繰り返していた。気付けば、彼女は憑りつかれたような足取りで、黒板の前までやってきていた。
彼女は震える指先で、短くなったチョークを掴むと、まるで静電気が流れたような、そんな不思議な感覚を覚えた。彼女が恐る恐るチョークを持ち上げ、その先端を黒板に押し付けようとした時だった。
教室の扉がガラガラと音を上げて開いた。驚いて、取り落としそうになったチョークを、慌てて受け止め、椿は後ろに振り向いた。
「あれ、高坂じゃん」
そこにいたのは、先週椿に話し掛けてきた男子生徒だった。恰好からして、部活の帰りなのだろう。
「あ、どうも」
「何してんの、部活?」
「佐々木さんと、このあと約束があって」
「ああ、仲良いもんな」
言いながら男子生徒は自分の席へと近付き、机の中を漁り始めた。
こちらも何か訊いた方が良いだろうかと思い、椿は口を開いた。
「えーと、そっちは?」
「ん? ああ、俺は数学の課題を教室に忘れたから取りに来ただけだよ」
「そっか」
「うん」
机の中に何冊も教科書を入れっぱなしにしているようで、少年は探し物に苦戦しているようで、椿はその間気まずい思いをしていた。
「そういや、高坂はもうはいる部活動決めたの?」
「えっと、特には。……ええと、そっちは、何の部活に入ってるの?」
「バスケ部だよ」
「へえ……」
また会話が途切れ、気まずい沈黙が流れた。椿が人知れず息苦しさを感じていると、
「あ、あった」
そんな声と共に男子生徒は机の中から一枚のプリントを取り出した。
「それじゃ、俺は帰るから、またな」
彼がプリントを鞄にしまいながら言った。
「あ、うん、また」
ようやくこの息苦しさから解放されると、椿は安堵していると、教室を出ていく直前になって、彼が振り返った。
「それと、俺の名前桂木慎太だから。クラスメイトの名前くらい、いい加減覚えろよ」
「え、あ」
椿が何か言い終える前に、桂木は教室を出て行ってしまった。
それと入れ違いに佐々木が教室へとやってきた。
「お待たせ! 寒くなかった?」
「いや、大丈夫だよ」
そう答えてから、椿は未だに自分がチョークを握っていたことに気が付いた。しかしそこにあるのは、何の変哲もない白い塊でしかなかった。最早そこには、先ほど感じたような不思議な感覚など残ってはいなかった。
教室を出た二人は、美術室へと向かっていた。
「一ポーズ二十分でいい?」
「うん、それでいいよ。」
「部室は何時まで使えるの?」
「十五時くらいまでは残っていていいって。椿ちゃん、ご飯はもう食べた?」
「まだかな」
「私も。それじゃ、十二時二十分まで昼食にしよう。その後は十三時半まで、二十分のスケッチ練習を五分ごとに挟んで取って、十五時まで少し時間をかけてデッサンを取るって感じでどうかな」
「うん、私はそれでいいよ」
美術室の戸を開くと、ストーブが焚いており、中から暖かい空気が流れてきた。恐らく佐々木が教室に着く前に、事前に美術室へやってきて付けておいたのだろう。二人は適当な椅子に腰掛け、他愛のない会話をしながら食事を取った。
食事を終えると、椿は早速佐々木の指示に従い、ポーズを取った。といっても、最初のポーズは、椅子にお行儀よく座っているだけである。
教室の中には、ストーブの駆動音と佐々木が紙面にペンを走らせる音だけが響いていた。絵を描いている時の佐々木は、普段の元気で明るい少女の姿は鳴りを潜め、大人びた表情をしていた。彼女は真剣な眼差しで椿をじっくりと観察しては、紙面に目を落としてを繰り返す。その姿に、椿はかつての自分の姿を重ねていた。自分もきっと、こんな表情で絵を描いていたのだろう。
しかし暫くして、その姿に椿とはまた違う別の影が重なる。それは最後まで椿に寄り添ってくれた、そして椿が裏切ってしまったあの子の影だ。この状況は、あの子と初めて話した時の状況によく似ていた。確か入部して暫く経った頃、一年生がどれだけ絵が上達したか確認するために、二人組を作り、互いのスケッチを交互に描くという練習をしていたのだ。
その時にどんな会話をしたのか、椿はよく覚えていない。もしかしたら、お互いスケッチを描く事に集中し過ぎて、碌な会話もしていなかったかもしれない。それから、二人がどうやって仲良くなったのか、それすらも椿には曖昧な記憶しかなかった。気が付いた時には隣にいて、そして気が付いた時には、もう取り返しのつかないほど遠くにいた。
今椿の目の前にいるこの少女も、いつか椿の前からいなくなるのだろうか。そんなことを思うと、椿は何故だか胸が苦しくなった。
「よし、一枚目完成」
佐々木がスケッチブックを置き、大きく伸びをすると同時に、彼女が事前にセットしていたスマートフォンのタイマーが鳴った。彼女は慌ててそのタイマーを止めると、こちらに向き直って言った。
「あ、椿ちゃんも休憩していいよ。疲れたでしょ」
「別に、そこまでじゃないよ」
と言いながら、椿は己の肩を揉んだ。
「ところで、完成した絵、見せてくれない?」
「うん、いいよ!」
椿は佐々木からスケッチブックを受け取る。スケッチブックに描かれた椿の姿は、二十分という限られた時間内で描かれたにしては、精巧に描写されていた。これだけでは、佐々木の画力を正確に推し量る事は出来ないが、もしかしたら椿と同程度か、或いはそれ以上の画力を秘めているかもしれない。
「どう、どう? なかなかの出来じゃない?」
「うん。凄いよ、佐々木さん。まさかここまで上手いとは思わなかった」
「でしょでしょ! 何せ、これだけが私の取り柄と言っても過言じゃないからね!」
佐々木が胸を張っていったが、椿はそれを直ぐに否定した。
「それは、過言だよ」
佐々木の良い所は、他にも沢山あることを椿は知っていたからだ。
時間はあっという間に過ぎていき、佐々木は無事三枚のスケッチを完成させた。その後の時間、佐々木は宣言通りにデッサンを描く練習に取り組んだ。完成したデッサンは一時間半という限られた時間の中で描いたとは思えないほどの素晴らしい出来であった。
彼女が絵を描き終えた時には、二人とも疲れ切っており、各々大きく伸びをしたり、身体をほぐしたりなどして、疲れを少しでも和らげようとしていた。
「いやー、今日はありがとうね」
「ううん、私も楽しかったから」
「そっか。それならさ、もし迷惑じゃなかったらでいいんだけど、たまにでいいから、また練習に付き合ってくれる?」
椿はすぐに返事をすることはできなかった。今さら自分が絵に関わる資格があるのか、そう思ったからだ。しかし、自分の勝手な――罪悪感とさえ呼べない――幼稚な引け目を理由にして、目の前の友人を蔑ろに知るようなことはしたくなかった。だから、椿は精一杯の勇気を振り絞り、喉を震わせた。
「……たまにで、いい、なら……うん」
椿の葛藤など知る由もない佐々木は、パアッと顔を綻ばせ、
「ありがとう!」
とどこまでも明るい声で言った。
その顔を見て、その声を聴き、何故か椿は心が救われたような気がした。
美術室の鍵を職員室に返した後、椿達は二人揃って校門を出た。別れ時を見失った椿は、分かれ道まで自転車を押し、佐々木と共に歩いた。
「それじゃ、私こっちだから。じゃあね、椿ちゃん」
「うん。またね、佐々木さん」
そうして、佐々木と別れた後、椿は自転車をゆったりと漕いでいた。彼女は回転するペダルに合わせ、自分の内で蠢く何かを感じていた。彼女の心を蝕みながら、その何かは徐々に成長していき、その輪郭がはっきりとしてくる。それは罪悪感と自己嫌悪であった。かつて一方的に見捨ててしまった友人に対する罪悪感、そしてその姿を勝手に他人に投影している自分自身への嫌悪である。裏切ってしまった相手に対し、未だに友人面をしている自分が、今の友人をその代用品にして、綺麗な思い出だけを回想しようとしている自分が、心底気持ち悪くて仕方がない。
――私が可愛い? 冗談じゃない。私はどうしようもなく、醜く汚れた人間だ。
そんな風に思うことで、罪の意識から逃れようとしている自分が、なおのこと気持ち悪くて仕方がなかった。
その日の夕食時、匠吾が椿に話し掛けてきた。祖父は物静かな人であるが、食事中は特に静かだ。しかし極稀にだが、食事中に何かを訊ねてくる事が会った。
「誕生日とクリスマスに、何か欲しいものはあるか」
「……特にない」
椿が素っ気なくそう答えると、
「そうか」
祖父はいつものようにそう言い、また黙々と食事に戻った。
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