第8話
十
「この度はお忙しい中御足労賜り、真に有難うございます。これより、亡き娘、明美の四十九日の法要を執り行わせていただきます。それでは、御住職様、お願いします」
喪服を着た匠吾がそう挨拶をし、席に着くのを待ち、住職の読経が始まる。明美の四十九日はもう少し先だったが、親族の集まりやすい日を選び、土曜日に執り行われた。
住職の読経と法話が終ると、匠吾がまた挨拶をし、参列者達を先導し、納骨法要の場まで映る。そして、晴天の空の下、明美の骨壺は墓の下へと収められた。
その後、親族達での会食が行われた。その日の法要には、匠吾の妹や、妻の兄、その子供達、――つまり明美の従弟達だ――が集まっていた。親族達は、昔の明美の話をしたり、初めて見る椿に話し掛けたりなどして、盛り上がっていた。匠吾も暫くは、それに交じっていたが、頃合いを見計り、一人で会場を出て、煙草に火を点けた。
「…………フゥ」
肺を煙で満たした後、匠吾はそれをゆっくりと吐き出した。紫煙は空へと昇っていくが、天に届く前に空気に溶け、消えていった。そこで、匠吾の身体がふらりと揺れた。煙草を吸うのは、ほぼ一週間ぶりだっため、軽い眩暈を覚えたのだ。壁に背を預け、空を見上げれば、彼の眼には、雲一つない快晴が映った。雨が降らなくてよかったと思うと同時に、匠吾はその空の青さにどこか虚しく思った。青いだけで、何の彩りもない寒々しい空は、まるで自分の心を映しているようだった。
娘の死を悲しめれば、どれだけ良かっただろうか。そうすれば、自分は娘を愛していたのだと実感できた。感じるのは、虚しさだけだ。欠落した感情の輪郭をなぞってみても、大きくなり過ぎたその穴からは、元の形を想像することなど出来なかった。
匠吾はこんな時まで、自分の事しか考えていない、自分に嫌気がさした。こんな父親、捨てられて当然だろうと、彼は自嘲した。
――あいつは幸せだったのだろうか。
思い出すのは、明美が家を出ていった夜のことだ。その日は雨が降っていた。仕事がひと段落して、台所で煙草を吸っていた時だ。玄関の方で音がして、そちらに行ってみると、靴を履く明美の後姿が見えた。
「こんな時間にどこに行くんだ」
匠吾がそう問うと、
「別に、どこだっていいでしょ」と明美が答えた。
彼女の足元には、大きめのバッグがあった。高校生になってからというもの、明美が友人の家で外泊したり、素行の悪い連中達と夜遅くまで遊び歩くことが増えた。大方、この日も誰かの家に泊まりに行くのだろうと、匠吾は考えた。
しかし、この日の明美の様子は、どこかいつもと違うように感じられた。彼女はその場に立ち尽くし、一向に家を出ようとはしなかった。その視線は真っすぐと、匠吾の瞳を見据え、まるで何かを待っているようにも見えた。匠吾は何か言わなければならないと思った。しかし、匠吾には、何を言えばいいのか分からなかった。何か言うべきだという事は分っていたのに、言うべき言葉が見つからなかった。そして、ようやく出て来た言葉はというと、
「雨が降っている。気を付けていきなさい」
たったそれだけだった。全くもって場違いで、間の抜けた言葉だった。
明美は乱暴に足元のバッグを持ち上げると、
「……馬鹿にしないで」
こちらを振り向きもせずにそう言うと、傘立から傘を引き抜いて家を出ていった。
明美が出て行って、暫くしてからやっと、匠吾は自分が何か致命的な失敗をしたことに気が付いた。しかし、その時には既に何もかもが手遅れだった。
それが、生きている明美を見た最後の記憶だった。
そして匠吾が明美と再会した時、彼女は既に亡くなっていた。思えば、明美が亡くなったのも、雨の日だったという。雨はまるで、匠吾の罪の象徴のようだった。
明美が家を出てから、どのような人生を送ってきたのか、匠吾は知らない。ただその人生が、幸福なものであったのなら、と匠吾は願わずにはいられなかった。それはあの時、娘を引き止めなかった自分自身の罪から逃れたいがためにそう思ったのか、或いは娘に対する情であったのか、彼には判断が付かなかった。
「……また煙草吸ってる」
振り向けば、そこには椿が立っていた。
「……こんな日くらい、良いだろう」
何がこんな日だ、本当はなんとも思っていない癖に、と匠吾は心の中で自分に悪態を吐いた。椿はというと、そんな匠吾から、少し離れた場所に立ち、ぼんやりと空を見上げていた。会話はなかった。匠吾は煙草を吸い、椿はただ空を見上げていた。不思議と、普段感じている気まずさのようなものはなかった。
「私、お母さんが死んで、悲しかった」不意に、椿が言った。
何と返せばよいか分からず、匠吾はただ黙っていた。すると、椿は更に言葉を続けた。
「でも、不思議なんだ。悲しいのに、凄く悲しい筈なのに、涙が出ないんだ」
それは淡々としていながらも、どこか悲痛な声であった。思えば、匠吾は椿と初めて会った時から、今まで一度だって、彼女が泣いている姿を見たことが無かった。
「私、どこかおかしいのかな」
そう問い掛けられて、匠吾はようやく口を開いた。
「……そんなことはない。泣けないのなら、無理に泣く必要はない」
しかし、口について出たのは、そんな誰にでも言える安っぽい言葉だった。いつかと同じ、中身のない、その場しのぎのつまらない言葉だ。それとも、娘が死んだというのに、泣くどころか、悲しむことすら出来ない、自分自身を肯定するために、そんな薄っぺらい言葉を吐いているのか。どちらにしろ、そんな言葉に価値などない。そうと解っていても、子供が答えを求めているのなら、大人は何らかの形で、答えを示してやらなければならない。例え、それが正解ではなかったとしてもだ。匠吾はそれに気付くのが、遅すぎたのだ。
しかし今は、そんな後悔などどうでもいい。今向き合うべき相手は、自分ではなく、椿だ。自分を逃げ道に使うな、大人なら、向き合うべき相手にしっかりと向き合え。
「涙だけが、心を現す全てじゃない。悲しいと思ったのなら、今はそう思った自分の心を大切にしなさい。そして、いつか泣きたくなった時が来たら、その時は泣けばいい」
匠吾は最後まで言い終えると、煙草の火を携帯灰皿に落とした。
「ここにいると、身体を冷やす。もう戻ろう」
「……うん」
玄関を潜る間際、背後から「ありがとう、お爺ちゃん」という小さな声が聴こえた気がしたが、匠吾は気付かないふりをした。
その日の晩、椿は自室のベッドの上で横になっていた。やけに疲れているような気がするのは、きっと気の所為ではないのだろう。人が沢山集まる場というのが、椿は昔から苦手だった。特に知らない大人達が沢山集まる場は息苦しい。だからといって、母のために集まってくれた人達に失礼が会ってはいけないと思い、結果的に必要以上に畏まってしまい、気疲れを起こしていたのだ。
普段表情の変化が乏しい椿だったが、この日ばかりは精一杯の愛想笑いを浮かべ、話し掛けて来る大人達の応対をしていた。おかげで、顔の筋肉が酷く痛む。
椿は照明が眩しくて、顔の前に手を翳したが、やがてそれに疲れると、溜息を吐いて、体の向きを変えた。枕に顔を埋めて、目を瞑ると、まどろみが椿を襲う。
――あ、やばい。と思い、椿は手探りで枕元のリモコンを探し当て、照明をオフにした。
意識が消えゆく直前、耳の直ぐ側で雨の音が聴こえた気がした。
「椿、ちょっと来なさい」
家に帰ると、珍しく母が椿よりも先に帰ってきていた。母の声から、何か不穏な気配を感じていたが、それに逆らうことも出来ず、椿は母の方へと近付き、訊ねる。
「なに?」
「貴女、最近部活に顔を出していないらしいじゃない」
椿が黙っていると、母は溜め息を吐いた。
「……何も答えないってことは、本当ってことでいいのね」
「……はい」ようやく、絞り出すように椿は言った。
「どうして?」
「……」
「何とか言いなさい、椿」
椿は更に問い掛けて来る母に苛立ちを覚え、投げやりに答えた。
「……別に、絵を描くのに飽きただけだよ」
「そう、ならもう止めなさい」
母が冷たく言い放った。
「好きでもないことを、いつまでも続けても、時間の無駄よ。なら、もう止めなさい」
その言葉に椿は心底母を憎んだ。――好きでもないことだと? 好きに決まっているだろ!描きたくなくて、描かない訳じゃない‼ 描きたくとも、描けないんだ‼ それを簡単にやめろだなんて言うな‼ ――本当の事を話していないのは、自分だというのにそんな身勝手な怒りが沸き立った。それを必死に抑え込もうと、椿は唇の端を噛んで、俯いた。
そんな彼女の顔を誰かの手が優しく撫でた。
「本当は、何か理由があるんでしょう」
それは先ほどまでの攻めるような口調とは違い、とても優しい声だった。
「椿が絵を描くのが本当に好きだったのは、お母さんも良く知っているわ。貴女が何かを中途半端に投げ出すような子じゃないってこともね。だから、本当の事を話してみなさい」
その優しさに椿は、いっそ本当の事を話すべきかと躊躇った。しかし、結局彼女は何も言わなかった。母を心配させたくなかったからだ。
そんな椿の様子を見て、母は諦めたように溜息を吐いた。
「私も無理に聞き出すつもりはないわ。でもね、椿、本当に辛い時には、ちゃんと話して頂戴。頼りないお母さんかもしれないけど、貴女のために出来る事なら、私も精一杯頑張るから」
しかし、椿は何も言う事が出来なかった。
それから母は買い物に行き、そして二度と帰ってくる事は無かった。
もしもあの時、椿が自らの心の内を素直に母に話すことが出来ていれば、雨が弱まるまで、母を引き止める事が出来ていれば、何かが変わっていたのだろうか。もう既に起ってしまった過去は変えられないと分かっていても、椿はもう何度もそんな不毛な仮定を繰り返していた。
椿はいつだって、何かが一つ違っていれば、届いた筈の過去を。もう永遠に手に入らない、在りもしない今ばかりを探していた。
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