第7話
九
その日の空模様は、泣きはらしたかのような土砂降りの雨であった。祖父の車で送られて、学校の前までやってきた椿は祖父に礼を良い、傘を開いて、車から降りた。椿が車から降りると、祖父を乗せた車は直ぐに走り去っていった。
雨は嫌いではかった。鼻に付く土の香りも、耳を打つ雨音も、滲んだ視界も、椿は好きだった。しかし、今は違う。雨は椿から母を奪った。そのことを思うと、椿は憂鬱な気分になった。
低気圧の影響か、片頭痛もあり、正直学校を休んでしまいたかったが、そういう訳にもいかない。椿は溜息を吐きながら、下駄箱の前で靴を履き替えた。
一年生の教室があるのは五階だったのだが、階段を一段上る度に、その振動が頭を揺らし、不快な痛みを伴った。ようやく、教室まで辿り着いた時、誰かが彼女に話し掛けてきた。
「高坂」
彼女が顔を上げると、そこには一人の男子生徒が立っていた。顔は何度か見たことがある気がするが、名前までは覚えていなかった。
「……なに?」
ただでさえ、目つきの悪い椿だが、この時は人でも殺しそうな眼差しをしていた。
「この間の体育の時なんだけどさ。隣のクラスの女子を保健室に運び込んだの、高坂だろ?」
「……そうだけど」それがどうしたというのか。
「だから、礼を言おうと思って」
その言葉を聞いて、椿は怪訝そうに片方の眉を持ち上げる。
「それで、どうしてあなたに礼を言われる訳?」
「あ、ああ、そうだった。悪い、事情も言わずに……」
さっさと席に着いて休みたかった椿は、目の前の男を若干苛立たしく思い始めていた。
「実はあいつ、俺の妹でさ」
妹、双子の兄妹という事だろうか。男女の双子ということは、恐らく二卵性だろうが、謂れてよく見てみれば、確かに先日の体育の時間に見た女子生徒と、似ていないことも無いような気がする。
「だから、ありがとうな」
「どういたしまして」
それだけ言うと、椿は男子生徒の横を通りすぎて、自分の席に着校とした時だった。そこで彼女は周囲の視線が自分に集まっている事に気が付いた。その瞬間、彼女の背筋に悪寒が駆け抜けた。
この感覚を椿は知っている。好奇心と悪意の入り混じった、あの気色の悪い視線だ。その感覚が忘れようもない、惨めで情けない記憶を想起させた。
しかし、これまで二週間の間に、このような感覚を覚えた事は無い。椿は上手くやれてきたとは言い難くも、少なくとも致命的な失敗はしてこなかった筈だ。自分なりに平穏をまもろうと、努力してきた筈だ。何を間違えた。どこで選択肢を間違えた。そんなことが頭の中をぐるぐると回っていた。
しかし、この視線を感じ始めた直前の出来事を思い出せば、その答えは自ずと分った。あの男子生徒と話したからだ。このクラスにおいて、男女が混じって話している姿は、定期的に見掛けていた。だから、油断していた。
椿は先ほどの男子生徒の顔を思い出す。それなりに整った顔立ちをした少年であった。上背はそれほどなかったが、体つきもがっしりしていたように思う。恐らく、どこかの運動部に所属しているのだろう。
例え、クラス内で男女の隔たりがなかったとしても、クラス内には、格というものがある。クラス内で発言力が強い目立つ集団もあれば、大人しく目立たない人間が集まった集団もある。そして、集団の中にも、本人達が意識しているかどうかは置いておいて、更に細分化された格がある。
誰もが、無意識のうちに自分が所属している群れの、更にはそれをひっくるめたクラスという大きな群れの中で、自分の役割を間違えない様に暮らしている。もしも、そんな中で、群れの中でも飛び切り目立たない個体が、群れの輪を越えて、格の違う相手と話していたとすれば、どうだろう。少なくとも、一部の人間は「あいつ、なんか調子乗ってない?」と思うだろう。クラス内にも佐々木のような、どの集団にも属さない代わりに、どの集団の中にも出入りしている存在はいるが、あれはイレギュラーな存在だ。考慮しても意味がない。しかし、あれはあれで、イレギュラーな存在として、集団に受け入れられているのである。トランプでいうところのジョーカーだ。
しかし、ここにもう一人、イレギュラーな存在が、それも佐々木のようにクラス内にまだ溶け込み切っていない、本当の意味でイレギュラーな存在がいたのだ。それこそが、転校生の椿だ。しかも、椿は最初の数日は誰かに話し掛けられても、当たり障りのない事しか言わず、つまらない人間を装っていた。そのおかげで、次第に転校生に対する興味は薄れていき、椿は平穏な日常を手に入れた。その後も椿は佐々木と話す以外は、目立たないように、静かに過ごしていた。
しかし、それが仇となったのだ。クラスで浮いている地味で目立たない転校生が、クラスの人気者の男子と話しをしている。今の椿は完全にクラスの異分子だ。
こうなると、先日の一件が悔やまれる。なぜ、椿はあのような事をしてしまったのか。
――ありがとうね、高坂さん!
不意に思い出したのは、眩しいくらいの笑顔でそう言った佐々木の顔だった。
――ああ、そうか。畜生、私は嬉しかったんだ。
あの時、佐々木にありがとうと言われ、椿は嬉しかったのだ。だから、自分の分も弁えず、柄にもない事をしてしまったのだ。
――頭が痛い。
視界から鮮度が失われていく。平衡感が狂い、足元が揺らぐ。胸が苦しい、呼吸が乱れる。
「おはよ、椿ちゃん」
その瞬間、椿はハッとして振り返る。
そこには佐々木の姿があった。
「どうしたの椿ちゃん、怖い顔して?」
佐々木が怪訝そうに首を傾げる。
「……別に」
それだけ良い、椿はバッグを机の脇に掛けて、その場を離れようとする。
「ちょっと、椿ちゃん。そろそろホームルーム始まっちゃうよ」
「……体調が悪いから、ちょっと保健室行ってくる」
「え、大丈夫? 付いて行こうか?」
「いらない」
突き放すように言い、椿は教室を出た。
人が少ない一介の女子トイレに入ると、椿は手洗い場の蛇口を捻り、勢いよく流れ始めた水で顔を洗い始めた。手も顔も凍ってしまいそうなくらい冷たかった。指先の感覚が無くなるまで、椿はひたすら顔を洗い続けた。
ようやく顔を上げた時、鏡に映ったのは、酷い目つきの女だった。その鋭い眼は、冷水に晒され赤くなった顔も相まって、まるでおとぎ話の中の赤鬼のようだった。しかし、椿は強くて恐ろしい赤鬼なんかじゃない。弱くて臆病で、惨めな負け犬だ。
先ほどの出来事を思い出し、椿は鏡に映った自分の姿を憎々し気に睨んだ。佐々木に話しかけられた時、彼女は安堵したのだ。そんな自分が、椿は嫌だった。
「……何を、浮かれてるんだ」
――友達が出来るかも、なんて舞い上がっていたのか、下らない。誰の優しさも当てにしない。人の温もりなんか、二度と求めないと、自分で決めていた筈じゃないか。転校すれば、自分の過去が、自分の罪が、消えるとでも思っているのか。
「……思い上がるな、お前は一生惨めな負け犬だ」
顔をハンカチで拭き、女子トイレを後にした椿は、そのままの足取りで保健室へと向かった。ノックして、保健室の扉を開くと、以前にも見たことのある養護教諭が椅子に座って、コーヒーを呑んでいた。丸眼鏡に白衣を来て、髪は首の後ろで一本に縛っていた女性だった。
「あら、貴方はこの間の……」
「その節はお世話になりました」
「いえいえ、こちらこそ、具合の悪い子を連れてきてくれて、ありがとうね」
そこで言葉を区切り、養護教諭は椿に訊ねる。
「それで、今日はどうしたの?」
「頭痛が酷いので、休ませてもらおうかと」
「ああ、今日は天気が悪いもんね。一応、これに名前を記入して頂戴」そう言うと、養護教諭は一枚の紙きれとペンを椿に手渡してきた。また「ああ、後書きながらでいいから、体温計で体温を測っておいて」と言い、体温計を手渡してきた。
「はい。分りました」
椿は左脇に体温計を挟み、紙に自分の名前を記入した。
それから体温計が鳴り、取り出すと、
「何度だった?」と養護教諭が訊ねてきた。
「三十六度二分でした」
「うん、それじゃ、ベッドで休んでおいて。担任の先生には私から伝えておくから」
「ありがとうございます」
椿は養護教諭に謝意を述べ、ベッド周りのカーテンを閉め、靴を縫いでベッドの中に入った。頭の痛みで、なかなか寝付けなかったが、目を瞑っていると、次第に意識が薄れていき、椿はそのまま眠ってしまった。
椿が周囲から孤立し始めた頃、それでも変わらず、隣にいてくれた友人がいた。少しおどおどしたところはあったが、心の優しい子だった。思い返せば、椿が絵を描いている横には、何時だってあの子がいた。あの子の優しさに、椿が何度救われたものか。もしも、あの子がいなかったら、椿はもっと早くに心が折れていただろう。
だが、結局椿は折れてしまった。夏休みの一見以来、部活に顔を出さなくなった椿はその間に何があったのか、正確な事は分からない。
しかし、夏休みが終わり、椿が再び学校に戻った時、あの子は学校に来なくなっていた。直ぐに椿は自分をいじめていた主犯格の同級生の下へと向かった。
「あの子に何をした」
椿は上級生の胸倉を掴んで問い詰めたが、女はそれに臆することなく、とぼけてみせた。
「さあ、何のこと? 言いがかりはよしてよ」
あくまでは白を切るつもりらしかったが、その顔には醜悪な笑みが張り付いていた。
「ねえ、みんな知らないよねぇ」
「うん、何の事?」
「てか、こいつ上級生に対して、失礼じゃない?」
取り巻き達が嫌らしい笑みを浮かべ、白々しい言葉を並び立てる。
「ほら、みんなもこう言っているじゃない。今なら許してあげるから、謝りなさいよ」
「……そんな言葉、信じるとでも?」
「高坂さんったら、酷い。同じ部の仲間を疑うなんて」
信じられないとでも言うような、その女の言葉を聴いて、椿の頭の欠陥が切れそうになった。
――仲間⁉ 私とお前が仲間だと⁉ ふざけるな‼ お前が私に何をしたか言ってみろ‼
気付けば、椿は右拳を振り上げていた。
「でも、高坂さんも酷いよねえ」
拳を振り下ろそうとしたところで、横からそんな声が聞こえてきた。言ったのは、取り巻きの一人であった。
「あぁ?」
椿がじろりとそいつを睨むが、取り巻きはそれを意にも解さず、言葉をつづけた。
「だって、あの子、いつも言ってたんだよ。私が高坂さんの居場所を守らないとって」
「ああ、言ってた、言ってた。いやあ、肝心の高坂はもう部活に来ないってのに、泣きながらそんな風に訴えて、いやあ、健気だったねえ」
その瞬間、椿は自分の血の気がさあっと引いて行くのが分かった。胸倉を掴んでいた手を上級生の女が払うと、その手は何の抵抗もなく剥がれ落ちた。
次の瞬間、顔に平手打ちを食らったが、抵抗する気力なんて残っていなかった椿は、ただその場に呆然と立ち尽くすだけだった。
そこで、教室に一人の教師が入ってきた。
「ホームルーム始めるぞ、席につ……おい、一年生がこんなところで何してる?」
椿が答えられずにいると、目の前の女が口を開く。
「すみませーん。この子、部活の後輩で、いま相談に乗っていたところなんですよ。ほら、高坂さん、もう時間だから帰りなさい」
気付けば、椿は言われるがままに教室を後にしていた。
廊下を一人で歩く、彼女の頭の中は、もうぐちゃぐちゃだった。
考えてみれば、直ぐ分かる筈だった。苛めの標的が姿を見せなくなれば、次に狙われるのは誰かなんて、分り切った事だた。そう、次に狙われるのは、標的の一番近くにいた人間に決まっている。しかし、椿は自分のことしか考えず、あの子を見捨てたのだ。だというのに、あの子は最後まで椿が戻ってくると信じていたのだ。自分を置いて逃げた裏切者を最後まで信じていたのだ。
誰があの子を傷付けた。
誰の所為で、あの子はこんな目にあったのか。
――決まっている。全部、私の所為だ。
椿に誰かを攻める権利なんて、なかったのだ。
ふと、窓の外を見ると、雨が降っていた。
しかし、椿の心が軋む音を、雨音は掻き消してはくれなかった。
椿は雨音で目を覚ました。何か夢を見ていた気がするが、夢の内容は殆ど覚えていない。ただあの子の夢を見ていたというのは、はっきりと覚えていた。誰かに問い掛けられた気がする。ようやく自分の罪を思い出したか、と。それに対して、椿は「初めから、忘れてなんかいないさ」と答える。
自分が傷付くのは良い。でも、自分に優しくしてくれた人が、傷付くのは嫌だ。だから、友達なんかいらない。ずっと一人でいい。そう思うと、すっと胸が楽になった。嫌いたければ、嫌えばいい。罵りたければ、罵ればいい。全部一人で受け止めてやる。もう失う物なんか何も残っていないのだ。何を怖がることがあるというのか。
まだ頭は痛かったが、今朝よりはマシになっていた。椿はベッドから降りると、コーヒーを飲んでいた養護教諭に礼を言い、保健室を後にした。
階段を上っていると、上から誰かが下りて来る足音が聞こえた。
「あ、椿ちゃん。もう大丈夫なの?」
その声に顔を上げると、佐々木が心配そうな顔で立っているのが見えた。
「ああ、佐々木さんか。うん、大丈夫」
「そっか、良かった」
佐々木が安心したように、にへらと笑った。その顔を見て、何故だか椿の胸が痛んだ。
「朝、椿ちゃんの様子が変だったから、心配してたんだ」
誰もお前に心配してくれなんて頼んでいない、佐々木にそう言おうとして、椿は思い留まった。どうして、自分を心配してくれている目の前の少女に、そんなことが言えるというのか。
教室に戻るまでの間、佐々木は椿にあれこれと話しかけていたが、椿はそれにうわの空で答えてきた。佐々木はどこかに向かう途中だったように見えたが、良いのだろうかと思ったところで、彼女が椿の見舞いに来ようとしていたのではないかという可能性に思い至り、また胸が苦しくなった。頼むから、これ以上自分に優しくしないでくれと、椿は心の中で叫んでいた。
教室に戻ると、そこにはいつものクラスの風景があった。あの刺す様な視線はもう感じない。しかし、それで安心できるほど、椿は楽観的な性格ではなかった。
椿は席に着き、次の授業の準備をしながら考える。あの視線が、気の所為だったとは思えない。この教室には、既に椿に敵愾心を抱いている人間がいると思って、行動した方がいいだろう。どれだけこちらに敵意を持っていても、攻める材料さえ、見つからなければ、相手も下手に打って出る事は無い筈だ。
大丈夫、今度こそ上手くやって見せる。そんな風に自分に言い聞かせる椿だったが、つい数日前まで、上手くやろうなんて考えるなと、自分に言い聞かせていたことなど、すっかりと忘れていた。自身の矛盾にも気付かず、彼女は更に自分に言い聞かせる。
誰にも弱みを見せるな。猫のように慎重に生きろ。それでだめなら、その時だ。傷付くのにはもう慣れた。私にはもう何も残っていないのだから、痛みも苦しみも、全て一人で受け止めて、孤独を背負い、一人で生きていくしかないのだ。そこまで考えたところで、頭の中であの子の笑顔と佐々木の笑顔が重なって映った。その瞬間、頭が一段と痛んだ気がした。
やがて、授業開始のチャイムが鳴った。
放課後、椿はゲームセンターでひたすらメダルゲームをしていた。祖父には友達と遊んで帰ると、噓のメールを送っていた。
ゲームセンターは良い。耳障りなまでに煩雑とした音の中にいると、自分の中から沸き起る雑音も忘れさせてくれそうな気がした。しかし、そんなものは錯覚だ。今だって、胸の騒めきは消えてはくれない。だから彼女は、その音から逃げるように、ひたすら目の前のゲームに集中した。気付けば、彼女の手元にはメダルで一杯になったカップが五つ並んでいた。五百円で随分と稼いでしまったようだ。換金できるパチンコならばともかく、メダルゲームのメダルがこんなにあっても煩わしいだけなので、椿はそれを店内の受付で預かってもらい、別のゲームに移る事にした。
椿はノートや日用品で何か必要な物があったら、これで買いなさいと言われ、匠吾から月に四千円の小遣いを貰っていた。また元々の貯金もあるので、多少遊ぶくらいのお金は持っていた。とはいえ、もういい時間なので、後二三回ほど何かのゲームをプレイしたら帰ろうと思った。目に付いたのは、筐体の前に座席が取り付けられたレーシングゲームだった。子供が好きな某人気キャラクターが登場するアクション要素が強いゲームではなく、本格的なレーシングゲームだ。ゲームセンターに通い詰めていた頃、椿がメダルゲームの次にやりこんでいたゲームである。
プレイするのが久々なため、多少腕が落ちているが、それなりのタイムを出すことが出来た。
とはいえ、まだ納得できなかった椿は、もう一度挑戦することにした。次のゲームが始まって、少し経った頃、隣の席に誰かが座るのを、椿は視界の端で捕らえたが、椿はそれを気にも留めず、ゲームを続けた。今度は先ほどよりも短いタイムを出すことが出来た。
満足して、椿がそろそろ帰ろうかと思ったところで、筐体の画面に店内マッチング受付中の文字が目に入った。横にを見ると、目深にフードを被った人物が腰掛けていた。フードの端から、長い髪が飛び出していたので、恐らく女性だろう。
このゲームは、店内対戦で四人まで遊ぶことが出来るが、ここに置かれている筐体は二つだけだ。ということは、このエントリーは椿に向けられたものと考えるのが自然だ。
「……」
椿は無言で筐体にコインを投入すると、店内対戦を選択した。ゲーマーとして、こんなお誘いを受けたら、断るわけにはいかないだろう、椿は口の中でそう呟いた。
そして、ゲームが始まった。相手は思った以上の今日的であった。やり込んでいた頃の椿でも勝てるかどうか怪しい。それでも食らいついてた椿であったが、最後の直線で引き離され、椿の敗北となった。
見れば、隣の女は口の端を釣り上げて笑っていた。この時、椿のゲーマー魂に火が付いた。しかし、椿は頭の回路を切り替えて、直ぐに冷静を取り戻す。何にでも言えることだが、物事に熱くなりすぎると、視界が狭くなり、重要な事を見逃してしまうのだ。心を冷たく研ぎ澄ませば、必ず勝ち筋は見えてくる。
椿は更にコインを投入し、二戦目を申し込んだ。相手の車体を追うな、自分の車体とマップだけを気にしろ。堅実なプレイイングを続けていれば、必ずチャンスは訪れる。
下り坂にあるコーナーの直前、ガードレールが切れる場所がある。攻めるならそこだ。先行していた相手がシフトレバーを切り替えるのを聞き、椿も即座にシフトレバーを切り変える。ドリフトでガードレールぎりぎりを攻め、二台の車体が空中でぶつかり合いながら、段差を飛び越える。道路に着地した瞬間、二人の車が並んだ。次のカーブは右曲がりだ。現在、椿の車体は右側にある。有利なのは椿だ。
二人はガチャガチャと忙しなく二人はシフトレバーを切り替える。
二度、三度とコーナーを越え、レースは拮抗しているように見えたが、僅かにだが、相手の方が椿よりもリードしていた。車の性能もあるが、コーナーの直前まで加速し続ける度胸と、切り返しの速さ、間違いなくこの女の実力だ。
しかし、椿も負ける気など微塵もなかった。ゴールの前に大きなカーブがある。そこのガードレールは最後まで続いており、段差を飛び越えることが出来ないが、しかし、だからこそ攻められる。相手の車がドリフトし、外側へと大きく車がそれた瞬間、椿はカーブと相手の車の間に、無理やり車体をねじ込んだ。二台の車が再び並んだ瞬間、椿は思いきり、アクセルを踏んだ。
相手も負けじと、アクセルを踏み、車を加速させる。
二台の車が拮抗しながら、最後の直線を駆け抜ける。
そして、二台の車がほぼ同時にゴールを決める。
椿の座る筐体の画面に表示されたのは、「you wine」の文字であった。その文字を見た瞬間、椿は座席の背もたれに、深く背を埋めた。
「……ふぅ」と溜め息を吐くと同時に、肩から力が抜けていくのが分かった。
と、そこで彼女の顔に影が差す。見上げれば、背の高い女がこちらを見下ろしていた。左目の目元にある泣き黒子と前髪の端を留める綺麗な髪留めが印象的だった。
「あんた、強いね。最後のあれ、絶対勝つと思ったのに」
そう言い、女が手を差し伸べてきた。椿はその手を取り、立ち上がる。
「そっちもね。実際、あのコースじゃなきゃ、多分負けていたのは私だと思う」
最後のあのコースは、椿が最もやり込んでいたコースだった。
「でも、制服でこんな場所に来るなんて、関心しないな。もしかして、不良ちゃん?」
「それを言うなら、貴方も私と、あまり歳が変わらないように見えるけど?」
その女性は背こそ高かったが、フードの隙間から見える顔や話した時の印象から、椿は自分とそう大差ない年齢だと判断した。もしかしたら、高校生くらいかもしれないが、相手がフランクに接してきているのだ。野暮な事は聞かず、こちらもフランクに接することにした。
「まあね。それより、向こうでジュースを飲みながら、少し話さない?」
「うん、いいよ」
二人は自動販売機でそれぞれジュースを買った後、脇にあったベンチに座り、先ほどのゲームについて熱く語り合った。
「それにしても、まさかオンライン対戦以外で、あのゲームで負けるとは思っていなかったよ。この辺りに、まだこんな強い奴が残っていたなんて」
「ああ、うん。実は私、最近こっちに引っ越してきたばかりでね」
「へえ、道理で見かけない顔だと思った」
「あのゲームは引っ越してくる前の町で、それなりにやり込んでいてね。こっちに来てから、やってなかったから、久々にやってみたくなったんだ」
「やり込んでいたって言っても、メダルゲームの次にだろ」
女が揶揄うように言ってきた。
「見てたの?」
「うん、女子中学生が、おっさんに交じって延々とメダルゲームにしてるのは目立つからね。それもめちゃくちゃ勝ってるし。そんな相手が、自分が一番やり込んでいるゲームをやり出したら、つい挑んでみたくなるでしょ」
「そう言われると、なんか、恥ずかしいな」
「メダルゲーム好きなの?」
「上手くやれば、ずっと時間を潰していられるからね。それまで夢中になっていたものが、急に出来なくなって、時間だけ持て余していた時期があってさ。だけど家にもいたくなくて、とにかく外で時間を潰せるものを探していた時に出会って、それ以来、どっぷりって感じ」
「……なんとなく、その感覚分るよ」
その言葉が慰めや同情で言っている訳ではないことは、直ぐに分った。この時間に、こんな格好でゲームセンターに来ている若い人間だ。彼女にも何かしらの悩みがあるのだろう。しかし、椿はそれに敢えて触れるような真似はしなかった。
「さて、もういい時間だろう。私はそろそろ帰ろうと思うけど、そっちは?」
「うん、私もそろそろ帰ろうと思う」
二人はゲームセンターを出て、入口の前で立ち止まった。
「それじゃ、またね、ええと……」
「泉だよ」
「そっか、私は椿。また会おうね」
「うん。その時はまた一緒にゲームしよう」
そう言い、二人は別れた。
アーケードを出ると、雨は既に止んでいたが、空は既に暗くなり始めていた。椿は帰路を走って帰った。家が見えてきたところで、椿は走るのを止め、歩きながら息を整えた。家の雨戸は既に閉められている。
玄関まで辿り着くと、椿は恐る恐る玄関の戸を開いた。
「……ただいま」と声を出すも、返事はない。
電器の消えた廊下の先で、祖父の作業部屋から、明かりが漏れているのが見えた。椿は靴を脱ぎ、そこまで歩いていった。部屋の戸をノックするも、中から返事はない。椿はゆっくりと戸を開いた。部屋の中では匠吾がこちらに気付かず、机に向き合い、何か作業をしているのが見えた。
「ただいま」椿が再びそう口にすると、匠吾はピクリと肩を振るわせた後、ゆっくりと椿の方に振り向いた。
「帰ったか。遅かったな」
「うん、遅れてごめんなさい」
「いい。夕飯は台所に作ってあるから、好きに食べなさい」
「はい」
椿がそう答えると、匠吾は再び、机に向き合い始めた。これ以上、邪魔をしてはいけないと思い、椿は匠吾の部屋を後にした。椿は匠吾に帰るのが遅れたことを、怒られると思っていた。しかし、匠吾は怒ったりせず、何も言わなかった。それが、何故だか椿には寂しく思った。勝手に遊び歩いて、勝手に家に帰るのが送れた癖に、身勝手な言い分だ。
自分の部屋に荷物を置いた後、椿は台所で鍋を温めていた。
匠吾は無口な人だった。椿もお喋りが得意な人間ではなかったため、それを有難く思っている節があった。椿は初め、祖父はこちらに気を遣わせないために、敢えて無関心を装っているのだと思っていた。しかし、最近になって、祖父は本当に自分には興味がないのでは、と思うようになっていた。先日、匠吾に学校の事を聞かれたが、それまで彼からそのようなことを、聞かれる事は無かった。また、それ以降も何か尋ねられることも無かった。思えば、祖父にあれをしろ、これをしろと言われた記憶もなければ、叱られたことも、褒められたことも無かった様に思う。
匠吾は毎日、食事を用意し、必要なら自転車や小遣いもくれた。こちらが家事を手伝うと、ちゃんと感謝もしてくれた。しかし、もしもそれら全てが、義務感から来る行いだったとしたらどうだろうか。匠吾は実は椿の事をなんとも思っておらず、むしろ邪魔に思ってさえいたとしたら、どうだろうか。それは――
「……少し、嫌だな」
口について出た言葉に、椿は自分自身でも驚いた。何故そんなことを自分が言ったのか、自分でも分からなかったからだ。しかし、疑問は直ぐに解けた。
母を亡くしたあの日、椿にはもう何も残っていなかった。自分の所為で友人も失い、母も失い、最早椿の心は空っぽになっていた。
しかし、そこに現れたの匠吾だった。自分はもう天涯孤独だと思った矢先に現れ、堂々とした声で、自分は椿の祖父だと名乗ってくれた。いきなり現れて、祖父だと言われても、椿には実感が湧かなかった。当たり前だ。急に現れた知らない人物が自分の家族だなんて、直ぐに受け入れられる筈もない。しかしそれでも、その祖父の言葉が、椿に自分にはまだ何かが残っているのではないかと、そう思わせてくれたのだ。
椿は自分が思っていた以上に、あの祖父に感謝して、慕っていたようだ。その事に気付くと同時に、自分がどれだけ祖父に支えられていたのかも自覚した。
――なんだよ、全然一人で受け止められてないじゃないか。
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