第6話

   八


 木曜日のことだ。匠吾がいつものように商店街で露店を開いていると、そこに一人の客がやってきた。黒いパーカーを着込んで、フードを目深く被った少女だった。以前からよく見かける子で、匠吾が露店を開いていると、ふらっと現れては、商品を観察するだけ観察して、何も買わずに帰っていくのだ。恐らく、中学生くらいの子だと思うが、今日みたいに平日の昼間でも普通にやってくることもあったので、学校はさぼっているのだろう。匠吾も他所の子にあれこれと口煩く言う気はないので、特に何も言わず、好きに商品を観察させていた。

 どうせ、今日も何も買わないのだろうと思いながら、匠吾がぼうっとしていると、

「あの、これ」

 と言い、少女が花の意匠が拵えられた髪留めを一つ手に取り、匠吾に渡してきた。それを匠吾は意外に思ったが、商品を買って貰うに越した事は無いと思い、値段を口にした。

「五百円」

 少女が千円札を取り出し、匠吾に差し出すと、匠吾はそれを受け取り、お釣りを返した。

「毎度あり」

 それから匠吾は髪留めを紙袋に入れると、一緒に簪も入れてやった。

「……それ、買ってないんですけど」

「なに、サービスだよ。初めて買ってくれたからな」

 以前、この少女がその簪を物欲し気に見ていたのを匠吾は覚えていたのだ。その簪は、露店で売っている商品の中では、それなりに値が張るモノだった。この年頃の少女には、買うのに躊躇するだろうと思い、匠吾は以前からこの娘が何かを買っていくことがあれば、サービスしてやろうと考えていたのだ。

「……ありがとうございます」

 その声は蚊の鳴くようなか細い声であったが、その裏で喜びを噛み締めているのが伝わって来るような声であった。

「またいつでも来なさい」

 匠吾の言葉に、少女は一礼して、去っていった。

 その背中を見送りながら、匠吾は嘆息する。他所の娘にはこのような事が出来るのに、なぜ孫娘相手には、素っ気ない対応になってしまうのか。いや、その原因を匠吾自身もよく理解していた。彼は家族と向き合うのが怖いのだ。かつての失敗が脳裏を過り、今更お前ににそんな権利があるのかと、かつての自分が問い掛けて来る。しかし、だからといって、逃げてばかりではいられないだろう。これは権利どうこうの問題ではなく、大人としての義務の問題だ。椿を引き取ると決めた以上、彼には椿と向き合う義務があるのだ。

 しかし、そう自分に言い聞かせるほど、彼の気分は憂鬱で重苦しいものになった。そんな自分が情けなく、匠吾は再び、溜息を吐いた。


 椿は昼休み、一人で図書室にいた。本も読まずに、椅子に腰かける彼女の手には、一枚の紙きれがあった。

「何してるの、椿ちゃん」

 そんな彼女に佐々木が話し掛けてきた。

「佐々木さん、図書室では静かに」

 椿が小声で注意すると、

「あ、ごめん」と言い、佐々木は椿の横に座った。女三人寄れば姦しいとはよく言ったものだが、佐々木は一人でも十分すぎるほどに騒々しい娘だ。

 最近、佐々木からの椿への呼び方が「高坂さん」から「椿ちゃん」に変わった。自分も呼び方を変えるべきかと考えたが、そもそも椿は佐々木の下の名を知らなかった。椿が人の名前を覚えるが苦手というのもあるが、佐々木が周囲から大体「佐々木」か「サッキー」という愛称で呼ばれているからだ。だからといって、あだ名で呼ぶ気にもなれない。あだ名で呼ぶというのは、下の名で呼ぶよりもハードルが高いというのもあるが、相手が下の名前で呼んでくれているのに、苗字由来のあだ名で呼ぶというのもなんだか違う気がするのだ。

「それで、何見てたの椿ちゃん?」

「ん、ああ。これだよ」

 そう言い、椿は手元の紙を佐々木に見せる。それは委員会決めの紙であった。部活に入るかどうかは生徒の自由ではあるが、委員会は全員が所属しなくてはならないルールだ。

「ああ、委員会かー」

「そう。保健委員会と生活委員会、それから放送委員会が残っているみたい」

 椿の転入前に、既にクラス全体の委員会決めは終っていたため、選べる委員会は少ない。

「どの委員会に入るかはもう決めたの?」

「いや、まだ」

 取り敢えず、放送委員は論外だ。ただでさえ、口下手だというのに、全校生徒に向けて、校内放送で喋るなんて無理だ。

「因みに私は美化委員だよ。美化って言葉がいいよね。これはもう、美術部員として、入らざるを得ないと思ったね」

「別に芸術の全てが美しいものではないと思うよ」

 芸術の中には、美しいものだけではなく、醜いものや退廃的なものを描いた作品も多くある。そういった意味では、美術という言葉には語弊があると、椿は常々感じていた。

「その通り! 分かってるね~、椿ちゃん。芸術において肝心なのは、美醜よりも、如何に見た人の感性を刺激できるかだからね~。でも、私は敢えて、美術という言葉を使い続けるよ! 何故なら、私は美しいもので人を感動させたいから‼」

「佐々木さん、ステイ。ここ図書室、静かに」

 握り拳を作って、熱演する佐々木に対して、椿は努めて冷静に注意した。さっきから周囲の視線が痛い。

「椿ちゃんは前の学校では何委員会だったの?」

「図書委員」

「読書好きって、言ってたもんね」

「まあね」

 どうやら、佐々木は転校初日の事を覚えていたようだ。坂口安吾云々の話を掘り返されたくなかった椿は、早々に話題を変える事にした。

「ところで、生活委員会って、どんな委員会なの?」

「椿ちゃんの前の学校にはなかったの?」

「あったけど、特に興味がなかったから、何をしてたかまで覚えてない」

 昔から椿は、興味のない事を覚えるのは苦手なのだ。

「月に何度か、朝に持ち物点検や挨拶運動をしてたはずだよ」

「なるほど。なら、これも論外だ。保健委員会にしよ」

「椿ちゃんは早起き苦手だもんね」

「佐々木さんほどではないけどね」

 そこで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

 その日の五限は数学だった。正直、眠たくなるような授業であった。授業の進め方も教師によって様々だが、私語一切厳禁で、教科書の内容を一方的に語られる授業は苦手だった。途中で集中力が切れたり、分らないことが出てくると、後は目の前に書かれた板書を移すだけの作業になってしまう。それなら、要所要所で、班や隣同士の人と問題について話し合わせたり、途中で問題を解くように生徒を指名してくれる授業の方がまだいい。人とのコミュニケーションは苦手だがそちらの方が授業を理解しやすい。勿論、どんな授業が合うかは人それぞれで、前者の授業の方がいいと思う人間もいるだろう。それでも、椿はその授業を退屈だと思わずにはいられなかった。

 六限の体育は男子がバレーで女子がマラソンだった。クラスの女子達は皆、愚痴を零していたが、暇な時にはランニングをする程度には、椿は走るのが嫌いじゃなかった。むしろ、彼女としては、バレーにならなかったことは喜ばしいことだった。

 椿は筋肉量が必ずしもスポーツの上手い下手に直結しないことを知っている。どれだけ身体を鍛えたところで、運動音痴は運動音痴なのだ。そして、椿は運動音痴であった。特に球技に関しては最悪と言ってもいいほどである。正面に向けて投げたつもりのボールが何故か床に叩きつけられていたり、飛んできたボールを避け切れずに顔面で受け止めたりと、とにかく球技に関しては良い思い出が一つもない。

 それに対して、マラソンは走るだけで授業が終わるのだから、椿にはご褒美にしか思えなかった。ただ一つ懸念点があるとすれば、マラソン中に「一緒に走ろう」などと言う誘いをしてくる人間がいるかもしれないことだ。自分のペースで走るのが好きな椿は、他人と合わせて走るのが苦手だ。それだけならまだしも、走って喉が乾いているところに、無駄な雑談など持ち掛けられたら、迷惑極まりない。

 とはいえ、級友達の転校生への興味が落ちてきた今、彼女に話し掛けてくる人間は少ない。

 そして、そんな数少ない人間の代表はというと、なぜか、この時期に半袖短パンになっていた。わんぱく小学生みたいな恰好で念入りに準備運動をしている佐々木を、椿が珍獣でも見るような目で見つめていると、彼女と目が合った。合ってしまった。

「椿ちゃん、私、絶対に一位を取るよ」

 彼女が握り拳を胸の前に掲げて言った。もしも、これが漫画やアニメだったのなら、彼女の瞳に闘志の炎が燃え上がっていたことだろう。

「うん、まあ……頑張って」

 そう言う外になかった。この可愛らしい少女が見た目に反して、その中身が大分変っていることにも、最近では慣れ始めていた。

 準備体操が終えると、体育教師が授業の説明を始めた。といっても、走るだけであるからして、たいした説明もなかった。校庭を十五周したらそれぞれ休憩を取りながら、他の子達がゴールするのを待ち、全員がゴールし終えた後は、教師からまた説明があるとのことだ。

 それから生徒達は教師の指示で、スタート地点へ移動し、教師の「よーい、スタート!」の掛け声と同時に生徒達が一斉に走り出した。

 走り始めて暫くした頃、椿は早く着きすぎて目立つのも、遅すぎて悪目立ちするのも嫌だったので、走っている生徒の群れの真ん中よりも、少し前の辺りを走っていた。佐々木はというと、その一団から何メートルも先で独走していた。どうやら、本気で一位を目指しているようだった。

 更に暫く経つと、体力の差によって、固まって走っていた一団は、次第に後方へと尾を伸ばすように広がっていった。周囲から誰かの息切れや悪態の声が聴こえてくる。そんな中、前方に見える佐々木だけは楽しそうに生き生きと走っていた。あの子はすごいなあ、などと考えながら、椿が視線を自身の足元に戻すと、スニーカーの靴紐が解けているのが見えた。椿は校庭のトラックの内側へと移動して、靴紐を結び直した。

 椿がトラックに戻り、再び走り始めたところで、彼女は斜め前方を走る女子生徒の顔色が悪いことに気が付いた。その女子生徒の顔に見覚えはなかった。隣のクラスだろうかとも思ったが、碌にクラスメイトの顔も把握していない椿には、確証が持てなかった。色々と悩んだ挙句、椿は、気付いてしまった以上は、無視するのも気分が悪いという結論に至った。椿は僅かに走る速度を上げ、その少女の横に並んだ。

「顔色が優れないようだけど、大丈夫?」

 突然話し掛けられた女子生徒は驚いたような顔で椿を見た後、

「……大丈夫、です」

 歯切れの悪い声でそう言った。

「そう、それならいいんだけど……」

 言いながら、椿は横目で少女の顔を観察するが、どう見ても、大丈夫な顔じゃない。

「でも、もしも無理しているなら、ちゃんと言って。私、保健委員なの。一人で不安なら一緒に付き添ってあげるから」

 嘘である。保健委員に入る事は既に決めていたが、書類はまだ提出前であるため、椿は保健委員でも何でもない。だが、相手の不安を解消するためなら、この程度の嘘は仕方がないだろう。そして、女子生徒は椿の言葉を信じたのか、僅かに思案した跡、

「……あの、お願いしてもいいですか?」

「うん、任せて」

 椿はそう頷いて、その生徒と一緒に走っている輪から抜けて、体育教師に近づいて、事情を説明した。勿論、相手は教師なので、保健委員云々の嘘はバレると思って言わなかったが、幸いにも付き添いの許可は得られた。

 それから椿はその女子生徒を保健室まで送り届けたのだが、養護教諭が不在だったため、椿もその生徒と一緒に養護教諭の帰還を待つことになった。知り合いでも何でもない相手と、同じ空間に二人っきりというのは、些か気まずいものがある。彼女が何か話し掛けるべきかと血迷い始めた頃になって、養護教諭が戻ってきた。教諭に事情を説明した後、椿は女子生徒に別れを告げ、保健室を後にした。

 校庭に戻ると、既に殆どの生徒が走り終えた後だった。体育教師に近づき、事情を説明すると、今から走ると、時間が掛かるから走らなくてもよいと言われたので、彼女はトラックの中で固まっている生徒たちの一団に加わった。

 すると、彼女を見つけた佐々木が近づいてきた。

「お帰り、椿ちゃん」

「ただいま。それで、一位は取れたの?」

「うん、ぶっちぎりだったよ」

「そう。よかったね」

 ――まあ、あの様子じゃ、結果は見えていたけど。

「でも、早瀬さんがいなかったから、なんか物足りないんだー」

「早瀬さん?」

「うん、隣のクラスの陸上部の子。最近は学校、休んでるんだけど、凄い足の速い子なんだよ」

「へえ」

 そんな話をしているうちに、最後の生徒がゴールした。教師の呼び声で速やかに生徒達が整列する。しかし、校舎に取り付けられた時計に目を向けると、まだ授業終了には幾ばくかの時間がある事が分かる。どうするつもりだろうかと思っていると、教師が残りは自由時間として、授業が終わり次第、各自解散するようにと言い渡した。

教師が話し終えると、生徒達の中から歓声が上がった。

 その後の女子生徒達はというと、遊ぶためのボールを取りに行く者、雑談を始める者、男子の様子を見に体育館に向かう者など、様々だった。

 そして椿はというと、授業が終わるまでマラソンを続けていた。走り足りなかったというのもあるが、後で周囲から嫌味を言われるのが嫌だったのだ。敵を作らないコツは、周囲から攻められるような負い目をなるべく減らすことだと、椿は失敗から学んでいる。

 授業が終わり、教室へ戻った椿は、ホームルームの後に小川教諭に委員会の入会届を渡してから、帰路に就いた。


 椿が帰宅したのを見て、匠吾は夕飯の準備を始めた。先ずは手早く味噌汁を作った後、もう一つ鍋を用意して、油を注ぐ。予めタレに漬け込んでおいた鶏肉を取り出し、衣を付けた後、脂が温まったのを見計らい、一つずつ鶏肉を脂の中へと落としていく。ある程度、火が入ったら、鶏肉を油の中から引き上げて、一度冷ましてから再び油の中に入れる。

 出来上がった唐揚げをクッキングシートの上にのせ、余分な油を取り除いたところで、炊飯ジャーが鳴り、米が炊き上がったことを告げる。

 料理を更に盛り付け、居間の机に並べたところで、椿を呼ぶ。二人が席に着いたところで、両手を合わせて、

「いただきます」

 と同時に言い、食事を始める。

 二人は黙々と食事を進めていたが、匠吾が不意に口を開く。

「学校はどうだ?」

 その問いに、椿が意外そうな顔を彼に向けた。今まで匠吾がこのようなことを椿に訊くのも初めてならば、彼が食事中に何か話し掛けるのも初めてのことだったからだ。

「うん、まあ……それなりに」

 それなりに、というのは、それなりに楽しいという意味だろうか。

「そうか」

 それだけ言い、匠吾は食事に戻った。何故か余計、食卓が気まずくなった気がした。また二人が黙々と食事を続けていると、今度は椿が口を開いた。

「この間、時計屋さんにあった時計」

「ん?」

 時計がどうしたというのだろうか。

「綺麗な装飾が、されていたけど、あれって、その……」

「ああ、あそこにあるのは、大体俺が手を加えたやつだ。……全部ではないがな」

「そう、なんだ」

「ああ」

 匠吾は答えてから、味噌汁を飲む。

「ガラスケースの中に、凄い高い懐中時計があったけど、あれも?」

 その言葉だけで、匠吾は椿がどの時計のことを言っているのか分った。

「あれも、俺と時計屋で作った物だ」

 還暦を迎えた頃のことだ。この先、どちらが先にくたばるかも分からない。その前に互いの持ち得る技術の全てを注ぎ込んだ最高傑作を作ってみようと、どちらともなく言い出したのが始まりだった。外装にはプラチナを用い、そこに匠吾が緻密で繊細な造形を施し、文字盤の塗装には青漆を用いていた。そして厳時郎は内部の機構には、日本でも極少数の人間にしか扱えないトゥールビヨンが組み込んでいた。予算度外視で作り上げた逸品である。値段が値段故に、買い手が付くとは思っていないが、二人とも作っただけで満足していたので、特にそのことを悲観したりはしていなかった。それどころか、次はもっと良いものを作ろうと、二人で計画を練っていたのだが、当時中学生だった刻音に「うちの店を赤字で潰す気か‼」と本気で怒られて頓挫した。……のだが、今でも酒の席に着くと、二人で次なる悪巧みを企てている始末であった。死ぬ前にあと一回くらいは、あんな作品を作り上げたいものだ。

「あの時計……凄く、恰好良かった」

「当たり前だ」

 匠吾と厳時郎が本気で作ったのだ。不格好な物が出来上がる筈がない。

 それから会話が続く事は無く、やがて二人は食事を終えた。

 皿を洗いながら、匠吾は溜息をついていた。結局、碌に孫と会話は出来なかった。自分から話し掛けておいて、もっと会話を続ける努力をしないでどうする。その後も、向こうが気を遣って話し掛けてくれたというのに、匠吾はと言えば、つっけんどんな返しをするばかりで、気の利いた事は何一つ言えなかった。

「……はあ」

 気が付けば、また溜息が漏れていた。こんな時は煙草でも吸いたかったが、つい先日に煙草を減らそうと決めたばかりである。彼は泣く泣く喫煙を諦めた。

 

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