第5話
七
朝食を食べようと、冷蔵庫を開いた匠吾は、怪訝そうに眉を持ち上げた。冷蔵庫の中には二人分の朝食があった。椿は朝食を取らずに家を出たのだろうか、と思っていると、家の電話が鳴り始めた。彼は台所に置いてあった電話の子機を手に取り、通話ボタンを押した。
「はい、高坂です」
『あ、おはようございます。椿さんの担任の小川です』
「ああ、どうも。いつも孫がお世話になっております。それで、何か御用でしょうか?」
匠吾が訊ねると、
『実はまだ椿さんが学校に来ていないようでして』
そこでようやく、匠吾は合点がいった。
「少々お待ちください」そう言い、匠吾は電話を耳から話して保留ボタンを押すと、彼はそのまま椿の部屋へと向かった。
部屋の前まで来た匠吾は、部屋をノックして、三秒待った。何時まで経っても返事がないと見るや否や、彼は部屋の戸を開け放った。そして案の定、椿は部屋の中にいた。彼女はベッドの上で幸せそうに眠っており、口の端からはよだれが垂れていた。
「椿、朝だぞ」
その声に彼女はぴくりと眉を動かし、重たそうに瞼を開ける。それから暫く、焦点の定まらない視線を室内に彷徨わせていたが、その眼に匠吾の姿を捕らえると、ガバッと起き上がった。
「え、あ、え? な、なに?」
「体調は悪くないか?」
「う、うん」
「もう九時半だ。早く学校に行きなさい」
その言葉に椿は最初、何を言っているのか理解できないという表情を浮かべたが、直ぐに眠気など吹っ飛んだという様子で、目を見開き、それから顔を蒼褪めさせた。彼女が勢いよくベッドから降りるのを背にして、匠吾は部屋を出た。
左手に持った子機の保留を解いて、再び耳に当てる。
「すみません。どうやら、寝坊してしまったみたいです」
『いえいえ、大事がなくって良かったです』
「今起きたようなので、暫くしたら、そちらに向かうでしょう」
『はい、承知致しました。それでは、お時間早くに有難うございました』
「いえ、こちらこそ有難うございました。それでは、失礼します」
そう言い終え、匠吾は通話を切った。
それと同時に背後で勢いよく部屋の戸が開け放たれ、椿が飛び出してきた。
「朝食はいるか?」
「い、いらない!」
椿は匠吾の声を背に、玄関まで走っていき、躓きそうになりながら、靴を履く。
「いってらっしゃい」
「いってきます!」
威勢のいい返事と共に、椿は玄関の向こうへと掛けていった。
匠吾はその後ろ姿を見送った後、半開きになっている玄関の戸をきっちりと閉めた。と、そこで彼は、自分が車で送って行ってやればよかったのでは、と気が付いたが、そうするにはもう遅かった。
椿は立ち漕ぎで自転車を走らせなていた。全力でペダルを漕ぎながら、それと同じように彼女の頭の中では――失敗した、失敗した、失敗した‼ という言葉がぐるぐると渦巻いていた。
――転校早々、寝坊で遅刻する転校生とか、絶対に悪目立ちするじゃん‼ などと考えていると、
「あ、高坂さん、おはよー」
なんて呑気な声が前方から聞こえてきた。顔を上げると、そこにはクラスメイトの佐々木がこちらに手を振っているのが見えた。
驚いた椿が自転車にブレーキを掛けると、佐々木の横で停まった。
「さ、佐々木さん⁉」
「高坂さんも遅刻?」
「え、うん、佐々木さんも?」
椿が訊ねると、佐々木が胸を張って答える。
「うん、二学期始まってから、これで五回目だよ」
――威張ることじゃない。
椿はこのまま佐々木を置いて、学校へと向かうべきか思案した。しかし躊躇は、一瞬だった。
「佐々木さん、乗って!」
と言い、椿は自転車の荷台を指差した。
「え、でも、二人乗りは……」
「いいから、早く!」
「わ、分った!」
後ろに乗った佐々木が、椿の胴に手を回すのを確認した後、椿は勢いよくペダルを蹴った。
学校の駐輪場に着いた時、椿は肩で息をしていた。
「だ、大丈夫、高坂さん?」
佐々木が心配そうに声を掛けてきたが、椿はそれを手で払うような仕草を取った。
「良いから、先に行ってて」
それだけ言うと、椿は振り返らずに駐輪場の隙間に無理やり自転車を押し込み、鍵を掛けた。籠から鞄を取り出し、代わりにヘルメットを籠に投げ入れた後、彼女は背後を振り返って驚いた。そこにはまだ佐々木が立っていた。
「な、なんでまだいるの?」
「まだ高坂さんにお礼を言ってなかったから」
「お礼?」
「うん、ありがとうね、高坂さん!」
そう言って笑う佐々木の顔は、女でもつい見惚れてしまいそうなほどに、可愛らしかった。
「い、いいから、早くいこう」
そんな自分を誤魔化すように椿は佐々木を連れて、校舎へと向かった。
職員室に着くと、小川から軽い小言を言われた後、遅刻届にサインをするように言われ、そこに自分の名前を記入した。椿に対する小言よりも、佐々木に対する小言の方が、長かったように感じるのは、恐らく気の所為ではないだろう。
朝食を抜いてきた椿は、二限が終る頃には、空腹になっていた。そんな彼女の机の上にすっと誰かの手が伸びてきて、飴を置いた。驚いて、顔を上げると、そこには悪戯っぽく微笑んで、人差し指を唇の前で立てる佐々木の姿があった。
「あ……ありがとう」
椿が言い終える前に、佐々木はこちらに背を向けて立ち去っていた。
いい子だと思ったが、そもそもいい子は五回も遅刻しないし、学校に飴玉なんか持ってこないだろうと椿は思い直した。
その日の昼休み、椿と佐々木は職員室に呼び出されていた。
「なんで、呼び出されたか分かるか?」
小川教諭は、険しい顔で二人に問うた。
「……遅刻したからですか?」
椿がおずおずと言うと、
「それもあるが、問題はそこじゃない」
と小川はそれを一蹴した。
「それじゃあ、なんで……」
「さっき学校に電話があった。今朝、うちの制服を着た生徒が、自転車で二人乗りをしていたとな。詳しく話を聞いてみたところ、その時間帯が大体十時前頃だと言っていた。ここまで言えば分かるだろう」
その言葉は酷く無機質で、感情を押し殺したような声であった。
「すみません。多分私達です」
「……はあ、転校早々、あまり問題を起こすんじゃない」
「はい。すみません」
椿が謝罪すると、小川は佐々木の方へと目を移す。
「佐々木、お前はそもそも遅刻が多過ぎる」
「すみません」
「今学期に入って既に五回、一学期を含めると、九回だ。こんなに遅刻が多い生徒は、お前だけだぞ。お前は何で、こんなにも遅刻が多いんだ」
「夜遅くまで、絵を描いていて」
「中学生なら、勉強をしろ! 何時までも小学生気分でいるんじゃない、自己管理くらいしっかりしろ‼」
小川が机を叩いて、佐々木を怒鳴りつけた。
「はい、すみません」
「とにかく、二人とも、もう中学生なんだ。我が校の生徒だという自覚を持って、周囲から恥ずかしくないように振舞え」
「はい、すみませんでした」
佐々木と椿が同時にそう言い、頭を下げると、小川は再び溜め息を吐いた。
「二人とも、今日の五限は、生徒指導室で自習だ。反省文を書いた後、提出するように」
「あの、生徒指導室って、どこですか」
「ああ、佐々木、この後案内してやれ」
「はい」
「それじゃあ、二人とも、もういい」
そう言い、小川は自分の机に目を向けた。
「失礼しました」
「失礼しました!」
二人はそう言い、職員室を後にした。
廊下を二人並んで歩いていると、
「いやー、怖かったね、小川先生」
と、佐々木があっけらかんに笑って言った。その顔を見て、椿は罪悪感を覚えた。
「あの、佐々木さん。今日はごめん」
椿の言葉に佐々木が不思議そうに首を傾げる。
「なんで、高坂さんが謝るの?」
「私が佐々木さんを、自転車の後ろに乗る様に言ったから。実際、佐々木さんはあの時、止めようとしたし……だから、私の所為で……その、ごめん」
椿は俯きながら言った。椿は佐々木が苦手だ。距離感も近いし、いつも明るくて元気で、一緒にいると、周りから注目されている気がして嫌だ。それでも、椿は自分に優しくしてくれた人が、自分の所為で傷付くのが嫌だった。
「おかしなことを言うね、高坂さん」
「え?」
「そもそも、本当にダメだと思ってたら、私はちゃんと断っていたよ。ダメな事って、解っていて、私は自分で決めて、高坂さんの後ろに乗ったんだから、私が高坂さんに謝られる理由なんて、何一つないよ」
「でも……」
まだ何か言おうとする椿に対して、
「それに私が職員室に呼び出されることなんて、いつものことだからね」
そう言うと、佐々木はアッハッハッハと声を上げて笑ってみせた。
「……………………天真爛漫アウトロー」
「え、何か言った?」
「ううん、何でも」問い返す佐々木に対して、椿は首を横に振って否定した。
それから椿は思い出したように椿に訊いた。
「ところで、生徒指導室って、どこ?」
「あ、通りすぎちゃった」
佐々木がそう言ってまた笑う。
「何それ」
つられて、気付いたら椿も笑っていた。
椿は佐々木が苦手だ。しかし、佐々木は悪い奴ではないのだろう。
その日の六限の頃から、徐々に天気が崩れ始めた。急いで帰らないと、雨が降り出しそうだと思い、放課後になると椿は直ぐに自転車に跨り、走り始めた。
しかし、少し走った辺りで、直ぐに雨が降り始めた。彼女は慌てて近くにあった商店街に逃げ込んだ。ここで雨脚が弱まるまで待とう。そう思い、彼女が物珍し気に商店街をうろついていると、
「あれ、君。匠吾さんのお孫さんじゃない?」
そんな声が聴こえてきた。声のした方に振り替えると、背の高い女性が立っていた。その女性は上げた前髪をヘアピンで頭頂部の辺りに留めており、後ろ髪を腰まで伸ばしていた。化粧気のない女性で、顔にはそばかすが目立つが、それ以上に目つきの悪さが気になった。椿も目つきは悪い方だが、この女性ほどではないだろう。
知らない女性に話しかけられ、呆気に取られていた椿だったが、直ぐに女性が言った言葉を思い出す。匠吾とは、確か椿の祖父の名だった筈だ。
「はい、そうですけど」
「ああ、やっぱり。この間、匠吾さんとうちの商店街に自転車買いに来てたでしょ」
「は、はい」
椿が頷くと、女性は一度アーケードの外へと目を移してから、再び椿に向き直った。
「傘持ってないなら、うちにおいでよ。匠吾さんに電話するから」
「いえ、流石にご迷惑ですし」
「子供が遠慮しない。ほら、行くよ」
椿はその女性の勢いに乗せられて、気付けば、彼女の後を追っていた。知らない大人に付いて行くのは、不味いのでは、と思い直した頃には、既に女性は目的地に着いていた。その店の入口の上には、工藤時計工房と書かれた看板が掛けられていた。
女性が遠慮なく戸をあけ放ち、中に入っていくのを見て、椿も躊躇いがちに店内に足を踏み入れた。
「お爺ちゃん、この前話していた、匠吾さんの孫連れてきたよ」
と女性が店の奥に声を掛けると、そこにいた一人の老人が顔を上げた。椿を案内した女性と同じく、鋭い目つきをした老人であった。
「……似ているな」
老人はそれだけ言うと、また椿から視線を外した。女性はそんな老人の横をすり抜けると、タオルを持って来て、それでごしごしと椿の頭を拭いた。
「あ、有難うございます」
と椿が言うと、女性は「うん」と頷いて、椿から手を離した。
「それじゃ、私は匠吾さんに電話掛けてるから、適当に店内でも見ていていいよ」
そう言うと、女性は店の奥へと消えていった。
頭の他にまだ濡れている部分をタオルで拭き終えると、手持無沙汰になった椿は女性に言われた通り、店内を見回した。店内には様々な時計が置いてあった。一番多いのは壁掛け時計と腕時計だったが、他にも置時計や懐中時計などもあった。シンプルな作りの物もあれば、装飾に凝った物もあり、見ていて飽きなかった。
よくテレビなどで、文字盤の中にまでびっしりと装飾が施され、時字が良く見えない高級時計を目にすることがあるが、この店にある時計に、そのような時計は一つもなかった。恐らく、それはこの時計屋の店主の拘りなのだろう。時計とは、あくまで正確な時間を知るための道具である。機能性を無視してまで、過度な装飾は与えるべきではない。ここに立ち並ぶ時計を見ていると、そのような製作者の信念が伝わってくる。
特に椿の目を惹いたのは、ガラスケースの中に入った一つの懐中時計であった。その横には、懐中時計の蓋を閉じた時と、開いた時の比較として、写真が張られていた。上品な青色で染められた文字盤の下側には穴が開いており、そこから内部の機構が覗いていた。見たところクロノメーターとも違うようだが、一体あれは何なのだろうか。蓋には、これでもか言わんばかりに、繊細で緻密な装飾が施され、ただ添えるように散りばめられた小粒の宝石が、時計全体の美しさを際立たせていた。それでいて諄さは感じさせず、時計というものが、本来持ち合わせている美しさを損なわせるどころか、より引き出すかのような、瀟洒な造形、まさしく神業と言ってもいいだろう。
もともと椿はこの懐中時計という物に魅力を感じていたのだ。腕時計の方が、実用的で直ぐに時間を確認出来ると、分ってはいるが、どうにもこの蓋の付いた、丸っこいデザインが好きで溜まらなかった。いつかお金が貯まったら、自分の気に入った懐中時計を買ってみたいと思う程度には、彼女は懐中時計が好きだった。そんな彼女にとって、その懐中時計は、まさしく理想の否、理想以上の懐中時計であった。しかし、値段を見て、彼女は愕然とした。
暫くそうして、懐中時計を眺めていた彼女だったが、ふと誰かの視線を感じて顔を上げた。
振り向くと、まじまじとこちらを見ている、先ほどの女性の姿があった。どうやら、電話を終えていたようだ。
「えっと、何でしょうか?」
「いやあ、可愛いなあって」
「可愛い、ですか」
椿は他人から目つきが悪いと言われることはあっても、可愛いと言われることは少なかったので、その言葉が少しむず痒く感じた。
「うん、猫みたいで可愛い」
「ありがとうございます」
「そう言えば、まだ名乗っていなかったね。私は工藤刻音、それであっちの爺さんが厳時郎。よろしくね」
「あ、どうも、私は椿って言います」
「そっか、椿ちゃんか。良い名前だね。もう少ししたら、匠吾さんが来るから、それまでゆっくりしていってよ」
「はい」
「あ、寒かったら、店の奥にストーブあるからこっち来な」
そう言われ、椿は店の奥に移動した。椅子に腰かけ、ストーブの前に座った椿だったが、彼女は落ち着かない様子で、店内をきょろきょろと見まわしていた。すると、ある物が目についた。それは一つのオイルライターだった。
そんな椿に気付いたのか、刻音がそれを手に取り、彼女の目の前に持ってきた。
「これ、気になる?」
「えっと、はい。少し」
ライターの表面には、天を仰ぎ、口を開いたライオンの意匠が象られていた。立体的なその意匠から、ただ地金を削って作ったのではなく、象嵌の技法を用いて作られたものだということが分る。
「これ、匠吾さんが作ったはいいけど、出来が気に入らないからやるって置いて、行ったの物なんだよね」
「そう、なんですか」
椿には、よく出来ている様に見えるが、祖父には何か不満があったようだ。
「モチーフは、確か太陽を食べる緑のライオンだったかな。ライターに緑は合わないと思って、色は塗らなかったらしいけど」
「太陽を食べる?」
その言葉に椿が疑問を抱いた。何故なら、そのライターにはライオンの姿しか映っていなかったからだ。
「うん、ほら」
刻音はそう言うと共に、ライターを開いて、火を付けた。そうすると、丁度ライオンの口の真上に、ライターの火が灯った。匠吾は恐らく、この火を太陽に例えようとしたのだろう。しかし如何せん、太陽とライオンの距離が離れており、恰好が付かないのだ。
「……太陽を食べる緑のライオンって、どういう意味があるんですか?」
「何だったかな。確か、元々は錬金術師が好んで使っていたモチーフだったらしいけど」
錬金術師というのは、確か鉛などの金属から金を生み出す方法を研究していた人達のことだったか。勿論、単純な物質を別の物質に変える事は不可能であり、それを行うには、核変換を用いる方法があるので、錬金術師達の研究は悉く失敗に終った。
「それ、気に入ったのなら、あげようか?」
「え、いや、私、煙草吸いません」
椿がそう言うと、刻音は声を上げて笑った。
「そりゃあ、そうだ。中学生が煙草吸ってたら、問題だからね」
ひとしきり笑った後、刻音は目尻に涙を浮かべて言った。
「でも、まあ、煙草を吸わなくたって、観賞用に持ってるくらいは良いでしょう」
「観賞用、ですか」
「うん、観賞用。初来店の記念の、お姉さんからのプレゼントとでも思ってくれよ」
「そういうことなら、はい。ありがとうございます」
それから暫くした頃、店に匠吾が迎えに来て、椿は時計屋を後にした。時計屋の初来店記念で、オイルライターを貰うことになった人間は、恐らく椿くらいの物だろう。
その日の夜、ベッドの上に寝転がった椿は、天井を見つめながら、物思いに耽っていた。今日一日、一体どれだけの人に迷惑を掛けただろうか。そして、どれだけの人に優しくしてもらっただろうか。
椿は人に優しくされるのが嫌いだ。誰かに優しくされたところで、自分に返せるものなんかない。だから、誰かに優しくされることが辛くて苦しかった。
そして、そんな風に思ってしまう自分自身を、椿は酷く嫌悪した。
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