第4話
六
なんとなく、自分が周囲からずれていたのは自覚していた。匠吾が子供の頃、彼はいつも絵を描いたり、何かを作っていた。家の蔵から持ち出した錆びついた彫刻刀や肥後守、その他の工具で、適当な木の板や山に落ちていた丸太、果てには廃材置き場から拾ってきた良く分からない物を削って模様を彫ったり、果てには出来の悪い彫刻を作ったりすることに、またはただそこに絵を描いてみたりすることに彼は夢中にだった。周囲の子供達が、虫取りや駆けっこに夢中になる中で、彼はいつも一人で、黙々と何かを作っていた。
そんな彼を変人扱いして、馬鹿にする者もいたが、中には面白がって、あれを作って、これを作ってと言う者も多かった。そして、頼まれた通りの物を作って、渡してやると、皆喜んで、ありがとうと言う。それが、匠吾にとっては嬉しかった。
そんな日々を送っていると、自分以外にも変な奴がいる事に気が付いた。そいつは、時計屋の倅で、いつも時計や何かの機械を分解したり、組み立てたりしていた。それが工藤厳時郎だった。匠吾が厳時郎に気が付いた辺りで、向こうもこちらに気が付いたようだった。それから何か会話があった訳ではないが、なんとなく互いに対抗心を燃やすようになっていた。
そして、気付いた時には喧嘩友達の様になっていた。何があって、そうなったのかは、今では思い出せそうにない。いつの間にかそうなっていたのだ。
喧嘩の絶えない間柄であったが故に、どこかの段階で仲違いしていてもおかしくはなかった。しかし、どういう訳か二人の縁が切れる事は無かった。
それから時が流れ、中学校を卒業すると、匠吾は彫金師の、源次郎は時計職人の師匠の下に弟子入りしたが、それでも時間を見つけては、顔を合わせて、互いを罵り合った。そしてこいつにだけは負けてたまるかと、更に修行に熱を入れた。
匠吾がようやく師匠の元から独立したばかりの頃だっただろうか。彼よりも少し早く修行をを終えていた厳時郎から、結婚をする旨を伝えられた。この時、匠吾は酷く驚いた。厳時郎はきっと自分と同じだと、匠吾は勝手に思ってたのだ。厳時郎は物を作ることに憑りつかれた様に生き、それだけに情熱を注ぎ続ける人間だと、匠吾は思っていた。そんな人間がまさか、人と結婚するとは、思いも寄らなかったのだ。
結婚してからの厳時郎は、それまで以上に精を出し、時計作りに励んだ。以前は二人で酒を飲んでいると、互いを罵る声ばかりが飛び交ったが、厳時郎が結婚してからというもの、惚気話ばかり聞かせられるようになった。その時の厳時郎の顔は、如何にも幸せそうなものだった。
誰かを愛おしく思ったことなどなかった匠吾には、それが不思議でならなかった。結婚するとは、そんなにも幸せな事なのだろうかと彼は疑問に思った。
それから一年ほど経った頃、匠吾は師匠から紹介された女性と見合いをすることになった。世話になった師匠の紹介である。相手にも紹介してくれた師匠にも恥を書かせる訳には行かないと思い、彼は直ぐに結婚を決めた。紹介された女性は、師匠の妹の娘だという。何でも生まれつき身体が弱く、仕事も出来ないので、親がどこかに嫁がせてしまおうと考えていたところで、師匠が「それなら、良い奴がいる」と言い、匠吾を紹介したのだという。
初めて会ったその女性は、見ているこちらが不安になるほど線が細く、色白な女性だった。女性の名は忍といった。彼女は触れてしまえば、壊れてしまいそうな、そんな危うい雰囲気を身に纏った女性だった。しかし匠吾は、紹介してくれた師匠にも相手にも、恥を書かせる訳にはいかないと思い、彼は直ぐに結婚を決めた。ただどんな理由であれ、結婚するのだから、大切にしようと思った。
結婚すれば、自分も何かが変わるのだろうかと思っていたが、そんな事は無かった。匠吾は相変わらず、仕事に没頭していた。厳時郎の様に、惚気る気にもならなかった。
それから何年か経った頃に、明美が産まれた。流石の匠吾も、この時ばかりは多少の感慨を覚えた。自分の血を引く子供が産まれたのだ、当然である。しかし、そこで彼は気が付いた。
自分の子供が産まれた。それは確かに喜ばしい事である。しかし、それは本当に人生で最上の喜びだったのだろうか。
その日の夜、彼は自身の作業部屋に飾られている一つの香炉を手に取った。それは彼が初めて師匠に認められた作品であった。今なら、もっと良い作品を作れるかもしれない。しかし、それは紛れもなく、その時の自分の最高傑作であった。
彼は気づいてしまったのだ。自身の子供が産まれてきたことよりも、自分が心血を注いで作った作品が完成した時の方が、遥かに嬉しかったことに。
結局、匠吾は妻と娘を大切にできていたのだろうか。答えは決まっている。もしも、彼が本当に家族を大切に出来ていたのなら、娘が家を出ていくようなことなどなかっただろう。
匠吾は師匠を尊敬していた。
匠吾は厳時郎を唯一無二の友だと思っていた。
なら、妻と子には、何を感じているのだろうか。
尊敬と友情は分かる。しかし匠吾には、愛情が分からなかった。
彼には人として、大きな欠落があった。
彼は作業台の前で目を覚ました。椅子の背もたれに背を預け、天井を見上げたまま、彼は眠っていた。作業台の方へと視線を移すと、卓上ライトに照らされたライターが置いてあった。ライター表面には、緻密な線で花唐草の模様が彫られていた。昼を少し過ぎた頃に、匠吾の露店に一人の客がやってきて、ライターに彫刻を彫って欲しいと頼まれて、引き受けたものだ。他の依頼も粗方片付いていたので、匠吾はその日のうちに、この仕事も済ませてしまおうと思い、つい先ほどまで作業していたのだ。
どうやら、作業を終えた匠吾は、そのまま疲れて椅子の上で眠ってしまっていたようだ。
彼はじんわりと痛む腰を椅子から離し、立ち上がると、そのまま部屋を出た。
台所に行き、冷蔵庫を開くと、明日の朝食ようにと、タッパーの中に入れていた夕飯の残りがあった。多少腹は空いていたが、飯を食べる気分でもなかったので、彼は麦茶を取り出し、それをグラスに入れて飲んだ。この頃、空気が乾燥しているためか、寝起きに喉が乾いていることが多いのだ。
麦茶を飲み終えた彼は、グラスに濯いだ後、その中に氷とウィスキーを入れた。すきっ腹で酒を飲むのは良くないが、医者から禁煙をしろと言われた事は有れど、酒を止めろと言われた事が無いくらいには、頑丈な腎臓を持つ匠吾は、そんなのお構いなしとでも言うように、酒を煽った。それから彼は煙草に火を点け、ゆっくりと深呼吸するように煙を吸った。
そうしていると、背後で床がきしむ音が聴こえた。匠吾が振り向くと、そこには椿の姿があった。
「すまない。起こしたか」
言いながら、匠吾はさっき火を点けたばかりの煙草を灰皿に押し付けて、もみ消した。
「ううん。ちょっと前の学校よりも授業が進んでいる教科があったから、その勉強をしていたところ」
「そうか。あまり夜更かしはするなよ」
「うん」
それから椿は視線を匠吾から彼が片手に持っている酒の入ったグラスと、灰皿へと目を移す。
「……身体に悪いよ」
「分かってるさ」
匠吾がそう答えると、椿は何を言うでもなく、彼の横を通りすぎて、食器棚からコップを取り出すと、そこに麦茶を注いで飲み始めた。
「ねえ、お……あの、質問してもいい」
まだお爺ちゃんと呼ぶには躊躇いがあるようだが、匠吾はそれには気付かない振りをして、訊き返す。
「なんだ?」
「彫金の仕事をしていて、嫌になる事ってある?」
なぜ、そんなことを訊くのかは分からなかったが、匠吾は素直に答えた。
「ないな」
彫金の道へと足を踏み入れてから、辛いと思ったことや苦しいと思った事はある。若い頃は伸び悩んだこともある。今だって、日に日に衰えていく自分の腕に悩んでいる。しかし、不思議とこの仕事を嫌だと思った事は無かった。
「……そっか、凄いね。うん、ありがとう。変な事を訊いて、ごめんなさい」
それだけ言うと、椿は台所を後にした。
椿の後姿を見送った後、匠吾は灰皿に目を落とした。
――身体に悪いよ。
誰かにそんなことを言われたのは、いつ以来だろうか。匠吾ももう若くない。後は死を待つだけの老い耄れである。しかし、一度椿を引き止めると決めた以上は、途中で投げ出すわけにも行かないだろう。せめて、高校までは卒業させてやらねばなるまい。
酒はともかくとして、煙草は少し控えるとしよう。
部屋に戻った椿は電気を消して、ベッドの上に倒れ込んだ。
目を瞑りながら、彼女は先ほどの祖父との会話を思い出す。自分が何故そのような事を聴いたのか、彼女にも分からなかった。ただ訊いてみたいと思ったのだ。
それから彼女は自分のことを振り返ってみた。彼女は果たして、絵を描くことが嫌になってしまったのだろうか。椿は直ぐに違うと、首を振った。絵を描くことは好きだ。今でも、もう一度絵が描きたいと思っている。それならば、なぜ彼女は絵を描けずにいるのか。その答えは直ぐに見つかった。
「……怖いんだ」
彼女は絵を描くのが怖いのだ。
だから、彼女は絵が描けなくなったのだ。
椿は小学生の頃には、なんとなく自分は絵が上手いことを自覚していた。しかし、当時の彼女には絵の上手い下手にはあまり感心がなかった。単純に絵を描くのが好きだったのだ。それには、彼女に絵を教えてくれた先生の影響があった。彼女は幼い頃から、近所に住む老齢の画家が開く絵画教室に通っていた。生徒は椿一人であった。先生は確かな技術を彼女に教えてはくれたが、あまり上手い下手というもに拘りはしなかった。先生はいつも口癖のように「描きたいものを描くこと、絵を描くことを楽しむこと、それが一番重要なことだ」と言っていた。先生の下で絵を習う内に、椿自身もそのような考えを持つようになった。
勿論、もっと絵を上手くなりたいという気持ちはあったが、それは誰かと比べてではなく、前の自分よりももっと上手くなりたいという、そんな自分自身に向けられた感情だった。彼女にとって、周りの人間の画力などどうでもいいことだったのだ。
椿が小学五年生の時に先生は無くなった。先生の最期は、家族に看取られながらの老衰だったという。椿自身は最期を看取る事は出来なかったが、先生が愛用していた筆やパレットナイフを形見として譲り受けた。それは彼女にとって宝物となった。
そして中学生になった彼女は迷わず、美術部に入部した。そこで自分と同年代の人間と共に絵の勉強をするようなり、彼女はようやく客観的な視点というものを手に入れた。椿は周囲の人間よりもずっと絵が上手かったのだ。しかし、彼女はそれに驕ることなく、ひたむきに絵と向き合った。
顧問の教員には、よく部活動外でも絵の相談をしたものだ。先生が亡くなってからというもの、絵画の練習はどうしても独学に頼らざるを得なくなり、自身の成長に行き詰まりを感じていた彼女にとって、大人から自身の作品を批評してもらえる場というのは、それだけで有り難かった。自分と同じように絵を描くのが好きな同年代の子達と、意見を交わすのは良い刺激になった。椿にとって、その日々はとても新鮮で、楽しいものであった。
しかし、彼女には周りが見えていなかった。入部したての一年生が自分達以上の画力を持っていることを気に入らないと思う上級生もいれば、椿と比べられることを嫌がる同級生もいるという事が、彼女には分からなかったのだ。何故なら、絵を描くのは、あくまで自分が楽しいからであって、周囲の人間と比べられることなど、どうでもいいと思っていたからだ。
そして気付けば、彼女は部活内で孤立していた。画材を隠されたり、描いていた絵を破られたり、汚されたりするようになった。
性格の悪い人間というのは、弱っている獲物を見つけるのが得意だ。いつしか部活内だけに収まっていた苛めは、彼女のクラスにまで伝播した。信頼していた部活の顧問も、面倒事は御免だと言わんばかりに、見て見ぬふりを貫き通す。もはや学校に彼女の居場所などなかった。
それでも彼女は学校に通い続けた。親に心配を掛けたくなかったというのもあるが、自分を苛めている連中に負けたくなかったからだ。ここで逃げたら、自分は一生負け犬だと思い、彼女は自分を苛めて来る連中を無視し、愚直に絵を描き、自分の世界へと逃げ込んだ。執念じみたその現実逃避が、彼女の想像力を増進させ、彼女の絵の腕は飛躍的な成長を見せた。
しかし、それだけであった。彼女が絵の腕を上げれば上げるほど、苛めも激しさを増していった。
そして学校全体が夏休みに入った頃だった。ある日、彼女が部室にやってくると、バケツたっぷりに入った水を頭から被せられた。水には絵具が溶かされており、彼女が来ていた征服は汚らしい色で染まっていた。。
もうダメだと思った。気付いた時には、彼女は自分の家に帰って泣いていた。夜になって、母親が帰ってきたとき、椿はバケツをひっくり返して制服を汚してしまったと伝えると、母は「仕方がないわね」と笑って許してくれた。そんな母の笑顔が、椿には苦しかった。
それから彼女は絵を描けなくなった。どれだけ筆を動かそうとしても、ダメだった。それが彼女は悔しくて、憤りを感じた。それは自分を苛めてきた連中に対する憤りではない。こんなことで絵が描けなくなってしまう自分自身への憤りであった。
その後、椿は夏休みの間、一度も部活には顔を出さなかった。部活を行く振りをして、河川敷や公園で絵を描く練習を始めたが、一向に良くならなず、気付けば彼女はゲームセンターに入り浸るようになった。最も大切にしていたモノを失い、抜け殻のようになった椿は、己の空虚さから眼を背けながら、ただ無為に時間を過ごした。
この頃のことを思い出す度に、彼女は己の弱さに憤りを覚え、己の愚かさに嫌気が差す。
――もしも、この頃の私にもっと勇気があれば――もしも、私がもっと強ければ――もしもこの時、私が本当に大切な物を見失いさえしなければ――後の悲劇は起こらなかっただろうに。
しかし、そんなことを今さら思っても、過去は変える事は出来ない。幾らたらればを語ろうと、真実は決して覆す事は出来ないのだ。事実はたった一つだけ。
結局、高坂椿は負けてしまったのだ。
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