第3話

   四


 その日の朝、匠吾は何やら喧しい音で目を覚ました。彼が部屋を出ると、掃除機を片手に持った椿の姿があった。今日は日曜日で学校がないのだが、この娘はわざわざ早起きして、掃除をしていてくれたようだ。

「あ、起こして、ごめん、なさい」

「いや、助かる。ありがとう」

 匠吾は料理や洗濯などの家事はそこまで苦に思わないが、掃除だけはどうにも面倒くさく思い、後回しにしてしまう事が多かった。

「朝食はもう食べたのか」

「うん、台所にインスタント麺があったから」

 朝からインスタント麺を食べるとは、流石は若者だ。匠吾が朝からそんなものを食べた費には、昼まで胸やけで気持ち悪くなるのが目に見えている。

 台所へと赴いた匠吾であったが、インスタント麺を食べる気にもなれず、だからといって孫娘を指しおいて、自分だけちゃんとした朝食を作って食べようという気にもなれず、彼は珈琲を淹れ、それを飲むだけに留めた。しかし、そもそもの話ではあるが、自分が孫よりも先に起きて、朝食を作っていればよいだけの話であると、匠吾が反省していると、彼の携帯電話が鳴った。

 彼の携帯電話に直接電話を掛けてくる人間はそう多くはない。どうせ、時計屋辺りだろうと思い、彼は特に相手を確認することなく、電話に出た。

「はい、もしもし?」

『おう、匠吾か』

 案の定、電話の相手は厳時郎だった。

「朝から何のようだ?」

『お前さん、確か今日は露店を開く日だろう?』

「ああ、そうだが」

 匠吾は週に何度か、商店街で露店を開き、自身が彫金した小物などを売っていた。売っているのは、そこまで値が張る物ではなく、安い物で数百円、高い物でも数千円程度の物だ。それでも、買っていく者はそう多くはなかったが、商売よりも宣伝目的で出している店なので、特にそれを悲観する事は無かった。因みに露店に使う長机やら椅子やらは持って帰るのが面倒なため、厳時郎の店に置かせてもらっていた。

『商店街に来る時、ついでに研磨機も持ってきてくれねえか?』

「研磨機?」

『ああ、うちにあるのが急に調子悪くなってな。修理に出すにも、新しいのを買うのにも、時間が掛かるから、貸しちゃあくれねぇか』

「ああ、そう言う事なら、分った。直ぐに行こう」

 時計職人は歯車を弄って組み立てるだけの、仕事だと思われることもあるが、実際のところは、他にも様々な技術や知識が必要だ。時計の外装部分となるリングを切り出し、形を整え、接合する鍛金の技術、腕時計のベルトを作るのにも、良い革を見分け、加工する技術がいる。そして、そのような技術を身に着け、常に知識を更新するために多くの職人との繋がりを持つ者が多い。

 何を描くそう、厳時郎の鍛金の技術を叩き込んだのは、匠吾だった。

 まだ二人が若い頃、師匠や兄弟子達に早く認められたいからと言い、匠吾の下に鍛金の技術を教わりに来ていたものだ。悲しいことに厳時郎の手先の器用さは、機械を弄ることにしか、発揮されないため、彫金の技術を伝授することは出来なかったが、それでも時計職人としての鍛金の腕だけなら、確かなものとなった。

 匠吾は椿に家を留守にする旨を伝え、昼飯代を置いて家を出た。

 時計屋に着くと、目つきの悪い老人と娘が煙管を吹かしていた。

「ガラの悪い店だな」

 研磨機を片手に匠吾が言うと、

「そのガラの悪い物を作ったのは、匠吾さんだけどね」

「失礼な事を言うな。俺は意匠を彫っただけだ」

 刻音は紫煙を吐きながら、にやりと笑った。刻音と厳時郎が持っている煙管は、どちらも匠吾が装飾を施したものだ。

「それで、頼んだものは持ってきてくれたか?」

「おう、これでいいか」

「おう、それだ、それだ」

 匠吾が研磨機を店の奥へと運び込んでいると、ふとある物が目に入った。それは一冊の問題集らしきものだった。

「時計修理技能士の試験勉強か?」

「ん、学科試験が来年の一月にあるからね。今の内からでも過去門を解いておこうと思ってね」

「二級はもう取っているんだったか」

「うん、そうだよ」

「実技の方はどうなんだい?」

 確か、学科試験よりも実技試験の方が先にある筈だ。

「それはもうばっちりよ」

 刻音は自信に満ち溢れた顔で笑って見せた。

「ふん、俺の孫だからな」と、厳時郎も自慢げに笑っていた。

 この祖父にして孫ありとでも言うのか、その自身に満ち溢れた表情は良く似通っていた。そして、匠吾は彼等が決して楽観視している訳ではないことを知っている。刻音は幼い頃から、厳時郎の時計屋に出入りし、高校生に入学すると同時に、この時計屋でアルバイトをしながら、源次郎から時計作りのノウハウを学び、高校三年生の時に時計修理技能師二級を取り、卒業と同時にこの時計屋に就職したのだ。それから更に三年が経った。今の彼女なら、一級試験を取るのに十分な実力を持ち合わせているだろう。

「コイツには時計職人になるのに、必要な技術は全部叩き込んだつもりだ。頭の出来は知らねえが、実技で落ちる事は先ずねえだろうさ」

「全くと、とんだ英才教育を施したもんだ」

「孫だろうが何だろうが、俺は中途半端な技術は教えねえさ」

「刻音は資格取った後はどうするつもりなんだ。やっぱり独立するのか?」

「うーん、その辺はまだ決めてないかな。独立するにしても、金がかかるし、店を継ぐにしても私の腕じゃ、まだまだお爺ちゃんの足元にも及ばないからね。暫くはここで修行するつもりだよ」

「当たり前だ。まだ若いモンに負けてたまるか」

 そう嘯く厳時郎に対して、匠吾は揶揄うように言った。

「っは、精々孫に追い越されないように頑張るこった」

「うるせえ」

 そんな会話を終えると、店の戸が開き、一人の客が入ってきた。それを見て、匠吾は机といすをも持って店を後にし、時計屋の横のシャッターが閉まった建物の前に露店を広げた。

 ――しかし、試験勉強か。随分と懐かしいものだ。

 随分と昔に、時計修理技能士一級を取った厳時郎に対抗するように、彼も貴金属装身具制作技能士一級なんてものを取ったりもしていた。とはいえ、匠吾はそんな長ったらしい職業名を名乗るのは御免だったので、彼は未だに自分の職業を訊かれれば、彫金師だと答えていた。

 匠吾は露店の上に置かれた自分が作った商品を見つめる。簪、櫛、ピアスにペンダント、指輪、キーホルダー、そのどれもに精巧な文様が刻まれていた。しかし、それを見ていると、匠吾は思わずにはいられない。あの辺りはもっとこうするべきだった、昔の自分なら、もっと繊細な意匠が施せたのに、と。自分の作品を見ていると、何十年と絶えず研鑽してきた己の技術が、少しずつ衰えてきていることを、嫌でも実感させられてしまう。

 ――まだ若いモンに負けてたまるか。

 匠吾はそう言った厳時郎の顔を思い出した。今の匠吾に同じ台詞が言えるだろうか。いや、きっと彼には言えないだろう。ここ数年で、彼の心も体も随分と弱ってしまった。だからなのか、匠吾には、張り合い甲斐のある若者が近くにいる厳時郎を、羨ましく思えてしまう。

 匠吾はそんな自分を嘲った。どうにも、年を取るとセンチメンタルになっていけない。こういう時には、煙草でも吸って気分を変えたくなるが、昔ならいざ知らず、今は天下の往来で煙草を吸う訳にもいかない。

 自分も世の中も、波に侵食される砂浜のように徐々に形を変えていく。それを悪いことだとは思わない。しかし、そこに一抹の寂しさを感じてしまう自分がいるのを、匠吾は自覚する。

 移り行く世界を楽しそうに眺めていた若い時分の匠吾が、今の彼を見たら、何を思うのだろうか。


   五


 昼頃になって、椿は鞄を持ち、家を出た。自転車の籠に鞄を放り込むと、ペダルに足を掛け、自転車を漕ぎ始める。最近ようやく見慣れてきた町の風景を眺めながら、彼女は自転車をゆっくりと走らせる。

 鉛色の空の下、夏の暑さを忘れた空虚な風が、椿の頬を撫でる。それが、彼女には心地よかった。きっと、これからもっと寒くなっていくのだろう。白けたような夏の暑さなど、うすら寒いだけだ。椿は芯まで凍えるような冬の寒さが恋しかった。

 初冬の寒さでは足りない。もっと冷たく澄んだ、凍てつくような寒さが、彼女は恋しいのだ。

 早くあの厳しくも愛おしい冬の寒さが、世界を包み込めばいい。そして全部、凍って砕けてしまえばいい。脳裏にこびり付いて離れない、かつての級友達の嘲笑の声も、善人ぶった役立たずな教師の顔も、優しかったあの子の手の感触と笑顔も、大切な母との思い出も、それを永久に失ってしまった日の記憶も、何もかも忘れてしまいたい。全部、忘れてしまいたかった。

 心を埋めてくれるような温かさなど、二度と求めるものか。

 求めるものは、心を壊すような冷たさだけだ。

 目当てのコンビニが見えてきたところで、彼女はペダルを踏む足の力を緩めた。駐輪所に自転車を止めて、椿がコンビニの前まで来ると、子気味の良い音を鳴らしながら、自動ドアが開いた。買い物かごに缶コーヒーを入れた後、パンが並ぶ棚の前に立つ。彼女が何を買おうかと迷っていると、

「あれ、高坂さんだ」

 そんな声が聞こえてきた。振り返ると、そこには快活そうな少女が立っていた。

「あ、ええと、こんにちは……佐々木さん」

 辛うじて苗字は覚えていたが、名前は未だに覚えられていない級友がそこに立っていた。

「こんにちは。高坂さんもお昼ご飯買いに来たの?」

「……はい、そうです」

 見れば分るだろう、と言いそうになるのを飲み込み、椿がそう答えると、

「クラスメイトだし、そんなに畏まらなくてもいいよ」

 と佐々木は朗らかに笑った。

 これにはなんと返すべきか迷い、椿は曖昧な笑みだけ返した。

「このコンビニのパンおいしいよねー」

 なんて言いながら、佐々木は椿の横に並んで、陳列されたパンを眺め始めた。その横顔は、パン一つ選ぶだけなのに、まるで世界の命運を掛けた決断をするかのように、真剣そのものであった。しかし、そんな表情も、あどけなさの残る少女の顔では可愛らしいだけだった。

 転校してきてから、まだ数日しか経っていない椿だったが、そんな彼女から見ても、佐々木は良くも悪くも目立つ生徒だった。佐々木は、あまり背が高くない椿と比べても更に小柄な少女であった。しかし、明るく活発で、常に元気に満ち溢れており、その愛嬌のある顔には、常に笑顔が張り付いていた。クラスの女子達からは、妹やペットのように可愛がられ、男子とも物怖じせずに話している姿をよく見かける。

 しかし、こういうタイプの人間は、周囲に自然と人は集まる反面、知らず知らずの内に敵も作りやすいのだ。それが、教室の端で本を読んでいるような大人しい生徒ならまだいいが、自発的に仲間を作るようなタイプに狙われると、恰好のカモになる。

 正直に言ってしまえば、椿にとって、佐々木はあまり関わり合いになりたくないタイプの人間だった。椿は学校内に敵も味方も作りたくないからだ。

 そんな椿の心情など露知らず、佐々木は無邪気に話し掛けてくる。

「そういえば、高坂さんは何の部活に入るか、もう決めた?」

「まだ決めてない、かな」

「興味ある部活とかはないの?」

「今のところ、特には。……まあ、あの学校、部活動は強制じゃないみたいだから、このまま決まらなかったら、帰宅部でいいかなって思ってる」

 椿がそう言うと、佐々木はキラキラとした目を椿に向けていった。

「なら、美術部に入らない?」

「美術部だけは嫌」

 気付けば、椿は即答していた。殆ど条件反射的に応えたその声は、普段の曖昧な口調とは違い、固く芯の通った声だった。しかし、彼女は佐々木の驚いたような表情を見て、直ぐに我に返り、いつもの曖昧な笑みを浮かべ、こう付け足した。

「気を悪くしたなら、ごめん。私、絵が描けないんだ。だから、美術部は無理かなって」

 それで納得したのか、佐々木はまた朗らかに笑うと、

「うん、私も無理に誘ってごめんね。でも、入りたくなったら、何時でも言ってね」

 そう言い、陳列棚から焼きそばパンとホットドックを取り、レジへと向かった。なんとなく、あの少女なら甘い菓子パンを選ぶだろうと思っていた椿には、それが意外に思えた。

 佐々木が会計を済ませて、店を出ていくのを見届けた後、椿は棚の下の方に置かれていた、二十円引きの菓子パンを一つ手に取り、籠へ入れた。

 会計を済ませて、コンビニを出た椿は自転車に乗ると、そのまま真っすぐ家には帰らず、近くの河川敷へと向かった。土手に自転車を置き、鞄とコンビニ袋を持ち、河原へと降りた彼女は缶コーヒーのプルタブを指の腹でこじ開け、中に入っていた黒く冷たい液体を口に含んだ。川から流れて来る冷たい空気も相まって、彼女の身体は直ぐに冷たくなった。

 菓子パンを一人頬張りながら、彼女は枯草の目立つ寂しい河川敷の風景を眺めた。菓子パンを食べ終えると、パンの袋を丸めてコンビニ袋に入れ、それごと鞄の中へと押し込めた。代わりに彼女は鞄の中から、スケッチブックと筆箱を取り出した。

 開いた白紙のページに鉛筆を乗せたところで、彼女の手の動きは止まってしまった。どれだけ絵を描こうとしても、その手は小刻みに振るえるばかりで、思うように動いてはくれない。どれだけそうしていただろうか。やがて彼女は諦めたように筆を置いた。スケッチブックには蚊の這ったような跡だけが残った。

 椿は絵が描けない。絵が下手なのではなく、本当に描けないのだ。厳密に言えば、描けなくなったというべきかもしれない。彼女は少し前まで、絵を描くのが好きな少女だった。しかし、それがある日突然に、絵を描こうとすると、頭が真っ白になって、どうやって手を動かせばよいのか分からなくなってしまったのだ。

 それ以来、彼女は何度もこうして、絵を描こうとしたが、結果は変わらず、彼女は未だに絵が描けないままだった。

 それでも、今日も彼女は無くした何かの面影を追うように筆を取る。

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