第2話

  一


 ガラガラと、家の戸が開かれる音で、匠吾は目を覚ました。彼が慌てて時計を確認すると、既に七時を過ぎていた。寝坊してしまったな、などと考えながら、彼は布団から這い出て、台所へと向かう。

 明美の死因は事故だった。悪天候の中を運転中に、対向車線からスリップした車がはみ出してきて、それを避けようとした結果、ガードレールに突っ込み、打ちどころが悪くて、そのまま即死したそうだ。椿には父親がおらず、匠吾が引き取ることとなった。

 台所の机の上に置かれた食パンの入った袋に目を向ければ、中身が二枚減っているのが見て取れた。どうやら、ちゃんと朝飯は食べていったようだと、彼は安心して、珈琲を淹れ始めた。

 椿が匠吾の家にやってきてから一月ほど経ち、今日から彼女はこの町の学校に通う事になった。初登校の日くらいは、ちゃんと見送ってやろうと考えていたのだが、結果はこのありさまである。見送りどころか、朝飯すら作るのを忘れていた。

 やはり自分に親は向いていないなと、匠吾は溜息を漏らしながら、コーヒーを飲んだ。

 袋から取り出した食パンを齧りつつ、彼は椿がこの家にやってきてからの生活を思い返してみた。初日は家の案内と荷解きをし、次の日は軽く町中を案内した。後は編入手続きなどもしたが、それだけである。孫と祖父らしい会話などは一切していなかった。これまで口交わした会話と言えば、おはよう、おやすみ、飯出来たぞ、くらいのものである。また食事の時間以外は互いに部屋に籠りきりで、碌に接点を持とうとさえしなかった。一応、何か困ったことがあったら聞きなさいとは言っておいたが、今のところ何か相談を受けたという事もなかった。つくづく親というものに向いていない人間である。

「……はあ」

 彼はまた大きく溜息を吐いた。この年になって、まさか自分が子供の世話をすることになるとは思ってもみなかった。人生とは何が起るか分からないものだ。

 自分の娘の教育にすら、失敗したというのに、それ以上に年代の離れた孫の教育など出来るわけがないだろう、とぼやきたくなる気持ちを匠吾は珈琲と共に飲み下した。

 いつまで嘆いていても仕方がない。ただでさえ、残り少ない人生を無駄に悩んで浪費するより、やれることをやって過ごさなくてどうするというのだ。

「先ずは今日の仕事を片付けるか」

 彼はそう独り言ちると、マグカップを流し台に置くと、朝の支度を始めた。

 九時前頃、匠吾は段ボールに入った荷物を車に積み終えると、家の戸締りをし、自身も車に乗り込み、エンジンを掛けた。

 発進した車の中で、匠吾は煙草に火を付け、車の窓を開けた。十一月の朝ともなれば、窓から入り込む風も冷たくなっていた。車を走らせながら、彼は通り過ぎていく見慣れた町並みを眺めながら、随分と寂れたものだ、と思った。それに不満がある訳ではない。買い物や生活に困るほど衰退している訳じゃない。むしろ、田舎町にして、良く保っている方だとさえ思う。しかし、椿――あの若い孫娘――にとっては、こんな田舎町は退屈で不便なのではないだろうかと、そう思うのだ。

 明美の葬儀は、彼女が住んでいた町で行われた。彼女はもう随分と前から、向こうの地に根ざして生活していたようで、知人や友人も多くいた。それに対して今のこの町に、明美のことを知る人間が、どれだけ残っているのか。そう考えると、向こうで葬儀を上げてやるべきだと思ったのだ。

 向こうの街に滞在している間に、娘がどんな町で過ごしていたのか見てみたが、大都会というほどではなかったが、匠吾が住む町と比べれば、遥かに都会的な町であった。そんな町で生まれ育った椿にとっては、急に表れた老人の都合で、友人達と離れて、こんな寂れた町に引っ越してくるのは嫌だったのではないか。そう思わずにはいられなかった。

 葬儀の後、匠吾は椿に対して「この町に残りたいのなら、自分がこちらの近くに引っ越してこよう」とは言ったが、断られてしまった。きっと気を遣わせてしまったのだろうと思い、匠吾は僅かに後ろめたい気持ちを覚えた。

 そんなことを思いながら、車を走らせていると、目的地である商店街が見えてきた。彼は商店街の近くにある駐車場に車を止めると、彼は段ボールを抱えて、車を降りた。

 様々な店が並び立つアーケードを歩いていると、シャッターが下ろされた店が目立つのが分かる。その中には、既に閉店してしまった店も多くあったが、単純にまだ営業時間前の店が多いというだけで、決してシャッター街という訳ではないことを彼は知っていた。

 匠吾は立ち並ぶ店の一つの前で足を留めると、段ボールを片手で支え、その戸を開けた。

「おう。時計屋、やってるか」

 中に声を掛けると、帳場の奥にある作業台の前で座っていた頭の禿げ上がった厳つい顔の老人が顔を上げた。その老人は片方の眼に時計見ルーペを嵌めたまま、ぎろりと匠吾を睨む。

「なんだ、彫金師のジジイか。客かと思ったじゃねえか」

「ジジイはてめえもだろ、厳時郎」

 時計屋の店主である工藤厳時郎とは、ガキの頃からの腐れ縁であり、匠吾にとっては今でも交流のある数少ない旧友だ。

「この前、頼まれていたもん、届けに来たぞ」

「おう、その辺に置いとけや」

 そう言った厳時郎は既に匠吾を見ておらず、その視線は自身の手元に注がれていた。そこには小さな歯車が無数に収められている円盤型の物体があった。彼はそれをピンセットやら何やらで弄っていたのだ。

 そんな彼を横目に見ながら、匠吾は帳場のカウンターの上に段ボールを置いた。

「時計を弄るのもいいが、さっさと代金を払え」

「っち、ちょっと待ってろ」

 そう言うと厳時郎は、時計見ルーペを眼から外した。作業台の前から立ち上がった彼は重い足取りで、帳場へとやってきた。

「先ずは中身を確認してからだ」

 と言い、彼は段ボールを開け放ち、中に収められていた物を一つずつ、慎重な手つきで確認していった。

「ふん、まあまあの出来だな」

「お前が作るまあまあな出来の時計にゃ、お似合いだろうよ」

 彫金師である匠吾は、時計職人である厳時郎から、懐中時計や置き時計の装飾を頼まれることが昔からよくあった。彼が作る腕時計はシンプルな作りの物が多いため、滅多にないが、腕時計の装飾を頼まれることも稀にあった。

 お互いに悪態を吐きながらも、なんやかんやで縁が続いているのには、そういった事情があるのだ。

「いい加減に老いぼれて、腕が鈍っている頃だと思ったんがな」

「俺の腕が鈍るよりも、てめえの腕が鈍る方が先だ、ハゲジジイ」

「ッハ、俺の腕が鈍るのを待っていたら、先にてめえの寿命が尽きるぜ、クソジジイ」

 と、一触即発の空気になったところで、匠吾は大事な事を思い出して冷静になった。

「って、そうじゃねぇ、さっさと代金払えや」

「おう、そうだった、そうだった」と、厳時郎は言いながら、封筒に包まった現金を匠吾に手渡してきたので、匠吾はその中身を確認した。

「よし、確かに受け取った」

「用が済んだなら、さっさと帰りな。てめえがいると、仕事もできやしねえ」

 そう言われた匠吾であったが、その場から離れようとはせず、代わりに店内を見回した。

「今日は刻音はいねえのかい」

 その言葉に厳時郎はぴくりと眉の端を持ち上げた。刻音とは、厳時郎の孫娘の名であった。厳時郎には三人の子供と、五人の孫がいた。その孫の中でも特に彼に懐いていたのが、刻音である。彼女は昔からよく、この時計屋に出入りしており、最近では祖父に弟子入りして、この店で働きながら本格的に時計職人を目指していた。

「なんだ、てめえ。まさかいい歳こいて、人の孫に手ェだすつもりじゃねェだろうな?」

「誰が好き好んで、青くせぇガキのケツなんか追いかけるか」

「てめえ! 人の孫娘に向かってなんて口の聞き方しやがる! ブチ殺されてえか⁉」

「おう、上等だ! 表出ろや、タコスケ‼」

「誰がタコだ、こら‼ 自慢げに髪の毛なんざ伸ばしやがって‼ 今日こそ、その目障りな尻尾を切り落としてやる‼」

「おう、やれるもんならやってみやがれ‼ 散髪代が浮いて助かるぜ‼」

 取っ組み合いの喧嘩が始まりそうになったところで、

「ええ加減にせんか! このクソジジイ共‼」

 そんな威勢のいい女の声が店内に響き渡った。

 声のした方に目を向ければ、焦げ茶色の髪を長く伸ばした二十代前半くらいの女が、そこに立っていた。長い前髪の隙間から除く顔にはそばかすが見え隠れし、ただでさえ目つきが悪いのに、目元に残る隈が、よりいっそうそれを際立たせている。

「なんだいたのか、刻音」

 匠吾が声を掛けると、

「今来たところだよ。この間、遠方に住むお客さんに時計の修理を頼まれたんで、修理が終わったから、配送業者の所まで届けに行っていたのさ」

 と、そこで刻音は言葉を区切ると、

「で、あんたら老人共は、一体何を騒いでいた訳さ。いい歳こいて、老人共が朝からはしゃぐんじゃないよ。見っともないったら、ありゃあしない」

 蔑んだ声でそう言った。その目はまるで、ゴミでも見るかのような冷たい視線であった。

「なあ、厳時郎よ」

「なんでい、匠吾」

「最近の若いのは、皆こんなに目つきが悪いもんなのか?」

 匠吾は目の前にいる刻音の顔を見て、椿の顔を思い出し、そう問うた。

「言われて見りゃあ、ウチの孫共は、みんなこんな目つきだな。きっとあれだ。ゲームやらスマートフォンやらばっかり見てるから、こんな目つきになるんだ」

「そりゃあ、恐ろしいな」

 そんなジジイ共の会話を聞いていた刻音は、

「はははは、鏡見てから言いいな、ジジイ。間違いなくあんたの遺伝だ」

 などと言い、笑い飛ばしていた。

「そういや、匠吾。お前さん、なんか刻音に用事があったんじゃなかったか?」

「おう、そういや、そうだった」

 その会話に刻音は訝し気に首を捻った。

「匠吾さんが私に?」

「ああ、実はちょっと相談したいことがあってな」

「何さ?」

「最近の若い娘ってのは、一体何を貰ったら喜ぶんだ?」

 その問いに刻夜は僅かに驚いたように目を見開くと、

「え、匠吾さん、その年で若い子にアプローチかけるの? 意外とプレイボーイなんすね?」

「……その下りはもうやったんだよ」

 匠吾は溜め息を吐き、額に手を置いた。それと同時に彼は「コイツは間違いなく、厳時郎の孫だ」と思った。

「え、なんか他に理由があるんスか?」

 首を傾げる刻音に対し、厳時郎は何か納得がいったような顔をした。

「……ああ、そうか。明美ちゃんの娘を引き取ったらしいな」

「ああ、そうだよ」

「明美さんって、確か家出した匠吾さんの娘さんでしたっけ? 見つかったんですか?」

「生きてはいなかったがな」

 匠吾の返答を聞いた刻音は恐縮な態度を取り、頭をさ上げた。

「それは、何と言いますか、その、ご愁傷さまです」

「気を遣うのはよせ。この歳になると、誰かに先立たれるのなんて、日常茶飯事だ。もう慣れたよ」

 匠吾は言いながら、力なく笑った。

「それで、孫に好かれたくて、若いモンが好きそうな物で釣ろうって訳か。ッケ、せこいジジイだぜ」

 厳時郎がまた悪態を吐いたが、それはこの場の空気を変えるために、敢えてそのような態度を取っていたのが分かったので、匠吾はそれに噛み付いたりなどはせず、冷静に答える。

「いや、そういう訳じゃないんだけどよ。どうやら、あの娘の誕生日が来月の頭にあるらしくてな。それまでにプレゼントくらいは用意しとかねえといけないと思ってな」

「ああ、それで若い娘が好きそうな物を知りたいって訳か」

 刻音は納得したように頷いたが、直ぐに首を捻った。

「でも、それなら直接お孫さんに、聞いたら良いんじゃないの?」

「それもそうなんだが、どうにも会話のとっかかりが無くてな」

「口下手か」

 厳時郎はそう鼻で笑ったが、これは口下手どうこう以前の問題である。匠吾にとって、椿は知らない人間なのだ。何が好みで、どんな性格なのかもわからない。そんな相手をいきなり孫だと言われても、彼にはどう接して良いのか分からないのだ。そして、それは向こうも同じなのだろう。だから二人は未だに互いの距離を測りかねているのだ。

「そんな訳だから、ちょいっと、若いもんの知恵を貸しちゃあ、くれないか?」

「まあ、いいけど、私も今時の物には疎いし、あんまり参考にならないと思うよ」

「それじゃあ、お前さんが人から貰って嬉しいもんって何かあるか?」

「現金」

 即答であった。

「生々しいな、おい」

 これには流石の匠吾も苦笑いを浮かべた。

「全く、金にがめつくなりやがって、一体誰に似たんだか」

 嘆かわしいとでも言うように、首を横に振る厳時郎に対して、

「お前だろ」

「アンタだよ」

 匠吾と刻音が同時に言った。

「失礼な事を言うな。俺は金にがめついんじゃない。ケチなんだ」

「同じことだろうよ」

「いいや、違うね。金にがめつい奴は、収入を増やすことばかり考えて、下手な博打に打って出て破滅するが、ケチな奴ってのは、先ずは支出を減らすことを考えるから、堅実にコツコツ稼いでいけるんだ」

「凄い、お爺ちゃんが珍しく真面なこと言ってる」

 刻音が感心しているのか、馬鹿にしているのか分からないような声で言った。

「……はあ、話を戻すぞ。現金以外で、お前さんが貰ったら嬉しいものを教えてくれ」

 匠吾が呆れたように言うと、

「うーん、そもそもなんだけどさ、匠吾さんのお孫さんって、幾つなの?」

 と刻夜に訊ねられた。

「ああ、確か中学一年生って言ってたな。だから今年で十三になる」

「あー、それだとやっぱり現金とかの方が良いんじゃないかな」

「どういうことだ?」

「いや、ほら、そのくらいの年齢になると、自分が欲しい物は、自分で選んで、自分で買いたいお年頃じゃない?」

「……言われてみれば、そうかもしれんな」

 なるほど、確かにそれは盲点であった。一応、椿を引き取った時に月に渡す小遣いの量は決めていたが、最近の若い娘が欲しがるような、洋服やら何やらを買うにはそれだけでは足りないかもしれない。だからといって、そういったものを親や保護者に買って貰うのも、年頃の娘にとっては、あまり気分の良いものではないだろう。

「なんか、力になれなくてごめんなさい」

「いや、むしろ、俺があれこれ考えすぎていたのかもしれない」

 結局、最近の若者が好む物は分からなかったが、一先ず誕生日には現金を渡すことにしよう。匠吾がそう思ったところで、

「いや、待て。もっと喜んで貰える物があるぜ」

 と、厳時郎が言った。

「なに、それは本当か?」

「ああ、嘘じゃねえさ」

「そいつは一体?」

 匠吾の問いに、厳時郎はたっぷりと間を開けて、

「……自転車だ」

 と勿体ぶった声で言った。

「……自転車?」

「そう、自転車だ」

「なぜ?」

 その問いに厳時郎は呆れたような顔をした。

「お前の家から学校までじゃ、遠いだろ。自転車の一つくらい買ってやれよ」

 至極真っ当な意見であった。むしろ何故その事に自分は、もっと早く気付けなかったのか、と思うほどであった。というか、誕生日云々以前に、それは直ぐにでも買ってやるべきだ。

「……自転車、買うか」

 つくづく己の愚鈍さが嫌になる。

 それから暫く世間話をした後、匠吾は店を出た。

「刻音も、厳時郎も今日は助かった。ありがとうよ」

「おう、じゃあな」

「じゃ、また何かあれば」

 こうして、匠吾は時計屋を後にした。

 家に帰った匠吾は仏間に置かれた跡飾り祭壇の前に座っていた。白い台座の飢えには娘の骨壺と遺影と共に白木で作られた仮の位牌が飾られていた。匠吾は遺影の前に線香を立て、目を瞑り手を合わせた。何を思えばいいのか、何を祈ればいいのか分からず、それは形だけの祈りとなった。

 目を開くと、目を瞑る前と同じ光景がそこにあった。

 明美が亡くなってから、既に一月が経っていた。それでも、彼は自分が娘の死を悲しんでいるのか、どうか分からなかった。それは彼自身の心の欠落故か、離れていた期間があまりにも長過ぎた故なのか。それすらも分からなかった。

 しかし、それでも、

「……親よりも先に死ぬ奴があるか」

 そう思わずにはいられなかった。

 誰かに先立たれるのに慣れていても、愛情や悲しみが分らなくても、心の底に何か重く濁ったものが沈んでいくのが分かった。それは罪悪感でも虚無感でもなかった。あの時、もっと真剣にあの娘を引き止めていれば、もっとちゃんと家族と向き合っていれば、そんなことを今更になって、思っている自分自身に対する自己嫌悪だった。

 

   二


 椿は台所で一人食パンを齧っていた。祖父はまだ起きていないようだ。祖父の起床時間はまちまちで、朝早くに起きる事もあれば、昼まで寝ている事もあった。祖父が朝に起きていない時には、椿はこうして台所にある食パンを食べて朝食を済ませていた。

 椿が祖父である匠吾と暮らすようになり、早一ヶ月が経った。その間に会話らしい会話は、殆どなかった。嫌われている訳でもなければ、嫌っている訳でもない。ただお互いに一緒にいるのが気まずいのだ。

 当たり前だ。産まれてから一度も会った事のない相手を孫だ、祖父だと言われても、直ぐに受け入れられる訳がない。しかし、椿には匠吾の他に頼れる人もいなかった。祖父もまたまだ中学生の孫娘を放り出す訳にもいかないと思ったらしく、彼女を快く家へと迎え入れた。だからといって、いきなり孫らしく、祖父らしく振舞うことも出来ず、気まずさが消える事は無かった。

 幸いだったのが、匠吾は椿といることに気まずさは感じても、無理に彼女に話し掛けてくる事は無かった。椿はこちらに気を遣ってくれているのだろうと思った。

 匠吾は彫金師という、金属を加工する仕事をしているようで、一日の大半を作業部屋で過ごしていた。時には夜遅くまで作業をしている事もあり、朝に寝坊することが多いのも、きっとこのためだろう。

 そんなことを考えているうちに、食事を終えた椿は、顔を洗うべく、洗面所へと向かった。洗面台の前に立つと、正面の鏡に目つきの悪い女の顔が映った。起きたばかりで眠いからというのもあるが、椿は元からこういう顔つきなのだ。だから、匠吾の顔を見た時には、自分の眼つきの悪さは、きっとこの人の遺伝なのだろうと思った。未だに祖父とは思えないのに、血縁だけは確かに実感出来るのだから、不思議なものである。

 冷水で顔を洗い終えると、椿は濡れた顔をタオルでふき取った後、今更のように温かくなり始めた水道の水にタオルを浸し、それをよく絞ってから、寝癖の付いた頭に乗せた。栗色の髪は散髪に行くのが面倒で、邪魔になったら、前髪や耳の周りの髪だけを自分で切っているため、美容師が見たら卒倒しそうな不格好な髪型をしていた。

 寝癖が直るのを待つ間に、椿は歯を磨き、それが終わると、ややくせ毛気味の髪を櫛で梳かした。

 自室に戻り、未だに見慣れないセーラー服に袖を通すと、椿はバックの中身を確認して、家を出た。

「いってきます」

 家を出る際、椿は誰に対してでもなく、小声でそう言った。

 通学路を歩き始めて直ぐに気付いた。

「学校、とお……」

 椿は散歩は好きだし、たまにならランニングをすることもあるが、毎朝この道のりを歩くのだと思うと、僅かに憂鬱な気持ちになった。そしてその先に学校が待ち受けていると思うと、更に椿の足を重くした。

 正直に言って、椿は学校なんて嫌いだった。出来る事なら行きたくもない。だが、それでも自分を引き取ってくれた祖父に迷惑を掛ける訳にはいかないだろう。それに、前の学校に通い続けるくらいなら、こちらの学校に通った方がまだマシだった。

 椿には、友達を作ろうなんて気はさらさらなかった。クラスに馴染めなくてもいい。目立たず、波風立てずに、ひっそりと学園生活をやり過ごせれば、椿はそれでいいと思っていた。

 長ったらしい通学路を、何とか道に迷わずに歩き切った椿は、遂にこれから自分が通う事になる中学校へと辿り着いた。別に感慨深げに校門の前で立ち止まったりなどはせず、周囲の人の流れに合わせるように、椿は昇降口まで歩いて行き、一年生の下駄箱の前までやってきたところでようやく立ち止まり、ローファーを脱ぎ、事前に知らされていた番号の下駄箱に靴を入れると、上履きに履き替えた。

 その後、椿は自身の教室に向かうのではなく、二階にある職員室へと向かった。職員室の前まで来たところで、椿は今更のように緊張し始めた。彼女は一度深呼吸すると、職員室の戸をノックしてから「失礼します」と言い、職員室の戸を開いた。

 彼女が職員室に入ると、既に何度か会った事のある小川という担任教諭が、彼女に近付いてきた。これからの流れなどを事前に打ち合わせされたり、求めてもいない助言などを受けた後、彼女は時間になるまで、空き教室で待機する事となった。

 そして、八時十五分を過ぎた頃になり、彼女は小川教諭の案内で、一年一組の教室へと通された。教壇の前に立たされたところで、教諭に自己紹介をするように促された。

「始めまして、高坂椿です。趣味は読書です。よろしくお願いします」

 椿は噛みそうになりながらも、何とか平静を取り繕い、無難な挨拶をこなした。横で教師が何やら言っていたが、既に一仕事やり切った気持ちになっていた椿は、どこか上の空であった。

「それじゃあ、転校生の高坂さんに何か質問ある人はいますか?」

 だから、小川教諭が急にそんなことを言い放った時には、本気で「何を言ってくれているんだ、コイツは?」と怒りが沸いた。頼むから誰も何も言わないでくれ、という彼女の願いは届かず、快活そうな女の子が一人手を挙げた。

「はい。佐々木さん、どうぞ」

  教諭に佐々木と呼ばれた少女は立ち上がると、

「好きな作家さんはいますか」

 などと聞いてきた。そんなことお前には関係ないだろと言う訳にもいかなかいので、椿は何と答えるべきか迷った挙句、

「坂口安吾です」

 と正直に答えた。そして、直ぐに失敗したなと思った。転校初日から好きな作家に、不倫やら淫蕩な話ばかり書いている作家の名前を上げる女とか、やばい奴だろ。私の学校生活終った。などと考えていたが、クラスメイト達から視線からは、白けたような雰囲気や好奇の者を見るような目線は感じられなかった。代わりにその表情からは「誰それ?」「名前は聞いたことがある気がする」みたいな、そんな疑問の色が読み取れた。どうやら、椿の学校生活はぎりぎりのところで、持ちこたえたようだ。

 が、しかし、佐々木がそのままこんなことを聞いてきた。

「それって、どんな話を書く作家さんなんですか?」

 空気を読め、佐々木。いい加減にしてくれ、佐々木。転校生をいきなり質問攻めにするな。椿はそんなことを思いながら、やや引き攣った笑みを浮かべて、質問に答える。

「ええと……ミステリーとか、短編の怪奇小説みたいなのを、書いている作家さんです」


 嘘は吐いていない。実際にそういった小説も書いている。たまたま椿が読んでいた作品が、淫蕩な話ばかりであったというだけで、坂口安吾は決して、変態小説ばかり書いている人間ではないのだ。

 佐々木はまだ何か聞きたそうな顔をしていたが、

「はい、佐々木さん、ありがとうございました。他に何か質問がある人はいますか」

 と、小川が言ったので、佐々木は椿に礼を言い、席に着いた。

 と、そこで椿はあることを思い出した。そう言えば、小川は国語教師と言っていた気がする。もしかしたら、小川は気を利かせてくれたのかもしれない。その場合、小川に椿がどんな小説を読んでいるのか知られていることになるが、クラスメイト達に知られるよりかは、遥かにマシだろう。

 次に手を挙げたのは男子生徒だった。

「はい。小野寺君」

「前の学校では何の部活動をしていましたか?」

「前の学校では帰宅部でした」

 これには椿は即答した。もし、このような質問を受けた場合、事前にそう答えると決めていたのだ。ただ一人、小川教諭だけが、不審そうに椿を見ていたが、椿は敢えてそれに気付かないふりをした。それからも椿に対する質問は続いていった。

「入る部活は決めましたか?」

「まだ決めていません」

 そもそも入る気がない。

「好きな音楽は?」

「特に好きというものはありませんが、J-POPとか、流行りのボカロ曲なんかを聞きます」

 本当は、クラッシックやジャズが好きだ。

「漫画は読みますか」

「あまり読みません」

 これも嘘だ。

「好きな食べ物は?」

「和食が好きです」

 それを知ったところで、どうするというのだ。

「得意教科は?」

「社会と国語が得意です」

 科学や英語と言えれば恰好がよかったのだろうな。それにしても、この尋問は何時まで続くのだろうか。だんだんと疲れてきた。

「犬派、猫派」

「犬ですかね。特に甲斐犬と柴犬が好きです」

「動物は好きですか?」

「はい。特に馬なんかは、力強いシルエットや走っている姿が格好良くて好きです」

「好きな映画は?」

「是枝裕和監督の作品はどれも好きです。洋画なら「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」と「六歳の僕が、大人になるまで」が好きです」

「読書の他に趣味は有りますか」

「…………特にないです」

 それが最後の質問だったようで、

「それじゃあ、皆、まだ不慣れな事もあるだろうから、高坂さんには優しくするように」

 と小川がそう締め括った後、椿に壁側の一番後ろの席に座る様に言った。

  椿が席に着くと、どっと疲労が溢れた出した。最後の方は大分疲れていて、何も考えずに答えていた気がするが、何か変な事を口走ってはいなかっただろうか、と不安に思ったが、直ぐに彼女はそれを振り払う。椿は初めから、この教室にいる人達と仲良くするつもりなどないのだ。なら、最初に多少恥を掻いたところで、どうでもいい。下らない自尊心など捨ててしまえ。上手くやろうなんて考えるな。だからといって、わざわざ斜に構える必要もない。一匹狼など気取らずとも、お前はとうの昔に負け犬だ。彼女はそう自分に言い聞かせた。


   三


 匠吾が作業部屋で仕事をしていると、家の玄関の方で音がした。彼は仕事道具を作業台の上に置き、廊下に出るとセーラー服を着た孫娘の姿があった。やけに帰りが早いなと思ったが、彼女がまだどこの部活にも所属していないことを思い出し、匠吾は一人で納得した。

「おかえり」

「あ、ただいま」

 椿は気まずそうに、目を逸らして、匠吾の横を通り過ぎようとする。彼はそれを引き留めた。

「ちょっと待ちなさい」

「なに?」

「買い物に付き合ってくれ」

 椿は僅かに逡巡したような顔をしたが、直ぐに「分った」とだけ答えた。

 車を暫くは知らせたところで、椿が首を捻った。

「スーパー、こっちじゃないよね」

「ああ、今日は商店街の方に行く」

「そう……ですか」

 椿の声はまだどこかぎこちなかった。

「今日、何か食べたいものはあるか」

「……特にない、です」

「そうか」

 椿の返答は素っ気ないものだったが、匠吾は特に気にしなかった。匠吾は自炊こそすれど、そこまで料理のレパートリーがある訳でもない。今時の凝った料理を作れと言われるよりかは良いだろうと考えたのだ。夕飯は茄子の煮浸しと味噌汁、後は漬物でもあればいいだろう。

 商店街に着いた二人は、八百屋や豆腐屋、精肉店などにより、数日分の食料を勝った。

「これで終わり?」

 椿が匠吾に問う。

「いや、あと一つ寄りたい店がある」

「分った」

 そう返事をし、椿は匠吾の後に続いた。

 匠吾がやってきたのは、自転車屋だった。

「自転車、買うの?」

 椿が他人事みたいに言った。もしかしたら、匠吾が自分用の物を買うのだと、思われているのかもしれない。

「ああ、お前のをな」

「私の?」

「ウチから学校まで、結構遠いだろう。そうじゃなくとも、こんな田舎町だ。あって困るってこたあない。好きなものを選びな」

 匠吾がそう言うと、椿は「うん」とだけ頷き、目の前に並んだ自転車を眺め始めた。それから直ぐに、一台の自転車を指差して、

「じゃあ、これ」と言った。

 もう少し考えて選んでくれても良いものだが、ママチャリなんてどれも一緒か、と思い。匠吾は店員に話し掛け、その自転車を買い取った。

 匠吾が自転車と買い物袋を車の中に押し込めていると、

「あ、あの」と椿が声を掛けてきた。

「ん、なんだ?」

「……ありがとう、ございます」

 その言葉に対して、匠吾はなんと答えるべきか迷った挙句、気にするなとでも言うように、後ろ手に手を振った。 

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