第49話 これが二巻分ソラねぇ……
灯らぬ社との戦いが終わり、セナノは一室を借りて、淡々と報告書を書き上げていた。
畳の上に広げられた端末には、戦闘経過、異縁存在の消失、観測不能事項――必要な項目が過不足なく並んでいる。
感情は挟まない。
あの夜に感じた恐怖も、空を見上げた時の震えも、すべて「補記」にすら書かれなかった。
それでいい、とセナノは思う。
縁理庁に提出するのは記録であって、後悔ではない。
「……ふー、終わったわ」
最後に署名を入れ、端末を閉じる。
窓の外では、昼の潮目村が静かに息をしていた。
あれから数時間、セナノとエイは村で過ごした。
港で簡単な朝食を取り、土産物屋で干物を眺め、エイは何度も海を振り返った。
「また来たいですね。今度は……何も起きない時に」
「それは縁者には一番難しい願いね」
そんな他愛もない会話をしながら、時間はゆっくりと流れていった。
正午少し前、村外れの停留所に縁者専用の迎えバスが姿を見せた。
一般の車両とは違う、無地の白い車体。
窓は外から中が見えない加工がされている。
村の人間がそれと知らずとも、何かを運ぶ車だということだけは分かる佇まいだ。
セナノ達がそれに乗り込もうとしたその時、誰かが呼ぶ声が聞こえた。
「おーい!」
声をかけてきたのは小川だった。
その隣では大河が背筋を伸ばしてセナノ達を見つめている。
「本当に帰っちまうんだなぁ。せめてもう一晩、魚でもどうだ?」
「魚……!」
「これ以上いると、今度は観光扱いされます。一応、これでも卒業試験なので」
肩をすくめるセナノの隣ではエイが残念そうに項垂れている。
小川は苦笑し、大河は静かに頭を下げた。
「……改めて、礼を言います。この地を長く縛っていたものが、ようやく終わりました」
「完全に終わったかどうかは、まだ分からないです。暫くは観測する必要があるでしょう。でも……今は、これで十分でしょう」
大河は一瞬だけ目を伏せ、それから深く頷いた。
エイは少し迷ってから、一歩前に出る。
「……あの、ありがとうございました。皆さんが、ずっと守ってきたんですよね。この村」
その言葉に、小川は照れたように頭を掻いた。
「守ったつもりはないよ。ただ、逃げなかっただけさ。戦う気はなかった」
観測を続けたという事実に変わりはない。
敬意を表すように、セナノとエイも頭を下げる。
やがて、別れを告げるようにバスのドアが静かに開いた。
セナノが先に乗り込み、エイは一度だけ振り返った。
「……魚」
潮目村の海は、昼の光を受けて穏やかに揺れている。
あの夜の闇が嘘だったかのように。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい……」
「……お土産で買ったあのお菓子、少し食べていいから」
「はいっ」
二人が席に着くと、バスは音もなく走り出した。
窓の外で、大河と小川が小さくなっていく。
手を振る小川と、最後まで直立不動の大河。
エイはしばらくその姿を見つめていたが、やがてシートに背を預け小さく息を吐いた。
その手にはご当地のせんべいが握られている。
「……疲れました」
「でしょうね。お疲れ様」
バスは山道へ入り、やがて潮目村は視界から消えた。
灯らぬ社はもうない。
だが、この地に何も残らなかったわけではない。
それでも、縁者は次の場所へ向かう。
いつも通りに。
『よし、明日は男の娘ですよ!』
『はい(適応)』
そう、いつも通り。
■
白い車体が、山道の向こうへ消えていく。
エンジン音が潮騒に溶け、やがて完全に聞こえなくなった。
停留所に残されたのは、夏の昼の光と、海から吹き上げる生温い風だけだ。
「……行っちゃったな。また平均年齢がぐっと上がる」
小川がそう呟き、帽子のつばを持ち上げる。
大河は腕を組んだまま、小川の様子にため息をつき黙って山の方を見ていた。
その時だ。
「――あ、いたいた!」
坂道の下から声がする。
振り返ると、息を切らしたミナコが駆けてきていた。
真っ青なジャージはところどころ濡れており、
髪の先からは、ぽたりと水滴が落ちている。
「……ミナコ、遅いぞ。というかお前は今までどこに行っていたんだ?」
大河が眉を顰めて言う。
「ご、ごめんなさい班長! ちょっと……その……」
ミナコは言葉を探すように視線を泳がせ、それから海の方を親指で指した。
「……海に、落ちました」
「は?」
小川が間の抜けた声を出す。
「足、滑らせちゃって……。ほら、岩場って海藻生えてるじゃないですか。で、気づいたらドボンって」
あまりにも素朴な言い訳だった。
だが、その声色はいつも通り明るく、笑顔も無理をしているようには見えない。
大河達は、ミナコの濡れた袖と体にわずかに残る震えを見て、本当に海に落ちたのだと理解してそれ以上何も聞かなかった。
「……相変わらずだな、お前は」
そう言って、軽く笑う。
「はは、さーせん!」
ミナコも笑い返す。
そのまま、二人の隣に並び遠ざかる山道を見つめた。
もう、バスの姿は見えない。
「行っちゃったんですね」
ミナコがぽつりと言う。
「ああ。あの方たちがやることは、全部終わったからな」
大河の声は低く、静かだった。
ミナコは小さく頷き、
海の方へ視線を向ける。
昼の海は、何も知らない顔で光っている。
あの夜明けの異常も、空が裂けた記憶も、すべて飲み込んでしまったかのように。
「……海、冷たかったですよ」
何でもないように、ミナコは言った。
それは言い訳であり同時に、生きて戻ったという事実だけを伝える言葉でもあった。
言葉の意図を理解しきれていないのか、二人はそれを聞いて顔を見合わせる。
そして首を傾げた。
「とりあえず、一度部屋に戻って着替えたらどうだ」
「そうしまーす」
そうは言いつつも、三人は並んでもう見えないバスの行き先を見送っていた。
潮目村の夏は、これからが本番だ。
暑い日差しと潮騒に包まれて、何事もなかったように緩慢な日常が続いていくだろう。
しかし、その緩やかな余韻に浸る事はミナコには出来そうにない。
(……異常に強くなってたな。ハルメル事変の時よりもヤバイんじゃないのアレ)
空澱大人。
あの空そのものに見下ろされた感覚が、まだ胸の奥に冷たく残っている。
殺されなかった。
それだけで、奇跡に近い。
けれど――押し付けられた
「……班長達って、ラブコメ漫画って読みます?」
とりあえず、空の青さを理解する所から始める事にした。
■
記録は存在しない。
記憶も存在しない。
空澱大人と潮哭ノ巫女が戦ったという事実は、世界のどこにも刻まれていなかった。
観測衛星SKY-9は沈黙し、地上のセンサーは平常値を示し、関係者の脳裏からは、その空白ごと削ぎ落とされている。
しかし。
縁理庁地下深層、『対・認識災害特化シェルター』に避難していた者たちだけは、その出来事を知っていた。
壁は暑く、情報遮断構文は幾重にも重なり、この空間だけが世界から切り離されている。
ここでは、「見てしまったもの」を忘れずにいられるのだ。
「……ふざけるなよ」
静まり返ったシェルターに、荒い声が落ちた。
縁理庁上層部の一人――役職名を呼ぶ必要もないほどの地位にある男が、苛立ちを隠そうともせず歩み寄ってくる。
「今回の件、どう説明するつもりだ、審縁導師」
その視線の先にいるのは、いつもと変わらぬ様子で椅子に腰掛ける男だった。
仮面は外していない。だが声色は、いつも通り穏やかだ。
「説明? 記録にも記憶にも残ってない出来事を?」
それは火に油だった。
「とぼけるな! 我々は知っている! 空澱大人が、潮哭ノ巫女と交戦したことを!」
拳が机を叩く。
だがその音は、異様なほど軽く響いた。
しかし、この場の人々が抱えていた不満を爆発するには十分すぎる。
「以前管理できていると言ったのは誰だ!」
「報告書で、制御下にあると判断したのは!」
「疑似媒介体の存在を許容したのは!」
「――全部、僕だね」
審縁導師は、あっさりと認めた。
その態度が、かえって相手の怒りを増幅させる。
「……なら話は早い。今回の件は、あなたの管理不行き届きだ。縁主様の判断を待つ必要もないだろう。処分だ。」
一瞬、シェルターの空気が張り詰めた。
だが、審縁導師は微笑を浮かべたまま椅子に深く腰掛けている。
相変わらず、その仮面に隠れた表情は知ることが出来ない。
「管理できていた、と思っていたんだろう?」
静かな問いだった。
「……何だと?」
「空澱大人は、これまで確かに応じてくれていた。干渉を限定し、結果を最適化し、世界を壊さずに済ませてきた」
指先を組み、審縁導師は続ける。
「でもそれは、管理されていたからじゃない」
上層部の男は、言葉を失う。
「許されていただけだよ。観測され、利用され、それでも怒らなかっただけ」
「……馬鹿な。我々は、何度も――」
「成功体験が慢心を生んだ」
審縁導師は、淡々と言った。
「また今回も大丈夫だろう。これまで問題なかった。空澱大人は制御できる」
その言葉が、誰の口から出ていたのか。
ここにいる全員が、心当たりを持っていた。
「でも今回は違った」
審縁導師は、視線を上げる。
「空澱大人は、観測衛星すら掌握した」
「……っ
「世界に残らない戦いを起こし、それでも我々を殺さなかった」
その意味が、何を示しているのか。
「管理を怠ったのではない」
審縁導師は、はっきりと告げた。
「管理できているという前提そのものが、誤りだった」
沈黙。
怒鳴り込んできた男は、ゆっくりと息を吐いた。
「……なら、我々はどうすればいい」
その問いは、責任追及ではない。
純然たる恐怖故だった。
「同じだよ」
審縁導師は、いつもの口調に戻る。
「必要な距離を保つ。触りすぎない。信頼しすぎない。でも――切り捨てもしない」
「それで済むと?」
「済まないかもしれない」
だからこそ、と付け加える。
「次は、管理できているなんて思わないことだ」
その言葉に、上層部の誰も反論しなかった。
シェルターの外では、世界は今日も平然と回っている。
何もなかった顔で。
だが、ここにいる者たちだけが知っている。
空澱大人は、まだ人類に何もしていないのだということを。
『へえ、ここにいる人間は覚えていられるんですね。おもしろ!』
そう、まだ見ているだけで何もしていない
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