第26話 幕間

 都市の上で空は晴れていた。

 だが、この都市では天候は観測されない。


 黒服の男は足を止めることなく、無人の廊下を進んでいた。

 背広は縁理庁制式の黒。

 胸元には階位縁章の刺繍がなされていたが、文字は剥がれていた。読ませる気がない。


 俗世の様々な光景を見てきた眼は淀み、目の下の隈と細身の体格も相まってまるで規律に厳しい死神のようであった。


 その手に持つのは機密資料用の鞄。

 中身はつい先ほど彼がまとめた報告書である。


 廻縁都市の上層に存在する塔群の中に存在するその建物は、常に目視が不可な特殊構文により隠匿されていた。


 建物内廊下の壁は滑らかな白。

 だがその表面には、無数の目があるような気配が付きまとっていた。

 照明はいやに明るく音もない。

 静けさは、思わず大声を上げたくなる程に不自然だった。

 この区画だけ、世界の外に浮いているような感覚すらある。


 男の目的地はとある一室であった。

 縁理庁上層部が定期的に集まり、異縁存在に関する全情報の交差点となる場所。

 正式名称は存在せず、通称「白面はくめんの間」と呼ばれるその場所は、上層部と一部の縁者しか足を踏み入れることを許されていない。


 男は重厚なセキュリティゲートに到達し、立ち止まる。

 その場に設置された認証機は、言葉を求めない。

 彼はただ右手を掲げた。

 彼の身分を証明するのはそれだけで充分である 


 音もなく扉が開き、冷気のような空気が漏れた。

 それは温度ではなく、存在しないものを許容する空間が放つ気配だった。

 中には既に待ち人がいる。

 その予感に、男はため息をつきそうになったが仕事中だと思い直して背筋を正す。


「失礼します」


 黒服の男は、深く一礼した。

 そして歩みを進める。


 同時に、彼の背後で扉が激しく音を立ててしまった。

 開いた時とは違い、ここに閉じ込めたのだとでも言いたげに存在感を知らせるこの扉の音が男はあまり好きではない。


 扉が閉じた瞬間、外界の音はすべて途絶えた。

 世界が、ここだけ別の位相へと沈んだかのようだった。


 白面の間。

 それは会議室というにはあまりに異様で、

 誰かの記憶の中にだけ存在する空間を、無理やり具現化したような構造をしていた。


 部屋は広く、円形だ。

 壁はすべて真っ白で光沢はなく、まるで紙を折りたたんで作られたような凹凸をしていた。

 天井は高く、灯りは存在しない。

 それでも部屋は明るい。


 中央には円卓がひとつ。

 その周囲に十二の椅子が配置されている。すべて同じ形。背の高い黒革張りの椅子。

 だが今、それらの椅子はすべて空だった。

 唯一、奥の席──上位席にひとり背筋を伸ばして座る男を除いて。


 彼の顔は仮面に覆われている。

 白磁のような無表情な面の額には縁理庁の印が逆さに刻まれている。


「空澱大人による異縁存在対処の報告書をお持ちしました」


 黒服の男は、仮面の男にそう告げる。 

 しかし返事はない。


 彼は今、身じろぎもせず、ただ資料の束を読み込んでいるのだ。

 しかしそれは紙でもデータでもない。

 仮面の内側に流れる、思念式情報流。

 異縁存在に関する観測記録、触媒の覚醒兆候、語りの断片、その全てが思考に挿入されていた。


「……昼、食べてくれば良かったか」


 こうなると、男は待つほかない。

 仮面の男の前に立って、数分。

 ピクリと仮面の男の指先が動くと、意識を取り戻したかのように緩慢な動作でその仮面を外した。

 仮面の向こうにあったのは、笑顔であった。

 不思議とその情報以外は脳をすり抜け、目の前の男が笑っているという事しか、黒服の男は理解できない。


「……あ、鏑矢君」

「返事が無かったので、ここで待たせてもらっていました」


 鏑矢と呼ばれた黒服の男は、簡潔に礼をする。

 対して、仮面を外した男は柔和な笑顔のまま手招きをした。 


「よければ座る? 立ちっぱなしは辛いでしょ」

「いえ。私にその資格はありませんので」

「相変わらず真面目だねえ。君さえ良ければ、僕の後釜に指名してあげるけど?」

「ご冗談を。私に審縁導師しんえんどうしの肩書は重すぎます。一般の出の人間が苦しむ姿をご所望であれば、話は別ですが」

 

 ――審縁導師。

 それは庁内でも最高クラスの裁量を持ち、判断を下す者。

 彼の存在は記録されず、写真にも残らず、声も音声として記録できない。

 だが、それでも彼は居る。

 この何もない会議室に、残り続けるとして。


「別に家柄なんてどうでもいいと思うけどね。で、何の用かな」

「……空澱大人に関する報告書を」

「ああそうだったね。うっかり忘れていた。はいはい、じゃその辺に置いておいて」


 鏑矢は机の上に鞄を置き、一歩下がる。

 そして、疲れ切った声でこう告げた。


「正直、割に合わない仕事でした。疑似媒介体相手にあんなものを渡せだなんて、人が悪いじゃ済まされませんよ。審縁導師様」

「大丈夫大丈夫。縁首えんしゅ様曰く空澱大人はそんなんじゃ怒らないらしいから。まあ、あの人の言う事なら間違いないでしょ」

「それはそうですが……。疑似媒介体の観察役にも随分と嫌われましたよ」

「どうせまたマニュアル対応したんでしょ。人相悪いんだから、もっと工夫してコミュニケーションを取らなきゃ」


 審縁導師の言葉を鏑矢は聞き流す。

 彼の部下になって、もう何度も聞いた言葉だった。


「それと、観察役の三鎌縁者から伝言を預かっています」

「聞こうか」

「……こんな事をしていたら、いつか取り返しのつかないことになる。だそうです」

「はっはっは、言うねぇ。ま、空澱大人について知らなきゃそんな感想か」

「……正直、私も同じ感想です。少し不用意ではないでしょうか。こんな事、仕事でなければ断っています。爆弾を木の枝でつつくのと同義でしょう」

「彼女の言う通り、取り返しがつかなくなると?」

「可能性はあります」

「安心してよ。その取り返しがつかなくなる事態を収拾するのが空澱大人なんだから。安全だよ、あの異縁存在は」


 知っているような口ぶりで審縁導師は答える。


「あの異縁存在に詳しいのですか?」

「二回」


 審縁導師は指を二本突き出し、ひらひらと振る。

 

「あの異縁存在は二回、この国をあるいは世界を救う為に使役されている。しかも安全に、完璧に管理された状態で。そう言われたら、どうする?」

「……その話、私の階位で聞いて良いのですか?」

「大丈夫。僕も何も知らないから」

「……は?」


 自分が想定したよりも低い声が漏れ出す。

 鏑矢は、非難するように審縁導師を睨みつけるが効果はないようだ。


「縁首様がそう言ってたんだよ。だから、たぶん本当の事だね。もしかしたら、僕も君も既に会っていたのかもしれないよ、空澱大人に。でも、何も覚えていない……とか」


 審縁導師は相変わらず笑顔を浮かべている。

 しかし、その心情はまるで違っているように思えた。


「また君には何度かおつかいしてもらう事になるだろう。ボーナス弾むから、期待しておいて」

「……はあ、わかりました。では、私はこれで」


 鏑矢は一礼をして部屋を出ようと踵を返す。

 その背中に審縁導師は声を掛けた。


「ああ待って待って」

「何でしょうか」

「これから君が行こうとしているラーメン屋、今日は臨時休業。代わりに、隣町の青い看板のラーメン屋に行くと良い。きっと、君も気に入る筈だ」

「……それはどうも」

「じゃ、お昼ごゆっくりー」


 審縁導師はそう言うと、仮面を再び取り付ける。

 その瞬間、再び部屋は沈黙と重圧に満たされた。


「……取り敢えず、ラーメンでも食べるか」


 鏑矢は誰に言うでもなくそう呟いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る