第三話 七宝の無先

「先生の所は今、何人の職人さんがいてはりますのん」

田中が聞いた。先程の槌の音が聞こえてこない。

 

「今は…ほとんど僕一人です」

「えっ」

 

田中と翠は同時に声を上げた。

七宝はいくつもの工程からなる。

素地作りから始まり、下絵、植線、釉薬差し、焼成に研磨と工程が多い。

浮世絵に絵師、彫師、摺師が居るように七宝にも専門の職人が分業で制作するのが通常だ。

それを一人でこなすというのか。

 

「無論、時々は手伝って貰ってますけど…」

「じゃぁ、ワテらが入ってきたときの槌の音は…」

「僕です。素地創りが一番苦手で…練習がてら…」

「素地、ですか。七宝の土台とも言える部分まで、先生お一人で?」


「面倒なんで、いっそ一枚板で作ってみてしまおうかと思うことも有ります」

そう言って、三波は頭を掻いた。


「板……でっか? 七宝はお皿や壺にするもんやおまへんか」


田中が不思議そうに尋ねると、三波は窓の外、遠くに見える空を指差した。


​「丸い壺に描くと、どうしても景色が歪んでしまうでしょう?

僕が見たままの富士山を、キャンバスに描く西洋画みたいに、そのまま切り取りたいんです。

……まあ、平らな板を焼くと、冷める時に『ベコッ』と反り返って割れちゃうんですけどね。昨日も三枚ダメにしました」


そう言って三波は、足元のバケツを小突いた。


翠はハッとした。

この人は、七宝を「器」としてではなく、純粋な「絵画」として捉えているのだ。


「此処は元々ドイツ人の工房でおましたなぁ。それをお買い上げにならはったと聞きましたわ」

皆見の時とは違い、遠慮なく聞いてくる田中に、翠は申し訳ない気持ちになった。


だが、三波は一つ一つを誠実に答えていく。

 

「運が良かったんです。七宝をやろうと思った矢先、売却の話を聞いて....天啓と思い、育親から受け継いだ店を売り、貰い受けました…なので人を雇うなんてそんな余裕は…」

 

三波は7歳で日本橋の陶器商の養子となり、後を継いだと聞く。

商売もそこそこ軌道に乗っていたが、その義父から継いだ身代を売って、この工房を買ったのだ。未経験の世界に入るのに、そこまでの決断をできる人間が果たして何人いるだろうか。


「お陰様で、いい釉薬が同時に手に入りましたし、独語の専門書も、ほら…あれ、何処だっけ… 」

 

「これですか」

翠が床に置いてあった本を拾い上げる。

 

「あぁ、それです。うん。それは…3巻?  あぁ、そこにあったのか」

三波は本を受け取ると、優しく表紙を叩き、部屋の隅に丸めた布団の上に置いた。

 

「ここで寝てるんですか」


「あぁ、ここは光がいいんです。釉薬は、陽の光で見ないと本当の色を教えてくれませんから。あと、月の光も良い。このときもまた、違った音を聞かせてくれるんです……まあ、片付ける暇がない言い訳かもしれませんが…」

 

「よかったら私、時々来て片付けましょうか」

反射的に翠の口から言葉が出た。


「明石。お前、なんちゅう事を。先生のお邪魔してどないすんねん」


しかし三波は、そうしてくれたら助かると、嬉しそうに応えた。

 

「すんまへん先生。この子、ウチの会社の仕事がありますよって」

「もちろん、仕事の後に寄りますわ。会社には迷惑かけません」

 

あかん。この子は一度やると言いだしたら、他人の声を聞かん子やった。

田中は頭を振った。

 

その後は、多少の質問は出来たものの、肝心の無線七宝・・・・については詳しく聞けなかった。

田中にしては精彩を欠く取材である。

 

「まぁ、記事はなんとか成るやろ…」

帰りの馬車で呟く。


「田中さん。何か言いました?」

翠が聞き返す。

 

「⋯いや、三波はんのことや。度胸があるのか思慮が無いのか…何か武蔵に挑む小次郎みたいやぁと思って」

「まぁ、田中さん。それは違いますよ」

「ちがう? どう違うねん」

「武蔵に挑む小次郎じゃなくて、吉岡一門に挑む武蔵です。三波先生は」

 

そう言って、翠は通り過ぎる街並みに目を向けた。

 

武蔵か…我ながら無粋な例えをしたもんや。

せめて孫臏と龐涓を引き合いに出せばカッコがついたもんを⋯

 

田中は嬉しそうに街を眺める翠の横顔を見て、もう一度頭を振った。

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2025年12月26日 20:00
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2025年12月27日 20:00

蒼と玄 夢司 @umikazeiro

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