第二話 網と線

翠が田中と共に三波の工房を訪れたのは、あの第二回内国勧業博覧会から数か月後のことであった。


博覧会は前回を大きく上回る賑わいを見せ、入場者数は四倍を超えた。

皆見雅之の作品は多くの人々の目を奪い、京都七宝の名は揺るぎないものとなった。


だが、博覧会直後に報都新聞が掲載した文化欄の記事。


―― 皆見雅之の「正統」を讃えつつ、三波蒼司の作品を「未熟な邪道」と対置したあの一文 ――


をきっかけに、文化人たちの間では激しい論争が巻き起こった。


しかし、翠はその騒動をむしろ当然だと感じていた。

あれほど人々をざわつかせる作品が、工芸史の新しい段階を告げているのは疑いようもない。

賛否の揺らぎこそが、変革の兆しなのだ。


両国の停留所から揺られること一時間余。

乗合馬車を降り、湯島の切り通しを抜けて細い路地に入ると、突然視界が開けた。


そこに、ひときわ目を引く洋風建築が立っていた。


遠目には赤煉瓦造りの重厚な洋館のようだが、近づけば、木の壁面に漆喰を巧みに塗り重ねた「擬洋風建築」であると分かる。


日本の瓦とは異なる薄いスレート葺きの屋根、白い窓枠の大きなガラス。

青空を切り取るように並ぶ窓が、やわらかい光をはね返していた。


かつてドイツ人が経営していた旧エーレンス商会

――その工場兼住居だった場所である。


門扉には、埃をかぶった真鍮の銘板が残されていたが、ドイツ語らしき文字は擦れて判読できない。

その横に、新しい木の板に墨で力強く書かれた看板が打ち付けられている。


『三波七寶研究所』


門の奥からは、金槌を打つ乾いた音、銅を洗う酸の鼻をつく匂い、窯から漏れ出す熱気――

甘さとは無縁の、文明が軋みながら生まれる現場の匂いが流れてくる。


田中が躊躇なく扉を叩いた。

「ごめんやす! 報都新聞の田中でおま!」


しばらくして、ドタドタと急いだ足音が近づき、扉が勢いよく開いた。


「はい、はい……! あ、田中さん。お待ちしていました」

そこに立っていた青年を見て、翠は息を呑んだ。


三波蒼司。


白いシャツに作業ズボンという簡素な洋装。

袖口は煤で黒く染まり、腕には釉薬の飛沫が色とりどりの斑点をつくっている。

だが、その瞳は透き通るように明るく、どこか少年のまま時間が止まったような瑞々しさがあった。


「どうぞ、中へ。……っと、足元のバケツ、気をつけてくださいね」


翠が慌てて立ち止まる。

足元には、ひしゃげた銅板や焼け焦げた釉薬片が無造作に放り込まれたバケツが置かれていた。


「す、すみません。てっきりゴミ箱かと……」


「いえ、捨ててあるんじゃないんです。これは僕にとって大事な“先生”たちなんです」


三波は、まるで宝物でも覗き込むように、バケツの中を愛おしげに見つめた。


「どの温度で釉薬が弾けたか、どの配合で銅が耐えきれなかったか……

このヒビ割れの一つ一つが、次の成功への道しるべなんですよ。

だから、いつでも見返せるように足元に置いておくんです」


ゴミではなく、道しるべ。

翠は、その言葉に三波の底知れぬ探究心を見た気がした。


案内されたのは、建物の南側に張り出したガラス張りのサンルームだった。


「……うわぁ」


思わず声が漏れる。


かつてはドイツ人がティータイムを楽しんだサロンだったのだろう。

今は壁の白漆喰が所々燻され、七宝の粉が薄く積もり、作業場の気配が濃く漂っていた。


しかし何より圧倒的だったのは「光」である。

三面の大きなガラス窓から午後の日差しがふんだんに入り込み、部屋全体が柔らかく白く輝いていた。


その光の中で、机や床に散らばる釉薬瓶が宝石のように反射している。

片隅には煎餅布団が丸められ、机上にはドイツ語の化学書と乾燥した植物の根 ―白及―が山と積まれていた。


乳鉢の中には白及を摩り下ろした粘りのある糊が残っている。

最新の化学書と、古来の植物糊。

この混沌こそが三波の思考そのものだ、と翠は直感した。


「散らかっていて申し訳ありません」


三波は照れくさそうに鼻を掻いて笑う。

その横顔には、職人の清々しい疲労と、新しい美を追う者だけが持つ明るい狂気が宿っていた。


「先生、取材に応じてもろて、ほんにおおきにですわ」

田中が気楽に声をかける。


例の記事のことを気にしている様子が、翠には分かった。


「編集長の意向で、あない失礼な記事になってもうて……」

「いえ、本当のことですし……気にしてる暇もありませんので」


三波がはにかむと、いっそう若く見えた。

翠はその姿に、腹違いの弟の面影を重ねてしまう。


「先生は、なぜあのような作を?」


思わず翠は口を挟んでいた。

どうしても、あの境界線のない色の世界について聞きたかった。


三波は一瞬、翠の目を見ると、すぐに視線を落として語り始めた。


「子供の頃、父の漁について千葉の海へよく出たんです」

「千葉……」


「ええ。父が投網を打って、引き上げる。僕は濡れた網の下に潜り込んで、網の目越しに浜辺を見るのが好きでした」


三波の声は懐かしさに淡く震えた。


「海水を含んだ網の膜越しに見ると、空の青、海の藍、砂の白が……とろりと混ざりあって見えるんです。


境界のない、世界で一番きれいな色でした」


翠の脳裏に、その光景がゆっくりと広がっていく。

陽光の滴る水膜、ゆらぐ世界の輪郭。

それは確かに、誰にも描けない色だ。


「七宝を始めた時、あの色を再現したいと思ったんです。でも……有線七宝じゃ駄目でした」


三波は机の上の銀線をそっと指で弾いた。


「線があると、色を区切って閉じ込めてしまう。どれだけ美しい色を差しても、あの“混ざり合う海”にはならない。 僕には植線が邪魔に思えたんです」


「だから……線(あみ)を取り払った、と?」

「はい。逆転の発想でした。線の中に色を入れるんじゃない。

色が溢れないぎりぎりまで線で支えて、最後にその線を消してしまう。そうすれば色は自由になれる」


三波は、少年そのものの笑顔を見せた。


「皆見さんが“線を極める”人なら、僕は“線を破る”人になりたい。 ……まあ、そのせいで失敗ばかりして、本当に網元の息子に戻りそうですけどね」


冗談めかすその声に、翠はつい笑ってしまった。

だが胸の奥では、もっと深いものが熱く揺れていた。


――この人は、技術者ではない。詩人なのだ。


幼い日の海の記憶という、誰にも奪われない原像を形にするために、数百年続いた工芸の常識を、たった一人で破ろうとしている。

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