第一話 守破離と覇道
「線のない七宝? なんやソレ。足のあるお化けみたいなもんかいな」
田中の大きな声が、報都新聞文化部の事務所に明るく響いた。
明石翠は、ここで資料整理や切り抜きの分類などを手伝っている。
当時、職業婦人という言葉はまだ一部の知識階級でようやく広まりつつあった段階で、新聞社に若い女性が出入りするのは珍しい。
まして翠は、自ら押しかけるようにして文化部の敷居を跨いだのだ。
「足があったら、それはもう人間ですよ。じゃあ線のない七宝は……本物ってことかしら」
「アホ言いな。それやったら“足のあるヘビ”やないか」
「だから、“ある”んじゃなく“無い”んです」
翠は昨日観てきた展覧会の話を夢中で語った。
この関西弁の男――田中健太郎は、
「陛下の東上に同行した」と豪語する記者である。
七宝の取材を志して文化部を訪ねたとき、最初に相手をしてくれたのも田中だった。
本来、翠は記者志望で新聞社を訪ねたのだが、
「いまの世の中、女が記者になるのは時期尚早や」
と諭され、だが熱意を汲んだ田中らの計らいで資料整理などの実務で文化部に出入りできるようになった。
「まったく…折角、運命の皆見はんが優等賞牌もろたさかい取材へ連れてったったのに、なんやけったいなもん拾ぉてきよって……まぁええ。支度し、早よ行くで」
「い、行くって、どこにですか」
「アホ、決まっとるやろ。皆見先生の泊まり先や。明日の汽車で帰京やさかい、今のうちに話の段取りつけといたったわ」
そう…田中は、記者でない翠をこうしてしばしば取材に同行させてくれるのだ。
* * *
上野精養軒。
国賓接待のために建てられた、本格的洋式ホテル。
翠も名は知っていたが、その内部に足を踏み入れるのは初めてだった。
磨き上げられた黒光りの床は、足音を吸い込むように静かで、高い天井からは薄明の中でも煌めくシャンデリアが数え切れぬ硝子粒を垂らしている。
壁には異国の風景画、漂うのは珈琲と油の混じる香り。
すべてが、翠の知る日本の匂いとは異質で、圧倒的な西洋であった。
洋装こそ纏っているが、当時珍しい婦人のドレスは高価で、翠の服は簡素な仕立てである。
バッスル・スタイルの外国婦人たちの作り物めいた華やぎに囲まれ、自分だけ絵の具の色が違うような居心地の悪さを覚えた。
そんな思いをよそに、田中は着崩した袴で堂々と歩いていく。
その対照が、翠の羞恥心をさらに刺激した。
案内された客室の応接はすでに整理され、出立の支度も整っているようだった。
その奥から、すらりとした男性が現れた。
「お待たせしました」
低く落ち着いた声――翠は思わず息を呑んだ。
京都で百人の職工を率い、七宝界を牽引する人物。
翠は勝手に白鬚を蓄えた仙人のような老人を想像していた。
しかし目の前に立つのは三十半ばほどの精悍な顔の男。
浅茶の背広に身を包み、多少ぎこちなさはあるものの、洋装を嫌う時代の多くの市民よりは自然に着こなしていた。
面長の顔にやや深い彫り。
柔和さと頑なさが同居した不思議な印象の人物だった。
「この方が…皆見雅之先生」
翠は小さく声を漏らした。
皆見はその気配に気づき、柔らかく目を向けた。
「この別嬪さんは?」
「すんまへん先生。この娘、ウチで小間使いしとるんですわ。ワテは字が悪うてね、記録係に連れてきました。もしお嫌なら……」
田中の早口を、皆見は軽く手を上げて制した。
馴染みある京・上方の響きが心を解いたのだろう。
「いやいや。こんな可愛い嬢ちゃんと話せるなら嬉しいことです。むしろアンさんのほうが邪魔や」
「先生、それは殺生でっせ」
二人が笑う。
関西特有の“間”が心地よく、田中はすぐに懐へ入り込む術を知っている。
「とにもかくにも先生。先ずは一等賞おめでとうございます」
「おやおや、一等賞なんて。優等賞牌でっしゃろ」
「せやけど、前回の一等賞は鳳紋章牌でしたやろ。毎回名前が変わるのも鬱陶しうて」
「まぁ、本音を言うたら鳳紋章って呼び名のほうが雅でよろしいが、わたいは戴く身や。 ありがたく思っとります」
「にしても、今回の作品はまた芸が細かかったですな」
田中が語り始めると、翠は驚いた。
彼とはまだ展覧会の話をしていなかった。
それでも田中は、的確に作品の特徴を捉えている。
「あれは、なんや……引きずり込まれるような作品でした」
翠が思わず田中を見つめた。
同じ感覚を抱いていたのだ、と。
「今回は、ちと試した事がありましてな」
皆見に悪戯めいた笑みが浮かんだ。
翠は皆見の作品の鮮やかな色彩を思い出し、その完璧な輝きの源を探るように思考を巡らせる。
「銀線と……釉薬、でしょうか」
ハッキリと声に出す翠を、皆見は驚いた様な眼で見つめた。
「前回の作品では銅線と銀線が併用されていましたが、今回は銀線だけを利用されていたようです。それに……」
翠は言葉を探した。ただ「綺麗だ」という言葉では足りない。
「釉薬が、全然違いました。今までの和ガラスのような重たさがなくて、まるで西洋の宝石みたいな……あんな透明感のある釉薬、見たことがありません」
一瞬の沈黙。
皆見は、まじまじと翠の顔を覗き込んだ。
「ほう……嬢ちゃん。そこまで分かりはったんか」
「先生、この子は先の展覧会で、先生の作品に
七宝の勉強したいから新聞社で働かせてくれちゅうて、ウチのところに来たぐらいですわ」
田中の口添えに、皆見は破顔した。
「さよか。えらい元気のいい、眼の肥えた嬢ちゃんや。
……よっしゃ。特別に種明かししたる」
皆見は少し声を潜めた。
「実はな、『ワグネル』いうドイツの博士がおってな。その先生の教えをもとに、釉薬を一から作り直したんや」
「ワグネル博士……ですか」
「せや。今までの職人の『勘』だけやない。これからは『科学』の釉薬や」
皆見は子供のように目を輝かせて語り始めた。
銅線を金銀に変えたのは、錆による釉薬の濁りを防ぎ、より細かい文様を描くためであること。
透明度を上げるための化学的な配合のこと。
七宝界の第一人者が、ただの一記者見習いに対して、対等の作り手に対するかのように熱弁を振るっている。
それは翠にとって、夢のような時間だった。
「殖産興業には挑戦が必要ですさかい。わたいも、まだまだ腕を磨かなあきまへん」
「ひゃぁ、先生がもっと進化したら、京都の七宝で世界が埋まってまいますで」
「そんな日が来たらよろしいなぁ」
翠がふと切り出した。
「……先生。今回、かなり挑戦をしてこられた作品が一つありましたね」
田中が慌てる。
「おい明石、こないな場で……!」
しかし皆見は落ち着き払っていた。
「三波蒼司君のことやね。嬢ちゃん、あれをどう見はった」
翠は迷わず答えた。
「温かみのある、いい絵だと……まるで美しい海を泳いでいるみたいで」
「なるほどな。一般の方の意見は貴重や」
皆見の声音には、わずかな期待と厳しさが混ざる。
三波蒼司――
数年前、湯島の七宝工場・エーレンス商会を買収した若き実業家。
ワグネル博士がかつて技術顧問を務めていた場所だ。
翠はまだ知らなかったが、それゆえ皆見は三波の調合に一定の理解を示していた。
「せやけど、腕はまだまだ未熟やな」
皆見は続けた。
「嬢ちゃん、“守破離”いう言葉、ご存じか」
「芸事や茶道の段階ですね。守って、破って、離れる」
「そうや。三波君の“線のない七宝”は、守を身につけぬまま破に走った。それは奇策やのうて……邪道や」
会見の時間はあっという間に過ぎ、
皆見は「京都に来ることがあれば案内しますえ」と二人を送り出した。
廊下に出た途端、田中が言った。
「ほら見ぃ。先生も線なし七宝は邪道や言うとる」
翠は首を振った。
「いいえ。“極めたうえで線を無くす”なら……それは邪道ではなく、覇道になるかもしれません」
皆見はそう言っている――翠にはそう聞こえた。
上野から両国までの乗合馬車。
揺れの中、翠は田中に強い目を向けた。
「田中さん。わたし、三波さんにお会いして話を聞きたいです」
「待て待て。取材相手を決めるのは編集長とワイの役目や。勝手にはいかへん」
「ですから……取材できるよう、取り計らってください。
――あ、調べたいことが。すみません、ここで降ります!」
翠は急に馬車を止め、走り出した。
「やれやれ……ほんま手の焼ける娘や」
田中は苦笑し、しかしその背を温かく見つめた。
「皆見はんは既婚者やさかい安心思うてたが……
三波はんは独身やしなぁ。これは……チト、心配やなぁ」
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