蒼と玄
夢司
序 皆見と三波
「なに、これ…」
目の前にある、六寸ほどの小瓶。その地色は、光の角度によって濃藍にも瑠璃色にも変化し、花や蝶が舞う姿は、まるで宝石箱の底に沈んだ小宇宙のようであった。
吸い込まれるような美に目を奪われた瞬間、喧騒に満ちた会場の気配が遠のく。
ただ、この壺だけがこの場を支配していた。
――かつて、この国にこの様な美が存在しただろうか。
明治十四年。上野にて開催された内国勧業博覧会。
四年前の第一回に比べ出品数は四倍。府県別ではなく種別ごとの陳列となり、出品者の競争心を煽る工夫も加えられていた。
その中にあって、この小瓶は明らかに異彩を放っていた。
「なんて綺麗。…でも」
翠は壺から目を外す。
熱気に満ちた会場が、変わらずそこにあった。
――この美は、冷たい。
理由は分からない。ただ、彼女の審美眼がそう囁いていた。
他の七宝を見る。どれも良い出来だ。
しかし、この小瓶に比べるとどこか精彩を欠いて見える。
札には
『優等賞牌 七寳花蝶紋小瓶 皆見雅之』
とあった。
そうだ。四年前の第一回博覧会で、翠はこの男の作品に心奪われたのだ。
女友達に誘われ訪れたあの日、彼女は初めて七宝を間近で見た。
尾張七宝の重厚な輝き。愛知が七宝の本場だと知ったのもその時である。
だが、その中にあって、京都の展示品にあった花瓶の前で、翠は立ち尽くした。
『鳳紋賞牌 七寳舞楽図花瓶
同じ題材の作品は愛知の会場にもあった。
しかし、舞手の表情や衣装の皺の表現、その全てが別次元だった。
尾張七宝が俳画であれば、皆見の七宝は絵巻物であった。
この瞬間、七宝が、彼女の人生を照らした。
翠は工藝を追うため、新聞社文化部の門を叩いた。
そして今、眼の前の小瓶。
あの時の作品をさらに超える鮮やかさ。小瓶ゆえに細工の精緻さがより際立ち、技巧はもはや人の技を超えて神業の域にあるとさえ思えた。
だが……
寸分の隙もない完璧さが、逆に無機質な冷たさを孕んでいた。
翠はふと、会場の片隅に置かれた花瓶に目をとめた。
海から見た富士の風景で、白砂清松の海岸に一艘の舟が止まっている。
その絵はやや拙い。しかし、潮の香りが立ち上がるようだ。
朝靄にかすれた富士と、朝陽を浴びた波。
幽玄の美。
波の音が、風の音が、海鳥の鳴き声がこの壺から溢れてくるようだ。
皆見の小瓶が、
――あゝ。
翠が皆見の作品に感じた違和感は、ここにあったのだろう。
衝動的に翠は作者の名を探す。
『七寳富士図花瓶
札にはそれだけが書かれていた。
* * *
「なんだ、これは」
熱気に沸く初回の博覧会場で、三波は一つの七宝花瓶に目を奪われた。
政府肝入の「殖産興業」を掲げた第一回内国勧業博覧会。
従来の見世物小屋的催しとは異り、海外技術と国内技術がぶつかり合う
取引先の手前、足を運んだものの、会場に来るまで気乗りしなかった三波だったが、会場に並ぶ 海外品の精巧さに胸が踊った。
――いつか、海外を相手に商売を。
瑠璃や、黄金で装飾された陶器を仕入れるか。
それとも、日本の優れた品を携え欧州へ渡るか。
思い描きながら工藝館を巡る中、京都七宝の展示に足が止まった。
七宝は知っている。
扱ったこともある。
だが、眼の前の花瓶は自分の知る七宝ではなかった。
金銀の線が舞人を描き、その精緻さは絵巻物すら彷彿させる。
尾張七宝の流れを汲む技法のようだが、この技法はさらに洗練されていた。
――これは花器ではない。宝だ。
昂ぶる心のまま、東京の展示へ向かう。
東京七宝。
歴史は古く東照宮にも使われて、勲章にも採用されている。
京都や尾張の七宝が作家の個性に依拠する美術品だとすれば、東京の七宝は技術の緻密さが武器だ。
量産さえ視野に入るかもしれない。
「美しい。だが…」
陶磁器にくらべ七宝の器物はまだ少ない。
商売としては未知数だ。
しかし、危険を冒すなら、いっそ…
思い切って自分で工房を興してしまえばいい。
外に出る。
夕陽を受け、「勧業」の文字が赤く輝いていた。
* * *
「なんや、これは…」
受賞式後の内覧会。
一つの七宝壺が皆見の目を捉えた。
沖から見た富士と浜の景色。
富士はやや北斎風だが、拙さは隠せない。
が⋯色がいい。
海と富士の蒼が、まるで浮世絵のようだった。
東京七宝は渋く、泥臭い。
そう冷やかす者たちに、見せてやりたくなる。
しかし、線がない。
七宝の命とも言える線。
天保年間。尾張の梶常吉が確立して以来、有線七宝が近代七宝の根幹である。
その、線がない。
だから絵、全体がぼやけてみえる。
「わたいの眼がおかしくなったんやろか。ハッキリ見えへんわ」
皆見はわざとらしく声に出して笑った。職員もつられて笑う。
「まぁ、物珍しさで展示したんでしょう」
職員の一人が答える。
「勧業博覧会は見世物小屋やおまへんのに …まぁ、殖産興業に挑戦は必要や」
皆見は札を見た。
三波蒼司。
線がない七宝で勝負する気か。
自分の求める境地とは真逆や。
「けったいや。せやけど…」
こんな七宝を見たことが無い。
未熟だが、美しい。
皆見は静かにその名を刻んだ。
――この男を、忘れるわけにはいかへん。
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