第十九話 脅威はすぐそこから
朝。
───ウポポポポッ。
小鳥の
「……んぁっ!?」
どこか間の抜けたその鳴き声。
おそらく、怪異界に生息する何かだろう。
窓の外から聞こえてくるが、わざわざカーテンを開けて正体を確かめようという気は起きなかった。
視界に映るのは、見慣れない天井。
左を向くと、隣のベッドで
そして何より──気持ち良すぎる布団。
──この布団入ったら、秒で寝た気がする。
右手は布団の中。
妖気が出ているかどうかは目では確認できない。
だが、"それ"は見なくても結果は分かる。
──寝てる間も妖気出すって無理だろ。
屍々子は右手に意識を込める。
すると、妖気を発しているとき特有の、じわりとした熱が広がった。
籠女はまだ眠っている。
枕元には、外したままのヘアゴムが転がっていた。
屍々子は音を立てないように上体を起こし、そっとベッドから降りる。
──なんか、身体がすげぇスッキリしてる。
昨日まで張りついていた疲労が、嘘みたいに消えていた。
寝室のドアを慎重に開けると、そのままリビングへ繋がっている。
屍々子は足音を殺したまま歩き、壁に掛けられたデジタル時計を見上げた。
11:35。
「……は?」
一拍置いて、状況を理解する。
次の瞬間、屍々子は踵を返し、寝室へ戻ると籠女のベッド脇に立った。
「籠女! もう十一時半過ぎてんぞ! 起きろって!」
軽く肩を揺さぶる。
「……んぁっ!?」
籠女が目を見開いた。
屍々子は手を止め、そのまま言葉を投げる。
「ミズトさんのとこ行くから、今日は十時に起きるって言ってたよな?」
籠女は寝起きのまま、ぼんやりと屍々子を見上げる。
「……うん……言うた……」
声はまだ夢の底に引っかかっている。
だが、そのまどろみがゆっくりと剥がれ落ちていく。
「……屍々子。今何時や言うた?」
「え、だから十一時半す──」
───バフォッ!
言い終わる前に、籠女の右足が布団を蹴り上げた。
勢いよく跳ね上がった布団は天井へと舞う。
籠女はベッドから転がるように飛び起き、そのまま洗面所へ駆け出していった。
布団は、そのまま屍々子の頭から被さる。
「うわっ」
視界は真っ暗。
布団の中に閉じ込められたまま、温もりと匂いが一気に鼻をくすぐる。
──籠女、めっちゃくちゃいい匂いすんな。
そんなことを考えた瞬間──
「屍々子も! 早う準備しぃや!!」
洗面所の方から、切羽詰まった声が飛んできた。
屍々子は布団を頭から引き剥がし、深く息を吐く。
「……切り替えの鬼過ぎだろ」
十分ほどで、屍々子と籠女は支度を終えた。
「
籠女はリビングに立ったまま、軽く視線を巡らせる。
忘れ物がないかを確かめる、その仕草は手慣れていた。
屍々子は玄関で靴を履き、先に立って待っている。
ほどなくして、籠女が来た。
「ほんなら、行こか」
声に応じて顔を上げ、屍々子は一瞬、目を留める。
短時間の支度とは思えないほど、籠女の身なりは整っていた。
白いワンピースは皺ひとつなく、動きに合わせてすっと馴染んでいる。
「あれ? 今日もワンピースなんだ。服いっぱい持ってんのに」
屍々子の言葉に、籠女は肩をすくめる。
「まぁな。この白いワンピースは、ウチにとって作業着みたいなもんや」
そのまま、冗談めいた調子で続ける。
「これ着とらんと、ウチの力半減すんねん」
サンダルを履き終え、ドアノブに手をかける。
そのまま振り返り、籠女は屍々子を見た。
「屍々子。妖気、閉じといてや」
柔らかい声だったが、どこか切れ味があった。
「ん、わかった」
屍々子は短く応じると、右手の力を抜く。
水面から手を引き上げるような感覚を思い描く。
白く立ちのぼっていた妖気が、ふっと霧散した。
それを確認して、籠女は扉を開ける。
外の光が差し込み、空気が変わる。
二人は並んで、家を後にした。
───パタン。───カチッ。
降りていくエレベーターの中で、屍々子はふと思い出したように口を開いた。
「籠女にさ、家では妖気出しっぱにしろって言われてるけどさ、あれなんの特訓?」
籠女は壁にもたれ、数字が減っていく表示を眺めたまま答える。
「アンタの妖力がどんくらいの量あるかわからんからな、そういうのを見とったんよ」
エレベーターが低く唸り、静かに降下を続ける。
「で、さっきまで見とった感じやと──」
籠女は一拍置いてから、視線だけを屍々子へ向けた。
「──次の段階に進んでも、問題ない思ってな」
屍々子は眉を寄せる。
「次の段階? でも、まだ寝てる時に妖気閉じちゃうけど」
その言葉とほぼ同時に、軽い振動とともにエレベーターが一階に到着した。
籠女は「開」のボタンに視線を向けたまま、静かに告げる。
「次の段階には行くで」
その言葉のあと、ようやく口元がわずかに緩む。
笑みと同時に、視線が屍々子へ移った。
「せやけどな──今の特訓、やめろとは一言も言っとらん」
その言葉を背に、屍々子はエレベーターを降りた。
「……別に、何でもいいよ──」
そして、そのまま籠女へ振り向いた。
「──負ける気しないから」
声音は低く、迷いがない。
張りつめたままの視線が、まっすぐ籠女を捉えていた。
籠女はほんの一瞬だけ目を細め、喉の奥で小さく笑った。
「ふーん?」
エレベーターを降りると、そのまま屍々子の隣へ歩み寄る。
距離を詰める動きに迷いはなく、すっと身をかがめて、下から顔を覗き込んだ。
柔らかく、どこか試すような笑み。
「ええなぁ、その意気込み。楽しみにしとるな?」
屍々子は、その言葉ごと視線を受け止めた。
籠女は身体を起こし、間を置かずに続ける。
「ほんでな、屍々子」
「ん?」
「エントランス出た瞬間から、十五キロ。止まらんで走らんと間に合わへん」
屍々子の眉が、わずかに寄る。
「えー! 走んの? なんか電車とかで行けば──」
その反応を待っていたかのように、籠女の口元が緩んだ。
わざとらしく眉を下げ、左手を口元に添えた。
そして、横目で屍々子を
「──おやぁ? 負ける気せえへん言うとった屍々子ちゃんが──」
溜めてから、ゆっくり。
「──"たった十五キロ"で音ぇ上げるん?」
屍々子は一瞬だけ顔をしかめ、すぐに笑って切り返す。
「は? 余裕に決まってんじゃん。ナメんなって」
言葉を交わしながら、二人は並んでエントランスを抜ける。
外気に触れた直後、籠女が横目で屍々子を見る。
「屍々子。ウチについて来られへんかったら、次の段階なんて話にもならんからな」
屍々子も視線を返し、口角を上げた。
「だから余裕だって。
籠女先生の方こそ、アタシに置いてかれんなよ」
「ふふん。ほんなら行くで……」
───タンッ。
二人の足が、同時に地を蹴った。
その、二人の姿を電柱の上から見ていた其の鳥は鳴き声とともに空へ飛び立つ。
「ウポポポポッ」
三つの眼球を持つ、その黒い鳥は──緑の妖気を纏う。
ある場所へと向かうために飛び立った。
そこは──
屋台と露店が連なり、昼夜を問わず人の熱気が渦巻く通り。
その雑踏を縫うように、二人の男が肩を並べて歩いていた。
「おいい、
苛立ちを含んだ声を投げられても、無兎は気にも留めず、串を口に運ぶ。
淡々と咀嚼し、飲み込んでから、ふと視線を前に据えた。
「……
「うぉおおい! 無兎ぉ! 話すり替えんてんじゃ──」
被せるように、無兎の低い声が割り込む。
「──昨日の夜から、
鏑の足が止まる。
眉間に深い皺が刻まれた。
「ああん? 零百が? あのマザコンが帰らねぇってのは聞いた事がねぇなあ!」
無兎は静かに続ける。
「……そう、絶対にありえない。
昨日の夜、零百に何かあったって僕は睨んでる」
懐から視線を外し、空を仰ぐ。
「だから今は、僕の"ウポー"に零百を探しに行ってもらってる」
その直後だった。
───バサッ、バサッ。
羽ばたきの音とともに、影が降りる。
先ほどまで屍々子と籠女を見下ろしていた黒い鳥が、無兎の肩へと止まった。
無兎は身じろぎもせず、くちばしへと耳を寄せる。
わずかな沈黙。
情報が、静かに流し込まれていく。
やがて、無兎の瞳が細く鋭くなる。
「鏑……。予定変更。映画はまた今度ね」
鏑の口元が吊り上がった。
「てことはよお! "何か"情報を掴めたってことだなあ!」
無兎は、
ただ、低く、噛み殺すように呟いた。
「……絶対に許さない」
九番街の喧騒の中で、その声だけが、不自然なほど冷たく沈んだ。
──脅威は、日常的に──
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