第20話
優が学校を休み始めてから三日目。教室の真ん中あたりにあるその席は、今日もぽっかりと空いたままだった。教室では存在を消し去るかのような振る舞いをしていた優だが、その部屋の真ん中にできた空白は、クラスメイトたちを僅かに動揺させた。
「朝比奈って、今週ずっと学校来てなくね?インフルとかコロナでもないんだろ?何かあったの?」
「影の薄い子だったけど、ちゃんと学校には来てたよね。急にどうしちゃったの?もしかして、変な事件に巻き込まれちゃったとか?」
休み時間の喧騒の中、クラスメイト達は口々に噂した。優の身に何があったのか、と。梨花はそうした噂話を耳にするたび、胸の奥がずきりと痛んだ。
――きっと、私のせいだ。
優に想いを告げたあの日のことが、鉛の様に梨花の胸を重苦しく支配していた。周囲には常日頃と変わらない明るさを振りまくが、それは演技めいたものだと自分でもわかってしまう。自分が告白をしたあの日を境目に、優は変わってしまった。まるで抜け殻のようで、誰とも口を利かなくなり、昼休みはどこかに消えてしまい、放課後は消え去る様に一人で帰宅する。
あの日、なぜ優は傷ついてしまったのか。その理由は、わかる様で、わからない。あんなにも豹変してしまうのなら、自分の知り得ない何かがあるのだろう。そしてその引き金を引いたのは、おそらく自分なのだと。梨花は罪悪感に苛まれるばかりだった。
「――ええと、朝比奈君なんだけど……、もし近所に住む人がいたら、今週の配布物を届けてくれないかな?もう三日もお休みで、だいぶ溜まってしまっているから……」
ホームルームの終わり際、担任の千原が少し困った顔でクラスを見渡した。電子化が進む昨今でも、紙で渡す書類は依然として残っている。一瞬の沈黙。誰もが面倒くさそうに顔を見合わせる中、梨花は少し迷った様子の後で、おずおずと手を挙げた。
「先生、……私が行ってもいいです」
迷いながら上げたその手には、梨花の葛藤と意志が表れていた。優と、もう一度向き合わなければならない。さもなければ、優はこのまま姿を表さず、何処かへと消え去ってしまうのではないか。自分に何が出来るかわからないし、あんな別れ方をした後で、どんな顔で会えばいいのかもわからなくて、怖い。それでも。このまま消えてしまいそうな優に、再び輪郭を与えられるのは……きっと自分しかいない。
梨花は、担任の千原から配布物を受け取った。優ともう一度会うための、面会許可証の様に思えた。
***
カーテンの隙間から差し込む淡い光の中で、埃が舞っている。優はベッドの上に力なく横たわりながら、それをぼんやりと眺めていた。学校を休み始めてから三日が経っている。
激しい虚脱感に苛まれ続けた三日間だった。部屋を出ることはおろか、ベッドから体を起こすことすら億劫で仕方がない。部屋を出てトイレで用を足すための十数歩が、果てしなく遠い道のりに感じられる。食事は父や母が届けてくれたが、喉を通らない。それでも何か食べられるものを、と父が買ってきたゼリー飲料を、義務感から口に含む。それはマスカットの味がするはずなのに、なんの味も香りもしない。ただドロドロとした半固形物を、胃に流し込む作業だった。
優の身体は、まるで自分のものでは無くなったかの様に重く動かない。一方で、泥沼の様に重い思考が、ぐるぐると頭の中を巡っていた。なぜ、こんなふうになってしまったのか。きっかけは梨花との断絶だった。そして、その心の穴を埋めるために書いた、あの文章。
優は最期の力を振り絞るかのように体を起こすと、机の引き出しを開けた。そこには、コンビニでコピーした原稿用紙が一枚、丁寧に折りたたまれて仕舞われていた。『地獄変』の読書感想文。あの夜に憑かれたように書き殴った、優の「マニフェスト」だった。
優は震える指でそれを開き、文字を目で追った。
『真に美しいものは、作者の何か大切なものを代償としなければ、生まれない』
『芸術とは、誰かのためではなく、芸術そのもののために存在している』
『美を創り出す宿命は、選ばれた者にのみ与えられる、祝福であり呪いなのだ』
読み進めるほどに、言い表しようのない嫌悪感が、胸の奥から込み上げてくる。
――こんなの、ただの言い訳じゃないか。
優は、あの夜のことを思い返す。そして、その文章を書き上げた当時の自分を問い詰める様に、自問自答を始めた。
――僕はあの時、理由が欲しかっただけだ。言い訳が欲しかっただけだ。カラオケボックスで、梨花と過ごした日々。梨花はあんなに手を差し伸べてくれていたのに、僕は応えられなかった。応えられない自分が嫌で嫌で、そんな自分を正当化したくって、こんな文章を書いたんだ。
――芸術は芸術そのもののために存在する?そんなのは、僕にとっては詭弁じゃないか。だって僕は、誰かと繋がりたくて、歌い始めたんだろう? 誰とも繋がれない、中途半端な身体と声が嫌いで仕方なくて。歌うことで、やっと繋がれたんじゃないか。やっと何かに成れたんじゃないか。聴いてくれる人がいない歌なんて、なんの意味も無い。
――僕には、「宿命」なんて無い。自分自身の意志で歌を始めて、自分自身の意志で、梨花の気持ちに応えなかった。全部、僕が決めたことなんだ。そうして今は、こうして学校にも行かずに布団の中で腐ってる。
「……馬鹿だ、僕は」
優は手に持つその原稿用紙を、衝動のままに引き裂いた。びりびり、とコピー紙の裂ける乾いた音が室内に響く。書いた当初、それは優の暗い心中を代弁し、今後の優の指針を示すマニフェストのはずだった。しかし今や、「言い訳」「自己の正当化」と断じられ、意味を持たない紙切れへと変わっていく。
――もう一度、思い出すんだ。僕が歌う理由を。
細切れになった紙片をゴミ箱へ放り込むと、優はベッドの上に腰を下ろした。心なしか、身体が軽くなった様に思えた。霧が晴れた様に、頭の中がクリアになってくる。そうした変化が、優に前向きな思考を促した。この陰鬱な現状を、どうすれば打開できるか。それを考えようとした。
その時、枕元に放置していたスマートフォンが短く振動した。通知音。画面を点灯させると、メッセージアプリのポップアップが表示されていた。メッセージの送り主は、楠本梨花だった。
『ユウ君、具合はどう? 休んでる間に色々配られたから、今日お家に持っていくね。もし体調が良ければ、先生からの連絡とか色々あって話したいんだけど、大丈夫かな?』
優の心臓は早鐘を打った。 梨花と会うのは、正直言って怖い。具合が悪いと言って逃げることもできる。「まだ起き上がれないから親に渡しておいて」と返信して、布団をかぶってやり過ごすこともできる。でも、それでは駄目だ。ゴミ箱の中の引き裂かれた「言い訳」の紙屑を見る。梨花と話すことで、何かを変えられるかもしれない。
優は震える指で画面をタップした。
『ありがとう。体調は大丈夫だから、話してくれると助かる』
送信ボタンを押すと、優は細く長い息を吐いた。その息は、まるで一片の藁だった。腰まで浸かった抜け出せない泥沼から出ようと足掻き、縋るように掴む一片の藁。
泥沼で溺れかけて藁を掴む様な、優の心境を代弁していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます