第15話

 火曜日と金曜日の放課後にカラオケボックスで落ち合うのが、二人の約束になっていた。

 古びた一室で二人きりになると、梨花は、学校では見せない真剣な眼差しを優に向ける。互いの歌唱について、遠慮のない言葉の応酬が行われる。


「――ユウ君、今の曲だけど……ちょっと最初から盛り上げすぎなんじゃないかな? クライマックスは曲の最後に持ってきた方が良いと思った」

「うーん、本当にそうかな。曲の冒頭のインパクトで、一気に聴く人の心を掴みたいな、て思ってたんだけど」

「その気持ちはわかるんだけどさ。今聴いた感じだと、『心を掴まれた』ではなかったよ。いきなり盛り上がってびっくりした、って思っちゃった。ユウ君の表現力なら、声量に頼らない方法が、きっとあるはずだよ」

「そっか……ありがとう。もう少し研究してみるよ」

 

 優にとっての梨花と過ごす時間は、歌を通じて初めて得た、他者との濃密な対話だった。梨花という「理解者」を得て、優の世界は確かに彩りを増していた。


 しかし、梨花にとっては、その時間は全く別の意味を持ち始めていた。

 

 いつの間にか、隣で歌う優の横顔を盗み見る回数が増えていた。その中性的で整った目鼻立ちは、今まで何度も目にしてきたはずなのに。どうしても意識してしまう。その顔を形作る眉や目や唇が、梨花の瞳を捉えて離さない。歌唱に集中している時の、わずかに寄せられた眉。長い睫毛に縁取られた、伏せがちだが澄んだ瞳。楽曲の世界に没入し、恍惚とした表情で歌を紡ぐ唇。そのすべてが、梨花の胸に焼き付いてゆく。


 カラオケボックスでの「練習」の時間は、いつもあっという間だった。終了5分前になると、「ああ、もう終わってしまうのか」と寂しくなる。店を出て優と別れると、胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちになる。帰宅する頃には、次の「練習」が、待ち遠しくて堪らなくなる。


 学校でも、優はただの友人ではなくなっていた。授業中、教室の後方に座る梨花の目には、黒板と優の後ろ姿が共に映る。しかし、黒板や教師は目に入らない。それらはただの背景となり、梨花の瞳は優の背中に釘付けとなる。茶色がかった、艶やかなミディアムヘア。背が高く、どこか華奢な体つき。教師の声は耳に入らない。ただ呆けたように優を見つめていると、いつの間にか授業は終わっている。


 昼休み。慎二や真由美と普段通りに談笑する。


「――ねえ、今度の土曜のライブ、みんなは来てくれそう? めっちゃ良い感じに仕上がってるからさ、来てくれたら嬉しいな! すっごいのを聴かせてあげるから!」

 

 しかし、梨花の意識は無言で微笑む優に集まる。言葉を交わすのは慎二や真由美とだが、「優は自分のことをどう思っているのだろう」と、そればかりが気になって仕方がない。この話題を振ったら、優は嫌な気持ちにならないだろうか。あの話をしたら、優は喜んでくれるんじゃないか。そんなことばかりを考えながら、昼食の時間は過ぎてゆく。


 帰宅した後も、梨花の意識の真ん中には、常に優がいた。夕食を済ませて自室に戻ると、何も手がつかない。週末のライブに向けて音源を聴こうとしても、カラオケボックスで歌う優の姿が脳裏に焼き付き、集中できない。学校の課題を進めようとしても、優の後ろ姿が思い出されて、頭が働かない。


 やがて、眠らないといけない時間になる。ベッドへ横になると、梨花の思考は更に熱を帯びてゆく。優の、艶やかなミディアムヘア。あの髪に指を差し入れたら。どんな感触がするだろう。あの華奢な体を、もしも抱きしめることができたなら。その感触は硬いのだろうか、柔らかいのだろうか。あの胸元に顔を埋められたなら、どんな匂いがするのだろう。


 梨花の胸は、優への想いで飽和した。


 その感情は、梨花も良く知るものだった。ドラマやコミックで飽きるほど見聞きする、物語の世界では手垢の付いた様な感情。しかし、梨花自身が体験するのは、それが初めてだった。


 優の、すべてが欲しい。歌声も、その身体も。優の視線の先にいるのは音楽ではなく、自分であって欲しい。ありきたりで、どうしようもないほどに、真っ直ぐな感情だった。


 梨花は、胸を埋め尽くすその感情を認めた。そして一度認めてしまえば、溢れ出しそうな想いを堰き止める術は、もはや持ち合わせていなかった。


 その日も、二人はいつものカラオケボックスにいた。

 優が悲しい失恋の曲を歌い終えた直後に、それは起こった。


 優の歌声は、あまりにも切なかった。梨花は自分の想いを重ねてしまい、胸が張り裂けそうになる。


「……すごいね、今の。本当に、恋をしてるみたいだった」

 

 梨花がそう言うと、優は少し困ったように笑った。

 

「ありがとう。……でも、恋ってどんな感じなんだろうね。漫画やドラマでは見聞きするけど……実は、僕にはよく分からなくて」


 その言葉が、引き金になった。


 ――もう、我慢できない。ユウ君に伝えたい。恋とは、「こんな感じ」なんだ。胸が苦しくて苦しくて、誰かに伝えないと、どうにかなってしまいそうなんだ。


「ユウ君」

 

 梨花は、マイクをテーブルに置いた。その乾いた音に、優が少し驚いてこちらを向く。梨花は、その瞳をまっすぐに見つめ返した。


「私、ユウ君のことが好き」


 絞り出すような、切実な声だった。

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