Chapter 1: Cage & Wings
第1話
転校生なら誰しも、登校初日には期待と不安が入り混じるものだ。しかし、朝比奈 優の転校初日は、不安の方が遥かに大きかった。
九月一日、高校二年生の朝。優は引っ越したばかりのマンションから通学路へ出た。空はどんよりとした雲に覆われていて、残暑は厳しい。べっとりとした湿気が、真新しいワイシャツに付きまとう。まだ履き慣れないローファーの硬い感触を感じながら、しばらく歩く。すると、同じ高校に通う生徒たちと出くわした。
「――やべえよ、夏休みの課題、終わってねえんだ、写させてくれよ――」
「――夏休みはどこに遊び行った?……海かぁー!いいなー!――」
彼ら、彼女らは、他愛のない会話を楽しみながら歩いている。その光景は、夏休み明けの気怠さと、友人と再会する喜びの入り混じった、ありふれた高校生たちの日常だった。しかし、それは優にとっては決して関わることのできない、遠い世界だった。優は、憧れる。あの生徒たちの様に、自身の思いをありのままに口に出して笑い合うことができたら。どんなに楽しいだろうか。この日常は、どんな彩りを持つだろうか。
しかし、優にとって声は「檻」だった。
他者と話したい、思いを伝えたい。そのために声を出す。声を出した瞬間に、他者との深い断絶を感じてしまうのだ。十六歳の男子とは思えない声。声変わりが起こらなかった、十歳にも満たない幼い声。その声が、優を檻の中に閉じ込める。発せられた声を自分で聞くだけで、自分は異質な存在だと思い知らされる。その声が人に届けば、奇異の目線が注がれる。それが、恐ろしくて堪らない。そうして優は、他者との会話を極力避ける、内向的な少年となっていた。
校門をくぐり校舎へと入ると、昇降口は夏休み明けの生徒たちの喧騒で埋め尽くされている。その喧騒の中、彼ら彼女らとの間には、透明な見えない壁があるように感じられた。
登校初日は、職員室を訪ねることになっていた。階段を上がり、2階の職員室のドアをノックする。間も無くドアが開き、30代半ばの女性が優を出迎えた。
「転校生の、朝比奈 優さんね?担任の千原です。よろしくね。中に入って」
職員室の空気は生徒たちの喧騒とは異なり、冷たく乾いている。千原と名乗った教員は優を招き入れ、自席近くのパイプ椅子に座らせた。そして、優が編入されるクラスの概要などを説明した。
「――最後に、朝比奈さんから何か聞きたいこと、確認したいことはある?」
千原は訊ねた。優は、小さな声で応える。
「あの……僕は人前で話すのが苦手で……その、皆の前で自己紹介とかは怖くて……」
それは、優が最も恐れていた転校初日の「儀式」だった。自己紹介という名目で、クラス全員の視線に晒され、自身の声を発しなければならない。その時に注がれる奇異の視線を想像すると、足が竦むほどの恐怖を感じるのだった。千原もまた、優の背景にある複雑な事情を承知していた。
「大丈夫、心配しなくていいよ。そういう自己紹介はしなくていいから。――その代わり、少しずつで良いから、クラスのみんなとは話してみてね?いつまでも黙ってる訳にもいかないから。あなた自身のためにも」
千原の対応は、良識ある大人としての模範解答の様に思えた。しかし、優にとってその言葉は、重い足枷の様だった。
「なあ、朝比奈……だっけ?昼飯、一緒に食べない?」
滞りなくクラスへと溶け込んだ優に、後ろの席の男子が声をかけた。淡々と午前の授業が過ぎ、昼休みとなっていた。
「俺は田井中 慎二。シンジでいいよ。いつも、近くの席のリカとマユミと一緒に食べてるんだ。そのうち、二人も来るよ」
「……うん、ありがとう。ユウって呼んで。一緒に食べていいかな」
優は小さく、できる限り低く押し殺した声で返事をした。その発声は、優が奇異の目線を防ぐため身につけた演技だった。男性とは思えない地声に気付かれないよう、ありのままの声は隠して話す。そうすることで、かろうじて「高い地声の男性」を演じようとしていた。慎二は弁当を広げながら続ける。
「俺とマユミは合唱部で、リカは軽音部なんだ。三人とも歌うのが大好きでさ、色々と話が合うんだ。最近はさあ、――」
慎二は自分たち三人について紹介を続けた。優が曖昧に相槌を打っていると、背後から太陽のような明るい声がした。
「あー、今日は売店激混み!たまごサンド、売り切れちゃってたよ……」
そして、低く落ち着いた声が続く。
「……もう、リカは『これからは自分でお弁当作る!』んじゃなかったの?ちょうど私のお弁当がサンドイッチだから、分けてあげようか?」
「あぁ、神様仏様マユミ様!このご恩は生涯忘れませぬ!」
「はいはい、忘れていいから。その代わりに数学の宿題、ノート見せてね?」
そんな掛け合いをしながら、楠本 梨花と進藤 真由美の二人は、優と慎二の元へやってきた。
「おぉ、転校生くんだね!リカっていうの。初めまして!」
「朝比奈 優君でしょ?私は進藤 真由美。これからよろしくね」
梨花と名乗った少女は、やや長身で細身の体型、豊かで茶色がかったロングヘアの持ち主だった。目鼻立ちは日本人離れしてはっきりとしていて、テレビで目にするハーフ系タレントのようだった。一方の真由美は、背は低め。艶やかな黒髪をボブカットにして、どこか人を安心させるような、柔らかな顔立ちをしていた。その二人の外見と雰囲気は、優に「太陽」と「月」を連想させた。二人の持つ対照的な明るさに気圧されながら、優も辛うじて自己紹介をする。
全員が揃うと、優以外の三人は会話に花を咲かせ始めた。午後の授業の話、お互いの部活動の話、最近ネットで話題の楽曲の話。矢継ぎ早に言葉は紡がれ、闊達に掛け合いが始まり、目紛しく話題が変わる。しかし、優は「高い地声の男性」を演じるのに精一杯で、その会話に加わることができない。演じようとして声を低く押し殺している間に、三人は一足早く、次の話題へと移ってゆく。
優は、三人との間に距離を感じ始めていた。四人で昼食を囲み、談笑しているはずなのに。自分だけはこの明るく楽しいはずの会話に、いつまでも加われそうにない。そんな感覚が、優の胸中を支配し始めた。
だが、三人にとって優の様子は「まだクラスに編入して間も無く、緊張して打ち解けられない転校生」に見えていた。きっと、彼はまだ「自分」を出せていないのだろう。もっと互いを知り合い、打ち解け合いたい。朝比奈 優とは、どんな男なのだろう。そんな健全な好奇心から、慎二は優に提案した。
「なあ、ユウ。今日の放課後、俺たち三人でカラオケに行くんだけどさ。お前も来ないか?」
すぐさま梨花が賛同する。
「おぉ!いいねー、行こう行こう!きっと楽しいよ!」
二人の勢いに負け、優は一緒に行く、と約束してしまった。カラオケなんて一度も行ったことはない。人前で歌ったこともない。でも、三人が歌うのをただ聴いていればいいだろう。それはそれで楽しいかもしれない。そんな思いで約束をした当時の優は、知る
歌こそが。声という檻から自らを解き放つ「翼」だったのだ。
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