令和のカストラート

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プロローグ

「――彼女なら、時代を席巻する歌姫になれる」


 この業界に居座って久しいが、こんなにも揺るぎない確信が産まれたのは初めてだった。


 彼女のYoutubeチャンネルは様々な「歌ってみた」を、音声のみで配信していた。ただ、それだけだった。誰もがよく知る有名な楽曲。J-POP、洋楽、オペラのアリア、宗教曲、果ては、演歌まで。リストを見る限りでは、ジャンルは幅広いが、どこにでもいる歌好きの女性にしか見えなかった。


 しかし、その歌声は、たった一声聞くだけで――胸を鷲掴みにされるような、力強くて不思議な何かを持っていた。圧倒的な声量と音圧。ガラス細工の様に繊細な表現。そして何より、その歌声を聴くのは魔法のような体験だった。私が最初に聴いたのは、数年前に流行った、失恋を歌ったバラードだった。何度も聴いた、ありふれた曲だったのに。あの信じがたい感覚は、まるで現実味がなかった。


 その歌声は、楽曲が表現したい想いや情景を、まるで五感を乗っ取るかのように訴えてくるのだ。耳から歌声を聞いているだけなのに。愛し合っていた恋人との別れのシーンが、視える。大雨の中で去ってゆく愛しい恋人の姿が、目に浮かぶ。去ってゆく恋人を見つめながら、雨に打たれる冷たさを感じる。耳から、匂いを感じる。雨に濡れたアスファルトの、じめっとした匂いを。


 間違いなく、10年に1度の逸材だ。なんとしてでも接触し、プロデュースしたい。失いかけていた仕事への情熱が、全身にたぎるのを感じた。


 その配信者へアプローチする作戦を練り始めたころ、思いがけない事実を知らされた。


 ――男性だったのだ。私が、未来の「歌姫」だと思い込んでいた配信者は。


 見逃したことが悔やまれるが、その配信者は1週間前に一度きりのライブ配信を行ったらしい。顔は出さない。しかし確かに姿を見せ、肉声で語ったという。


 透き通った高い声は、男性の声とは思えなかったらしい。一方、ブレザーとスラックスの制服に身を包んだ体は長身で、間違いなく女性ではなかったと。「彼」は、淡々と自身の身の上を語ったという。それは、事務的な口調とは裏腹な、凄惨な過去だった。


 ――幼い頃の交通事故。命の危険があった程の大手術。男性を男性たらしめる要素の、喪失。


 ホルモン治療の甲斐もなく、声変わりが起こらなかったのだと。無遠慮なフォロワーが、こう呟いた。


「僕は奇跡を目の当たりにしている。彼は、令和の時代に甦ったカストラートだ」


 カストラートとは、ヨーロッパの近代まで実在した、去勢された男性歌手のことだ。女性が歌うことを禁じられた教会で、宗教曲の女声パートを担った幼い少年たち。その中で、特に美しい歌声の持ち主を去勢させ、その声を保ったのだ。現代では許されない残酷な代償と引き換えに、その歌声はこの世で最も美しいとされ、絶大な人気を誇ったという。


 カストラートへの例えは、彼の痛ましい過去に対して無神経に思えた。しかし、それ以上適切な表現も、見当たらなかった。


 ***


 そんな彼に、ついに会うことができた。インタビューに愛用する帝国ホテルの一室で、私は彼と対面した。某有名プロダクションの執行役員という仰々しい名刺を差し出し、口火を切る。


「はじめまして、松田と申します。……緊張してるかな?リラックスしてくれたら嬉しいな。今日は楽しくお話しして、貴方のことを少しでも知れたら、それでいいの」


 彼の緊張を解くべく、極力柔らかな物言いを心がける。目の前にいるのは、「朝比奈 優」という高校3年生、17歳の少年だ。身長は180センチくらいだろうか、背が高い。茶色がかった細めで真っ直ぐな髪質の、艶やかなミディアムヘア。目鼻立ちは整い、男性アイドルグループの一員となっても違和感が無いくらいだ。華奢な体型を隠すかのように、オーバーサイズの白いスウェットを身に纏っている。


 彼は伏目がちで、この部屋に入ってきてから一度も目を合わせてくれない。内向的な性格に見える。少しの間の後、彼の肉声を初めて聞いた。


「――はじめまして、朝比奈 優と言います。……よろしくお願いします」


 その声は、なんとも形容し難い響きを持っていた。明らかに、成人男性のそれではない。女性のそれでもない。強いて言えば、10歳にも満たない幼い子供。その純粋で透き通った声色が、そのまま成熟したような。そんな響きを、低く押し殺して声に出していた。少しでも、一般的な男性の声に聞こえる様にと、必死に演じているような。その振る舞いは、ある種の痛々しさすら感じさせた。


「ええ、よろしくね。貴方の歌声、Youtubeで全て聴かせてもらったけど……本当に素晴らしいと思った。いつから歌い始めたの?」


 微笑みながら、当たり障りのない話題のように装った。あの奇跡の様な歌声がどこから生まれたのか、詳しく知るのが目的だ。彼は少し考えた様子の後、こう答えた。


「ええと……学校の音楽の授業とかを除けば……高校2年生の秋ごろに、友達と行ったカラオケが、初めてだったと思います」


 微笑みが強張るのを感じる。


(高校2年生の秋!?――1年も経ってないじゃない。それなのに、この完成度?この表現力?このレパートリーの広さ?)


 目の前の少年の常軌を逸した才能を、たった一言で思い知らされた。調べたプロフィールでは、両親は藝大で声楽を専攻した、音楽界のエリートだった。父親は売れっ子ではないものの、現役のオペラ歌手だ。だから、幼い頃からずっと英才教育を受けていたのだと思っていた。始めてまだ1年経たずでこのレベルなら、もう、無限の可能性しかない。


 私は興奮を抑えるのに苦労しながら、彼が歌い始めてからの経緯について、3時間にも渡るインタビューを行った。


 ***


 インタビューが終わり、私は今、ホテルの一室でノートP Cと向き合っている。彼の今後のプロモーションプランを考えなければならない。しかし、その作業は一向に進みそうにない。彼の物語が胸に焼き付いて離れず、私の思考を妨げる。


「才能の原石を世に送り出す」


 私はこの仕事に誇りを持っているし、「朝比奈 優」に対しては、これまでにない情熱がみなぎっていた。しかし、彼と会って話をした今、私の胸中にあるのは葛藤だけだ。

 これほどの才能を世に出さずインターネットの片隅に放置するのは、もはや犯罪のように思える。一方で、彼を世間の好奇な視線に晒すのもまた、罪深い行いに思えてならない。私は、彼が歌と出会った後の物語を、詳しく聞いた。聞いてしまったのだ。


 ――何者でもなく、何者にもなれそうにない、一人の少年。

 ――彼は「声」という、天から与えられた蜘蛛の糸にすがる。

 ――彼は「歌」で世界とつながることで、何者かに成ろうと足掻く。

 ――触れば壊れてしまいそうに繊細で。

 ――哀しいほどに、ひたむきな。


 朝比奈 優が歌に出会ってからの数ヶ月は、そんな青春だった。

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