第13話
私が芸能界を引退し、全資産を施設に寄付してから、もうすぐ三年が経とうとしていた。世間の熱狂は、静かな尊敬へと変わり、私はその光から離れ、平穏な日常の中で、ようやく「相良悠」という一人の人間として息をしている。
17歳になった私は、高校の卒業を控えていた。進路を決める時期だ。
私の元には、国内の名門大学から、海外の演劇学校まで、様々な推薦状が届いていた。世界を魅了した「天才子役」の履歴は、私が引退した後も、私の存在を追いかけてくる。
(世界的な名声も、最高の教育も、もう必要ない。私が学ぶべきは、人間の温かさと、自分自身の居場所を愛する方法じゃ)
私が選んだのは、海斗が選んだ進学先と同じ、地元の短期大学だった。海斗は、施設の子どもたちや、社会の片隅で助けを求める人々を支えたいと、福祉の道を志していた。
「アオが…本当に、俺と同じ短大でいいんか?」
海斗は、私の決断を聞いたとき、驚きを隠せなかった。彼は、私が世界の舞台に戻るべきだと、心の底では思っていたのだろう。
私は、海斗の顔を見た。彼の瞳には、計算も、羨望も、私の成功への期待もない。ただ、私という人間を受け入れる、まっすぐな光だけがあった。
「いいんだよ、海斗。私が学んだ百年分の知識は、もう十分じゃ。これからは、お前が学ぶ人の心の温かさを、隣で静かに観察させてもらう」
海斗は、恥ずかしそうに笑った。「なんだよ、じいちゃんみたいだな」
その「じいちゃん」という言葉が、私の魂にとって、何よりも心地よい愛称だった。
静かなる独立
私の引退後、両親――桐生翔太と白石美咲の消息は、時折週刊誌のゴシップ欄に載る程度だった。彼らは、小さな地方の舞台や、インディーズ映画などで細々と活動を続けているようだが、かつての光は完全に失われている。彼らが最後に私という「娘」について語ったのは、ドキュメンタリー公開直後、私の寄付行為に対する、憔悴しきった声明だけだった。
私は、彼らへの憎しみや復讐心を持たなかった。彼らは、私の人生から、既に完全に「退場」した。私の今の選択が、彼らの人生に再び波紋を広げることもない。私の独立は、彼らを許すことでも、和解することでもなく、ただ彼らと無関係に生きることだった。
私が選んだこの道は、誰にも邪魔されない、私自身の尊厳を守るための、静かな結末だった。
エピローグ:小さな舞台
短大の入学を控えた春。私は海斗と共に、施設の演劇クラブの指導を手伝っていた。私たちが使うのは、あの八歳の頃、私がリスを演じた、小さな地域のホールだ。
指導中、私はふと、小さな女の子が、感情の機微を掴めずに悩んでいるのを見た。
「あのね、ユキちゃん。そのセリフは『悲しい』んじゃない。自分の心が、世界から少し離れて、静かになってしまう感覚なのよ」
私は、自分の演技論を、分かりやすい言葉で子どもたちに伝えた。私の演技の才能は、世界という巨大な舞台ではなく、この小さな場所で、子どもたちの純粋な心を育むために使われることになった。
演劇クラブの発表会の夜。私は観客席の隅に座った。海斗が私の隣にいる。
舞台には、私が指導した子どもたちが立っていた。彼らの演技は、洗練されていないが、感情が溢れ、力強かった。
私は、その舞台を見て、静かに微笑んだ。私の顔には、アイドルとしての完璧な笑顔でも、ヒロインとしての悲劇的な表情でもない、私自身の、穏やかな充足感が満ちていた。
(この場所こそが、私の居場所じゃ)
百年の旅を終え、新しい生を得て、世界的な名声と引き換えに手に入れたのは、この小さな舞台の光と、海斗の隣の静かな日常だった。私は、誰かを壊すために生きるのではなく、自分の居場所を見つけ、そして愛する人々と共に、静かに生きていくという、最も人間的な結末を選んだのだ。
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