第11話
アイドルドラマの撮影が全て終わった後、私は深い疲労感に包まれた。肉体的な疲労ではなく、魂の摩耗だ。希望に満ちたミクを演じることは、感情を捨てる怪人役よりも、はるかに私自身の内面を削り取った。誰よりも純粋な嘘を演じ続けた代償だった。
「お前が演じたミクは、完璧だった。だが、もう、偶像は終わりだ」
松岡師匠は、私の目の前に、一枚の契約書を差し出した。それは、国内外の映画賞を総なめにした著名な監督が、私の人生を追うドキュメンタリー映画を制作するという企画書だった。
タイトルはシンプルに、『蒼(あお)の軌跡(きせき)』。
「これが、君の最後の役になるかもしれない」と師匠は言った。
「私の…役、ですか。これは、事実の記録でしょう」
「違う、悠。この世の全てが物語だ。君の人生は、既に『究極のヒロインの物語』として世界中で消費されている。このドキュメンタリーは、君が自ら、その物語の**『真実の結末』**を選ぶための、最後のカメラだ」
松岡師匠の言葉は、冷徹だが、常に真実を突いていた。
このドキュメンタリーは、私が誰かに作られた「哀れな被害者」でも、「天才子役」でも、「国民の娘」でもなく、「相良悠」という人間として、世界に自分を語りかける最後の機会を意味していた。
ドキュメンタリーの恐怖
私は、これまでのどんな役よりも、この「自分自身」という役を演じることに、恐怖を感じた。
(私は、自分を演じられるのか? 私の魂は、百歳の老人と14歳の少女のねじれじゃ。愛を求め、拒絶されたトラウマと、偽りの笑顔で成功を手にした虚飾に満ちておる。その全てを、カメラの前で晒せるのか)
私が恐れたのは、拒絶だった。もし、私の内面にある「じいちゃん」の冷徹な視線や、「孤独」という真実が露わになったとき、世間が、海斗が、そして私が唯一得た居場所が、私を拒絶するのではないかという、幼い頃から根付いた本能的な恐怖だった。
だが、この恐怖こそが、私に決断を迫っていた。
「師匠。このドキュメンタリーは、私の『居場所』を探す旅の終着点になりますか」
松岡は静かに頷いた。
「このカメラは、君が名声という光の中を選ぶのか、それとも、海斗や施設という影の中を選ぶのか。君の真の望みを記録する。君の選択が、この映画の結末になるんだ」
最後の問いと対比
この企画の決定は、私の心に、一つの鮮明な対比を生み出した。
名声と虚飾の極致であるアイドル役を演じきった後、私は世界で最も「正直」なカメラの前に立たされることになった。
この映画は、私の存在が引き起こした「ざまあ」の連鎖の終止符となる。私が、両親の過ちを許し、和解という名の「救済」を与えるのか、それとも、完全に独立し、彼らの人生を永遠に過去のものとして切り捨てるのか。
私は、海斗からの最新の手紙を取り出した。そこには、私の忙しさを気遣う温かい文字が書かれていた。
「アオは、自分の好きなことをすればいい。俺たちは、アオの味方やけんね」(博多弁は海斗の友人の方言設定と被るため、ここでは親しみやすい標準語の訛りとして扱う)
その温かい言葉こそが、私の魂の羅針盤だった。
私は、ドキュメンタリーの制作陣との最初の顔合わせに向かうため、静かに立ち上がった。私の顔には、アイドル・ミクの完璧な笑顔も、悲劇のヒロインの静かな絶望もなかった。そこにあったのは、ただ、自分の人生を、自分の意思で歩こうと決意した、14歳の少女の、清々しいほどの覚悟だけだった。
(さあ、じいちゃん。最後の役じゃ。今度こそ、誰の模倣でもない、私自身の結末を演じよう)
ドキュメンタリー映画『蒼の軌跡』の撮影が始まった。カメラは、私の生活の全てを追った。華やかな撮影現場、師匠との打ち合わせ、そして、週末に静かに訪れる児童養護施設での生活。
監督は、私に「演技は要らない」と言い続けた。
「相良さん。私たちは、貴方の瞳に宿る真実が見たいのです。貴方が、あの時、両親の冷たさに何を思い、今、この成功の光の中で、何を求めているのか」
私は、カメラの前で静かに海斗との思い出を語った。海斗との小さな喧嘩、施設でのトランプ、初めてもらった誕生日プレゼント。それらは、私がこれまで演じてきたどの「愛」よりも、深く、本物の感情だった。
カメラは、私が施設で子供たちと遊ぶ姿を捉えた。私が、初めてマスクライダーの現場で流した涙について問われたとき、私は答えた。
「あの涙は、役の悲しみではありません。私という存在が、誰にも拒絶されないという、初めての安堵から生まれたものです。私にとって、その安堵こそが、居場所の証明でした」
私は、両親についての質問にも冷静に答えた。憎悪はない。ただ、私を排した彼らの選択と、私が選んだ結果が、これだ、と淡々と語った。このドキュメンタリーは、復讐ではなく、私の独立の宣言となっていた。
2. 名声からの訣別
撮影の最終日、私は松岡師匠のオフィスを訪れた。師匠は、私の視線から、既に決意を読み取っているようだった。
「…決めたか、悠」
「はい、師匠。私は、芸能界を引退します」
松岡師匠は、私の顔をじっと見つめた。その瞳には、失望ではなく、深い理解と、わずかな哀しみが浮かんでいた。
「君の才能は、世界を動かせる。君の演技は、感情を排したからこそ、純粋な器として、誰にも真似できないものだった。それを捨てるのか」
「私の演技は、私自身の魂を摩耗させました。私は、誰の感情も借りずに笑える、海斗の隣の、あの静かな居場所を選びたいのです」
私は、彼の目を見て、初めて自分の言葉で、自分の未来を決定した。
「それに、私には、しなければならないことがあります」
私は、師匠に、最後の決断を告げた。
「私が芸能活動で貯えた資金、映画やドラマ、CM、全てで得た収益の全てを、私が育った児童養護施設、そして、国内の全ての施設へ、平等に還元します」
松岡師匠は、目を見開いた。
「全て、か。それは、君が世界的なスターとして生きていける、莫大な金額だぞ。親からの送金も、君が受け取った賠償金も、全て合わせた額だ」
「はい。お金で、居場所は買えません。両親は、お金で私を排した。私は、このお金で、私を受け入れてくれた場所へ、感謝を還元したいのです。私のお金は、私の居場所を築くために使われるべきです」
これは、両親がかつて私を施設に預け続けた「金銭による解決」への、悠の最も高潔で、最も冷酷な「ざまあ」の完成だった。両親が汚したお金を、悠が清らかな形で社会に還元することで、彼らの罪の意識を、永遠に、そして決定的に確定させたのだ。
3. 蒼の結末
松岡師匠は、何も言わなかった。ただ、深く息を吐き、静かに言った。
「わかった。君の選択だ。だが、私は君の師匠だ。君が選んだ道を、最後まで見届ける。君の引退と、全ての資産の寄付は、私が責任をもって、このドキュメンタリーの最終章として発表しよう」
数週間後、私の引退と莫大な資金の寄付が、ドキュメンタリー映画の公開と同時に世界に発表された。世間は驚愕し、賛辞を惜しまなかった。
『蒼の軌跡』の最終カットは、華やかな授賞式の舞台でも、ダズニーの撮影現場でもなかった。
それは、雪が降る冬の日。施設の庭で、海斗と私が、古い毛糸のマフラーを巻き、他愛もない話をしながら笑っている、ただそれだけの静かな映像だった。
カメラは、海斗に向かって語りかける私に焦点を当てた。
「なあ、海斗。私には、演技はもう必要ないようだ」
海斗は、無邪気な笑顔で言った。
「そりゃそうだ。アオは、俺たちの前で、アオを演じる必要なんてないんやけん」
私は、心から笑った。それは、百年生きた魂が、初めて安息の地を見つけ、何の意図も、計算も、模倣も含まない、純粋な14歳の少女の、本物の笑顔だった。
ドキュメンタリーは、この笑顔で幕を閉じた。私は、世界の光を捨て、海斗の隣の、温かい影の中で、相良悠としての、静かな新しい人生を始めた。
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