第3話

八歳のあの日、私は松岡典雄という男に拾われた。彼が私に与えたのは、演劇学校での指導という名の、過酷な「訓練」だった。

​松岡は、私の演技を絶賛しなかった。むしろ、私を冷静に分析した。

​「相良悠。君の才能は、この世の誰にも真似できない。君は、人間が持つ感情の波長を、まるで音叉のように正確に捉え、再現できる。だが、それは君自身の感情ではない」

​彼の言葉は、私の心を直接射抜いた。

「あなたは、私の魂が不在だとおっしゃるのですか?」

「そうだ。君の演技は、魂を宿す前の、あまりに美しく、あまりに正確な抜け殻だ。完璧な形をしているが、そこに君という百年分の重みがない」

​松岡の指導は、身体的な訓練よりも、精神的な探求に重点を置いた。彼は私に、泣く演技ではなく、「なぜ人は泣くのか」を考察させた。怒る演技ではなく、「怒り」という感情が、体内でどのような熱を生み出すのかを理解させた。

​「君は『悲しみ』のデータは持っている。だが、『喜び』を体で覚えているか? 誰かに抱きしめられた時の、あの呼吸の緩みを、君は本当に知っているのか?」

​知らなかった。私の記憶にある両親の腕は冷たく、施設での温もりも「公正な分配」だった。純粋な喜びも、純粋な悲しみも、私の百年分の人生には欠けていた。

​松岡は私に、施設の子どもたちとの日常を、より深く観察するように命じた。海斗とのふざけ合い。藤原先生の、見返りを求めない献身的な笑顔。

​「君は、その観察した感情を、ただ再現するのではない。君の百年分の人生で、それを濾過しろ。そして、君だけの『重み』を与えろ」

​技術と感情のねじれ

​私は、松岡の指導の下、演技の技術を磨き続けた。私の演技は、より深みを増し、もはや「模倣」ではなく「憑依」の域に達し始めた。舞台に立てば、観客は息を飲む。彼らは、小さな少女から発せられる、百年分の魂の叫びを感じ取っていた。

​しかし、私の内面は、常に冷たいままだった。観客が涙を流すのを見ても、私の心は動かない。まるで、高性能なプロジェクターが、美しい映像を映し出しているかのように、私自身はただの媒体だった。

​静かなるノイズ

​施設には、時折、私に関する報告が来ていたらしい。両親の事務所からの、無言の圧力だ。

​藤原先生は私に何も言わなかったが、その表情が、不安と葛藤に満ちているのを知っていた。

​(あの夫婦が、私を恐れている。私の成功が、彼らの秘密を暴くトリガーになることを、彼らは本能的に悟ったのだろう)

​私は、両親の保身の行為に、復讐心を感じなかった。憎しみは、エネルギーを消耗する、非効率な感情だと知っていた。

​ただ、彼らが私という「存在」を排除しようとすればするほど、私の演技は深まっていった。彼らの冷淡さこそが、私に唯一許された「感情」であり、私の演技に、あの完璧な孤独という名の重みを与えていたのだから。

​私は、無自覚に両親の人生を崩し始めていることを、この時はまだ知らなかった。私はただ、松岡の教えに従い、自分自身の魂の居場所を探すことに夢中だった。

​そして、十歳になった私は、松岡の推薦で、より大きな舞台、そして、テレビという大衆の目に晒される場所へと、静かに導かれていくのだった。


友人視点:小泉 海斗の告白

​1. 賢すぎる、冷たい瞳

​俺にとって、相良悠(あお)は初めて会った時から「変な子」だった。

​施設には、いろんな事情で親と離れた子がいたけど、みんな寂しさや怒り、甘えたい気持ちを隠そうとしない。でも、アオは違った。アオの顔は人形みたいに綺麗なのに、その瞳の奥には、いつも誰もいない夜が広がっているみたいだった。

​俺が初めてアオと話したのは、俺が五歳、アオが六歳の時だったかな。職員の先生が落としたおもちゃを、アオが黙って拾い上げたんだ。

​「ありがとう、アオ」って言ったら、アオは俺を見て、すごく丁寧な言葉で返した。

「礼には及びませぬ。無駄な動作は嫌いでして」

「…アオって、じいちゃんみたいだね」

俺がそう言うと、アオは一瞬、本当に一瞬だけど、驚いた顔をした。すぐにいつもの無表情に戻ったけど、その時、俺はアオの中に何か「古いもの」が隠れてるって気づいたんだ。

​アオは、俺たちを観察していた。俺たちが転んで泣く理由、お菓子を取り合って怒る理由、全部を頭の中で「データ」にしてるみたいだった。俺たちの感情に、アオの心が動くことはない。まるで、テレビを見ているみたいに、冷静で、遠い。

​2. 初めての「笑顔」

​アオは、自分の感情をほとんど表に出さない。でも、俺がアオの作ったお城を間違って壊して本気で泣いたとき、アオは困った顔をした。悲しいというより、「このデータはどう処理すればいい?」って戸惑ってるみたいに。

​ある日、俺が変な顔をして「アオ、笑えよ!」ってしつこく迫ったことがあった。アオは拒否したけど、俺があんまりしつこいから、仕方ないって顔をして、ゆっくりと口角を上げたんだ。

​それは、完璧な笑顔だった。目尻のシワの寄せ方、歯の見せ方まで、テレビで見る女優の笑顔と同じだった。でも、その笑顔の奥には、何の光もなかった。

​「どうだ?」ってアオが聞くから、俺は首を横に振った。

「違う。これは、先生たちのまねっこだろ? アオの顔じゃない」

​その瞬間、アオの顔から笑顔が消えた。そして、アオは怒るでもなく、ただ静かに言った。

「海斗。お前は、いつも正直で、面倒な奴じゃ」

​それ以来、アオは俺の前では、ときどき「まねっこ」ではない、ちょっとだけ疲れたような、リラックスした表情を見せるようになった。それは、アオが世界と戦うのをやめて、単なる八歳の女の子に戻る、唯一の瞬間だったんだと思う。俺は、その瞬間こそが、アオの本当の居場所だと信じていた。

​3. 舞台で見た「他人の魂」

​アオが八歳でオーディションに受かったとき、俺は嬉しかったけど、それ以上に怖かった。

​学芸会で、アオが「リス」の役をやったのを見た時、俺は泣いた。アオは泣いてないのに、観客の全員が、本物の絶望を感じたんだ。アオの演技は、感情の熱量がすごすぎて、俺の心にグサッと刺さった。

​オーディションの後、アオが松岡先生という人に連れられていくのを見て、俺はアオに聞いた。

「アオ、あの演技、アオは本当に悲しかったのか?」

​アオは、じっと俺の目を見て、いつものように淡々と答えた。

「悲しくないよ、海斗。あれは、ただの再現だ。藤原先生が悲しんでいた時の、あの呼吸の震えを、私が借りただけだ」

​その言葉を聞いたとき、俺はゾッとした。アオは、自分の心を使わずに、他人の感情の皮をかぶって演じている。それは、アオが本当に自分の心を使うことを、どこかで諦めてしまった証拠みたいだった。

​でも、松岡先生の厳しい指導を受けて、アオの演技はどんどん深くなっていった。アオは、まるで世界中の人々の感情を自分の体に吸い込んでいるみたいだった。

​俺は、アオの演技が大好きだ。でも、アオが舞台に立てば立つほど、アオは俺たちから遠い、手の届かない場所に行ってしまう気がした。

​俺にできることは、ただ一つ。アオが、舞台の上で、たくさんの「借り物の感情」を演じ疲れて帰ってきたとき、この施設と、俺の隣だけが、アオの感情を借りなくてもいい、本当の居場所であること。

​俺はアオの才能を誇りに思う。でも、俺は、あの夜の瞳を持つアオが、いつか心から笑える日が来ることを、一番願っていた。

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