第4話

私が松岡師匠の指導を受け始めて一年が経った頃、私の演技はもはや施設内や演劇学校の小さな舞台に収まるものではなくなっていた。師匠は、私の技術が完成に近づいていると判断し、次の段階へと私を押し出した。

​「悠。君の『魂の不在』は、逆に、ある種の役柄においては最強の武器になる。感情の濁りがない、純粋な器だからだ」

​その「器」に注ぎ込まれることになったのが、ホラー映画『殺戮遊戯』だった。

​この映画は、閉じ込められた子どもたちが生き残りをかけて心理的な恐怖に晒されるという、大人向けのスリラー作品で、メインキャストは子役ばかりだった。私が演じるのは、極限の恐怖と絶望の中で、理性を保とうとするメインヒロイン「シズク」。

​オーディションは異様だった。監督は、私たちが本当に恐怖に震える顔を見たいと望み、他の子役たちは怯え、泣き、そして感情を露わにした。しかし、私は冷静だった。

​(恐怖。それは、生存本能が崩壊する際に生じる、動物的な反応。瞳孔の散大、呼吸の乱れ、アドレナリンの過剰分泌…)

​私は、恐怖を「感じる」のではなく、過去のデータから最も純度の高い「恐怖の表現」を抽出し、正確に身体に再現した。その時の演技は、他の誰よりも静かだったが、審査員たちは息を飲んだ。私の瞳には、本当に何か恐ろしいものを見ているかのような、凍てついた絶望が宿っていたからだ。

​「完璧だ。この子は、感情を壊すことなく、絶望を演じられる」

​監督はそう言って、私を選んだ。

​撮影現場の「再現」

​撮影現場は、私の予想通り、大人たちの偽りの笑顔と裏の駆け引きに満ちていた。スタッフや他の子役の親たちは、私に親切に接したが、その視線は私の美貌と才能への好奇と計算で濁っていた。

​(ああ、あの夫婦の家と、本質は何も変わらない。より広く、より多くの人間がいるだけじゃ)

​私の役どころは、体力的にも精神的にも過酷だった。追われる恐怖、友を失う悲しみ、そして差し迫る死の絶望。

​私は、自分の演技を、もはや「模倣」ではなく「憑依」と呼ぶようになった。

​カメラが回ると、私は自分の過去のデータを開放した。

幼少期、冷たい両親から受けた「拒絶」の感覚を、「友を失った悲しみ」に変換する。

百歳で一人死を迎える寸前に感じた「静かなる孤独」を、「極限の絶望」として声に乗せる。

​涙は出なかったが、私の身体は、極限の恐怖に晒された人間の挙動を正確に再現した。呼吸は細く、手足は震え、瞳は絶えず何かを探し続けた。それは、演技というよりも、まるで体を使った論文発表のようだった。

​撮影が終わると、私はぐったりと疲弊した。感情を使わないはずなのに、なぜか体が重い。松岡師匠は言った。「それは、君という器が、人間の最も重い感情を、他者に届けるために酷使された証拠だ」

​十歳の成功と波紋

​私が十歳になった年、映画『殺戮遊戯』は公開され、予想を遥かに超える大ヒットを記録した。私の演技は、批評家から「子役の枠を超えた天才」「静かなる狂気」と絶賛された。私の名は瞬く間に世間に知れ渡り、誰もが私の美貌と才能に魅了された。

​そして、私の成功は、水面下で静かに波紋を広げ始めた。

​両親の事務所から、施設への接触が頻繁になった。寄付金が増額され、同時に、私に対する外部との接触禁止の圧力が強まった。彼らは、私の人気が上がるほど、私という「証拠品」が発する光が強くなり、自分たちの影を暴き出すことを恐れたのだ。

​(皮肉じゃな。彼らが私を消そうとすればするほど、私は輝き、彼らの虚飾を炙り出すことになる)

​私は、復讐を意図していない。だが、私の「居場所を見つけたい」という純粋な行動が、両親の地位を無自覚に崩していく。

​私は、スター相良悠として、華やかなライトの中に立っていた。その光は強烈だが、私の心はまだ、施設で海斗と過ごした、あの穏やかな影の中に残っていた。私は、光と影の狭間で、自分の本当のアイデンティティと、この無自覚な「ざまあ」の連鎖を見つめ続けることになる。


​桐生 翔太:計算の崩壊

​映画『殺戮遊戯』が公開され、興行収入のニュースが連日報じられていた頃、桐生翔太は自身のドラマ撮影の合間に、異様な焦燥感を覚えていた。

​マネージャーの高橋は、顔面蒼白で数字を報告した。「桐生さん、相良悠の…その、出演した映画が、ものすごいことになっています。特に、批評家が彼女の演技を『天才』だと。そして、子役としては異例の、海外の映画祭からも注目され始めています」

​翔太は、報告書を叩きつけた。

​「天才? 馬鹿な。あれは、我々が処理したはずの『失敗作』だぞ!」

​彼の脳裏にあるのは、感情ではなく、リスク・マネジメントのチャートだった。彼らが悠を施設に送り込んだのは、秘密を守り、キャリアを守るためだ。しかし、その娘が、自分たちと同じ舞台の、しかも最も目立つ中央に、自らの才能という名の強烈なスポットライトを浴びて立っている。

​「高橋、まず、施設の口を固めろ。寄付金を倍増させろ。だが、それだけでは足りない。彼女の美貌は、美咲と私の特徴を濃く受け継いでいる。時間が経てば経つほど、世間の目はその類似性に気づく!」

​翔太の焦りは、純粋な恐怖から来ていた。自分が演じる「理想の夫」のイメージは、今や市場価値数千億円のブランドだ。もしそのブランドが「不倫の隠し子を捨てた冷酷な親」という真実で汚染されれば、彼の地位は一瞬で崩壊する。

​彼は、悠の演技の「静かなる狂気」という評判を思い出した。あれは、自分が彼女に与えた、根源的な拒絶が生み出した表現ではないのか? 自分たちが蒔いた種が、今、自分たちを滅ぼす劇薬となって育ったのだとしたら、これほど皮肉なことはない。

​「あの松岡典雄という男…奴が背後にいるのか? 復讐か?」

​翔太は、ただの「ノイズ」だと思っていた存在が、自分たちの人生を左右する巨大な「波紋」になったことに、心底から震え上がった。彼の計算は、娘の才能という予測不能な要素によって、完全に崩壊し始めていた。

​白石 美咲:純粋な才能への危機感

​白石美咲は、自宅のシアタールームで、『殺戮遊戯』を鑑賞した。彼女はプロの女優として、自分の娘の演技を分析した。

​画面に映る、極限の恐怖に晒されるヒロイン「シズク」。その凍てついた瞳、過度な感情を排した絶望の表現。それは、美咲がキャリアの中で培ってきた、感情を爆発させる「熱演」とは対極にあった。

​「…無駄がない。完璧だわ」

​美咲は、その演技に、自分自身が持つ、人を操るための「冷徹な計算」の面影を見た。悠は、彼女の美貌だけでなく、彼女の持つ冷酷なまでの観察力と再現力を受け継いでいたのだ。

​「森下さん、あの演技は…感情の表現ではない。あれは、人間の感情を外部から取り込み、解析し、出力しているだけ。私たちが、他人を道具として見てきたように、あの子も感情を道具として使っている」

​美咲の危機感は、翔太とは異なっていた。翔太は「スキャンダル」を恐れたが、美咲は**「才能」**そのものを恐れた。

​もし、悠がこのまま成功すれば、彼女はその美貌と天才的な演技力で、自分たちが築いた「理想の夫婦」の虚飾を打ち破るだろう。それは、自分たちが最も価値を置く「美と名声」の分野で、自らの血筋に打ち負かされることを意味した。

​「あの子は、私たちの最大の敗北の証よ。これ以上、光を浴びさせてはいけない」

​美咲は、夫よりも冷徹な決断を下した。秘密を握る施設や松岡監督への圧力だけでなく、彼女は芸能界の裏側にまで手を伸ばし、悠の次の出演作品、次のオファーを、水面下で静かに妨害し始めた。

​彼らにとって、相良悠の『殺戮遊戯』での成功は、処理済みの過去が「生きた脅威」となって逆襲を開始した、宣戦布告の狼煙に他ならなかった。

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