第2話

五歳で小学校に入学した私は、社会という舞台で、模範的な少女を演じ始めた。

​登下校、授業中の態度、友人への接し方。全ては、周囲の人間が「相良悠という少女」に期待する振る舞いを正確に再現したものだった。私の観察データに基づく、完璧な模倣。教師たちは私を「利発で落ち着いている」と評価した。

​小泉海斗との出会い

​そんな私の完璧な防壁を唯一越えてきたのが、施設の友人の小泉海斗だった。彼は、私の老練な態度や古風な口調を、全く気にしなかった。

​ある日、私が彼の描いた怪獣の絵を思わず笑うと、海斗は本気で怒り、その頬を膨らませた。その、純粋な怒り、飾り気のない友情、そして無条件の信頼に晒されたとき、私は初めて、五歳の身体の心臓として「動揺」に近いものを感じた。

​海斗といるときだけ、私は「相良悠」という五歳の少女に近づいた。一緒に走るときは息切れをし、一緒に食べるお菓子の味に「美味い」と感じる。私は、海斗を観察するのではなく、彼を通じて人間的な感情を盗み始めた。

​演技との出会い

​転機は、七歳の学芸会で訪れた。私は脇役の「宝物を失くした森のリス」を演じることになった。

​教師に「心から悲しんでみて」と言われたとき、私は困惑した。私には、心からの悲しみがなかった。

​だが、私はデータを持っていた。数ヶ月前、家族の病気の知らせを聞いた藤原先生の、あの精密な「哀しみ」の表情筋の動き、声の震えの周波数を。

​私は、それを再現した。体の細胞が、他人の感情を自分のもののように表現した。

​「宝物が…ないよ…」

​静寂の後、教師は涙ぐみ、観客席の職員たちは息を飲んだ。私の「演技」は、観客の心を深く揺さぶったのだ。

​「アオちゃん、本当に素晴らしかったわ。どうして、そんなに悲しいリスの気持ちが分かったの?」

​私は答えることができなかった。それは、私の感情ではなく、私が盗んだ感情だったからだ。

​この七歳のとき、私は知った。私は感情を生きることはできないが、感情を「模倣」し、それを観客の心に届けることができる。この非凡な模倣の才能こそが、孤独な私の魂が、世界と再び繋がるための、唯一の救いになることを。


八歳になった相良悠は、小学校の三年生に進級した。学校生活は相変わらず「模範的な生徒」の完璧なトレースであり、私にとっての居場所は、親友の小泉海斗が隣にいるときと、静かに本を読んでいる時間だけだった。

​しかし、私の生活は、ある日突然、施設の一室で藤原先生から渡された一枚のチラシによって、意図せず方向転換を余儀なくされる。

​「アオちゃん。実はね、先生、ちょっと面白いものを見つけたのよ」

​先生の手には、『新星劇場』という名の、小規模だが歴史ある演劇学校の子役オーディション募集要項があった。

​「あの学芸会のリスの役、すごかったでしょう? あなたのあの演技、プロの目にもとまるかもしれないって、先生思ってね。内緒で、資料を送っておいたの。一次審査、通っちゃったわ」

​私は戸惑わなかった。むしろ、私の魂——じいちゃんの魂が、静かに観察を始めた。

​(なるほど。私の「模倣」が、外の世界にまで波及したか。この藤原という者は、私の孤独を埋める術として、これを提案したのだろう)

​復讐心も、名声への欲求も、私にはなかった。ただ、あの時の観客の心を揺さぶった感覚、そしてその演技が、私の存在を唯一、意味のあるものに変えるかもしれないという可能性に、かすかに興味を覚えた。

​「行かれますか、アオちゃん?」

​藤原先生は心配そうに尋ねた。私は静かに頷いた。

​「ええ、行きます。あの、人の感情を盗む実験は、まだ途中ですので」

​オーディション当日

​オーディション会場は、雑然とした劇場のリハーサル室だった。他の子役たちは、母親に髪を整えられ、緊張と興奮がないまぜになった表情を浮かべている。誰もが「選ばれたい」という強い感情を発していた。

​私は、海斗が施設で私に教えた「笑顔のデータ」を使い、控えめに微笑んで座っていた。その場にいる誰よりも、私の魂は年老いているにもかかわらず、その顔立ちの美しさは、審査員たちの目を引いていた。

​課題は、**「大切な人形を失った少女」**のシーンを演じること。

​他の子どもたちは、声を上げ、涙を流す。感情的な熱量は高いが、どこか誇張され、型にはまっていた。

​そして、私の番が来た。

​私は舞台の中央に進み出た。深呼吸をし、周囲の雑音と、自分の若すぎる身体の感覚を切り離す。そして、頭の中で、過去に観測した「喪失」のデータを呼び起こした。

​それは、施設の幼い子が、唯一持っていた家族の写真を失くした時の、あの呼吸の浅さ。

それは、藤原先生が、私の出生の秘密を話せない時の、あの視線の泳ぎ。

​私の顔に、涙は流れなかった。だが、私の瞳は、人形を探すという行為を、まるで世界に一つだけ残された真実の居場所を探すかのように、切実に動かした。口を開くとき、声は震えず、むしろ張り詰めた静寂を帯びていた。

​「…どこにも、ないのね。もう、どこにも」

​その声は、八歳の少女のものではない。それは、百年を旅し、大切なものすべてを失った老人の、諦念にも似た静かな絶望だった。

​会場に、冷たい空気が流れた。審査員たちは、その異様な完成度と、感情と技術の乖離に、言葉を失った。

​師匠との出会い

​審査席の一番奥に、一人の男がいた。松岡典雄。業界では知る人ぞ知る、元舞台監督で、現在は若手の育成に情熱を注ぐ人物だ。彼は、私の演技を微動だにせず見ていた。

​私が演技を終え、元の場所に戻るまでの間、松岡は静かにペンを走らせた。その内容は、他の子の「合格」「保留」ではなく、ただ二つの単語だった。

​『技術は完璧。魂、不在』

​松岡は、私の才能が単なる模倣ではなく、感情を理解する前の段階で、既にそれを完全に再現する、恐るべき器であることを瞬時に見抜いた。それは、彼が長年探し求めていた、純粋な、そして制御不能な「原石」だった。

​松岡は立ち上がり、私に近づいた。彼の視線は、他の審査員が向ける美しさへの賞賛ではなく、私の瞳の奥に潜む「じいちゃん」の影を探るように、深く、鋭かった。

​「君の名前は、相良悠、だね。いいか、悠。君は、自分の演技をどう思う?」

​私は、正直に、そして淡々と答えた。

​「これは、演技ではないと思います。ただの再現です。…ですが、人が私の再現を見て、何かを感じてくれるのなら、それは、少しだけ、孤独ではない気がします」

​松岡の顔に、ゾッとするような笑みが浮かんだ。彼は、この少女が持つ才能の恐ろしさと、それを自分の手で育てたいという業の深さを、同時に自覚したのだ。

​「フフ…いいだろう。相良悠。君は合格だ。そして、私は君を、この業界で唯一の場所へ連れて行く。君が何を求めているのかは知らないが、私が、君の演技の師匠になろう」

​こうして、八歳の夏、相良悠は、自らの意思とは無関係に、華やかな芸能界の舞台の袖に、そっと足を踏み入れたのだった。


​桐生 翔太:処理済みファイルからの通知

​桐生翔太は、主演映画のクランクインを間近に控え、多忙を極めていた。彼の生活の優先順位は、1にキャリア、2に妻との表面的な平穏、3に私的な時間だった。相良悠は、そのリストに載ることのない「処理済みの過去」だった。

​その日、マネージャーの高橋誠が、いつになく緊張した面持ちで、一枚の書類を持ってきた。

​「桐生さん。これは、例の件、施設から上がってきた書類です」

​例の件、つまり、悠のことだ。翔太はグラスを置き、苛立ちを隠さずに書類を手に取った。施設への定期的な寄付金の領収書かと思いきや、そこには「児童の活動に関する通知」と記されていた。

​『相良悠が、演劇学校のオーディションに合格しました』

​「……演劇?」翔太は眉をひそめた。

​娘が、自分たちと同じ芸能の道に進もうとしている。もちろん、施設の子が才能を伸ばすのは喜ばしいことだろう。だが、翔太の頭に浮かんだのは、道徳的な喜びではなく、情報漏洩のリスクだけだった。

​「待て。誰が、彼女をそんな場に出させた? 施設との契約では、公的な活動は厳に禁じられているはずだ」

​「それが、施設側の裁量で、地元の小さな演劇学校のオーディションに応募したようです。規模は小さいですが、指導者の中に、かつて大物舞台監督だった松岡典雄という人物がいるそうで…」

​松岡典雄。翔太は知っていた。業界の裏側も表側も知る、手強い人間だ。

​翔太の胸に、底知れない不安が広がった。

​「即座に手を打て、高橋。施設に対し、二度とあの子を公の場に出さないよう、厳重に警告しろ。金はいくらでも出す。もし、彼女が成長し、我々の顔に似たままメディアに出てきたら、この16年間の隠蔽が全て無駄になる」

​翔太にとって、悠は感情を持つ娘ではない。彼女は、完璧な自分のキャリアを脅かす、発火性の高いスキャンダル爆弾なのだ。彼はその存在を、施設という安全な「格納庫」に閉じ込めておきたかった。

​彼は高橋に命令し終えると、再びグラスを手に取った。冷たい液体を喉に流し込む。

「ノイズだ。静かに、処理しろ」

彼は、自分の血を分けた娘が、自分と同じ才能を持ち始めたという事実に、微塵も感動しなかった。あるのは、計算と焦燥だけだった。

​白石 美咲:イメージ汚染の恐怖

​白石美咲は、そのニュースを夫よりも冷静に受け止めた。彼女は、翔太よりも早く、この世の全てが「イメージ」で構成されていることを知っていたからだ。

​「演劇学校、ね。あの子は、私たちの『汚点』を具現化したような顔をしている」

​美咲は、美容パックをしながら、鏡の中の自分に語りかけた。彼女にとって、悠の美貌は「才能」ではなく、リスクだった。自分たち二人の特徴を濃く受け継いだその顔が、もし世間に晒されれば、どんな名探偵でなくとも、その繋がりを疑うだろう。

​美咲は、すぐにマネージャーの森下梨花に指示を出した。

​「森下さん、施設に連絡を入れて。あの子が受けているのは、公的な学校ではない。あくまで『習い事』の範疇で収めさせなさい。そして、もしその松岡という人間が、あの子の才能を利用して私たちに近づこうとする気配を見せたら――」

​彼女は言葉を切り、静かにパックを剥がした。鏡に映る顔は、完璧な清純さを保っている。

​「その芽を、徹底的に摘みなさい。あの子が成功すれば、私たちの16年間の努力と秘密、そして何よりも私たちの**『夫婦の絆』のイメージ**が、一瞬で汚染される」

​美咲は、悠の才能を理解していた。だからこそ、その才能を恐れた。彼女が演劇の舞台に立てば立つほど、その存在は増幅し、いずれは自分たちの光を食い尽くすだろう。

​彼女の恐怖は、娘への嫉妬ではない。それは、自身が作り上げた完璧な虚像が、最も身近で、最も無垢な存在によって崩されることへの、根源的な恐怖だった。

​「あの子は、私たちが選ばなかった人生の、唯一の証拠品なのよ。それを、私たちの舞台に上げるなんて、許さない」

​美咲は、静かに、そして冷酷に、娘の芽を摘むための準備を進め始めた。彼らにとって、悠のオーディション合格は、未来の崩壊を告げる、小さな静かな、警鐘だった。

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