第4話
男は深夜のドライブをしていた。
アルバイトで貯めた金で買った中古の自動車は、実はまだローンが残っていたが、それでも彼は満足していた。
高校生の時から憧れていた車は、彼が大学生になった時にはとっくにマイナーチェンジをしていた。小さな違いではあったが、彼はマイナーチェンジ後の型がどうしても好きになれなかった。何より高校生の彼が一目惚れをした車体の色が新しいシリーズには無かったのである。
運転免許を取得した後も、こつこつと購入資金を貯めながら、根気よく同じ色の中古車を探した。欲しい車体の塗装は高いクラスに限定されていたということもあり、走行距離などの他の条件も考慮すると、なかなか思ったとおりの車には巡り会えなかった。やっと運命の出会いを果たしたのは一ヶ月ほど前のことである。
その車を迎えて以来、こうして深夜にドライブをすることが彼の習慣になった。
季節は初夏にさしかかる頃、空調を動かさなくても窓を開ければ快適である。自ずと彼は空気の綺麗な場所を求めて走ることが増えていた。
その夜、彼はエナガ水源地へと車を走らせた。
昼間と違い、池の水面を見下ろせる小高い駐車場には、他の車は一台もなかった。周囲は山と池しかない。駐車場から見下ろせるはずの池も遊歩道も、背後に車道を挟んだ山も、真っ黒な闇の塊であった。
駐車場だけは
――そろそろ彼女が欲しいな。
男は車を降り、昼間であれば池を見下ろせる柵に近づき、眼下の闇を眺めながら煙草に火をつけた。
念願の車は手に入った。その助手席に可愛い女の子が座れば完璧だ。
深く煙を吸って吐き出す。黒を背景にして白いもやが広がった。
目が慣れてくると、黒一色に見えていた景色に濃淡の揺らぎが見えてきた。池の水面はかすかな光を反射しているのか、うねうねと影が揺れているように見える。逆に遊歩道の闇は固まったように動かない。
しばらく眺めていると、遊歩道のある位置に、突然ふわりと白く細いものが現れた。
一瞬ギョッとしたが、すぐに遊歩道の近くに藤棚があったことを思い出す。藤棚の下にあったものであれば、上から見ている自分には今まで見えていなかったのだろう。
彼は咥えていた煙草を指で挟んで持ち、柵から身を乗り出すようにして下方を凝視した。
白い何かはゆっくりと遊歩道に出てきた。
どうやら人間だ。白い服、それも丈の長いシャツかワンピースのようなものを着ている人間だと気付いた。遠目にも
相手がこちらを見上げた。
表情は全く見えないが、ぼんやりと白い円形が動いたことで、それがわかった。
「あのー、そこにいて大丈夫ですか?」男は少し迷ってから、大声で呼びかけた。「誰か一緒?」
ゆらゆらと相手の顔が左右に揺れる。一人ということらしい。
「大丈夫?」
男はもう一度大声で尋ねた。声が周囲の闇に吸い込まれるような奇妙な感覚がして、なぜか少し焦る。
「えーっと、そこに階段があるけど、上がって来れますか?」
こんな時間に、こんな場所に女性が一人ということが気にはなったが、暗い遊歩道に降りて行く気にはなれなかったので、男は自分の左手側に腕を伸ばして示した。
女は顔を下ろして彼の示した方を見ると、そちらに移動し始めた。
男は意思疎通ができたことに少し安堵し、携帯灰皿を出して煙草を押しつけた。
しばらくして、階段を上がってきた女は男が思っていたよりも幼い容姿をしていた。可愛らしい顔をしているが化粧っ気がまるで無い。高校生か、もしかしたら中学生くらいの年齢の可能性もある。それはそれで面倒なことになったら嫌だな、と男は思った。
そこそこ長い階段を上ってきたはずなのに、女には息を切らせている様子も疲れている様子もなかった。白いワンピースの裾からは白い足が伸びている。その足は裸足であった。
相手にきちんと足があることに安心したが、裸足というのはただならぬ事情を想像させる。
「……こんなとこで何してたの?」
男は相手の警戒心を刺激しないよう、軽い調子で尋ねた。
「帰れないの」
女は小さな声で答える。消え入りそうな声だった。
「帰れないって、一緒に来た人とかいないの? 彼氏とか家族とかさ。置いてかれちゃったわけ? スマホも持ってないの?」
女は黙って首を横に振った。
男は内心うんざりする。これは間違いなく面倒なことになった。
痴話喧嘩か虐待か、理由はわからないが、きっとこの女はここに置き去りにされて、こんな時間になるまで途方に暮れていたのだろう。
しかし、ここで女を見捨てることができるほど、男は不人情でもなかった。
「靴はどうしたの? なくしたの?」
「わからない……」
「とにかくさ、こんなに暗くっちゃ靴も探せないでしょ。街まで送ってあげるよ」
警察を呼ぶという選択肢もあったが、そうなると自分も色々と話を聞かれることになる。せっかくの週末が台無しだ。
男が車のドアを開けて促すと、女はすんなりと助手席に座る。特におびえたり警戒する様子もない。あまりに無防備で少々薄気味悪いほどだった。
エンジンをかけ、駐車場を後にして山道を走り出す。
「どこに降ろしてほしい? 家の
女は答えない。
運転をしつつ、男は横目で助手席を見た。通り過ぎた街頭の光に照らされて、一瞬、暗い車内で女の黒髪が光った。それが濡れているようにも見えたが、男はすぐに前方に集中した。
「言いたくないならさ」少し声が大きくなる。「ここの坂を下った先にコンビニがあるから、そこに降ろすんでいいよね?」
車内には香り付きの消臭剤を置いていたが、その人工的な香りに混じって山の中のような湿った泥の臭いがした。
横を確認したかったが、大きなカーブが目前に迫っており、男は前方を注視していなければならなかった。カーブの先はトンネルになっており、そこを抜ければコンビニはもうすぐだ。
カーブを曲がりきり、オレンジ色の半円が口を開けているのが見えた。
トンネルの中は直線だ。
トンネルに入り、男は再び助手席を女の様子をちらりと見た。
助手席に座る女の髪からポタリと水が滴り落ちた。強い泥の臭いが鼻を突く。
「帰れないの」
「君……」
助手席の窓。オレンジ色に染まったトンネルの壁が見えているが、そこに浮かび上がるはずの女の姿は写っていなかった。
急ブレーキの音がトンネルの中に反響する。
同時に車がトンネルの出口から外に飛び出した。車体が反転し、前後が逆になって停車する。トンネルの壁に衝突しなかったことも、他に走っている車がなかったことも幸運だった。
男が思わず
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