第2話

 四コマ目の講義が終わった午後四時半頃。

 芽依子は歩美に頼まれた伝言のため、理学部から工学部に向かって自転車を漕いでいた。

 理学部から工学部までは大学のキャンパスをほぼ縦断しなければならない。

 本部棟の横を通り、キャンパスの中にある池の横を通り抜ける。

 三分の一ほどが蓮の葉で覆われている池は褐色に濁って、通路の反対側にある松の木が映っていた。

 他の学生にぶつからないよう注意しつつ、芽依子は池からなるべく離れた場所を自転車でゆっくりと走った。


――見るな。

――見ちゃいけない。


 水辺には忌避感がある。


 曾祖父そうそふが亡くなった時、芽依子は三歳だった。

 当然、その時の記憶はない。


 記憶があるのは曾祖父の三回忌からだ。

 就学前だった芽依子の朧気おぼろげな記憶の中に、その人は初めて現れる。

 その人は子供ではなかった。

 今思えば、青年と呼べる年頃であったろうその人は、当時の芽依子にとっては「若い大人」であった。

 若い大人、という表現は奇妙であるが、幼い芽依子にはそうとしか表現できなかった。

 その人は、まだ幼かった当時の芽依子には大人の男性に見えたが、それでも父親や他の親戚と比べるととても若かったのである。


――ただすけお兄ちゃん。


 彼をそう呼んでいた記憶はある。

 芽依子の記憶の中の彼には色彩が無い。

 白と黒。

 日に焼けない体質なのか肌が白くて、仏事用の黒いスーツにとてもよく映えていた。

 唯一、横から光が当たった時にだけ、普段は黒色に見えている瞳が濃い藍色のビー玉のようにきらめく瞬間があり、芽依子はその不思議な目を何度でも見たがった。

 デパートのお洋服屋さんに置いてあるお人形マネキンのような人だと思ったし、それまで芽依子が見たどの男の人よりも綺麗だと思った。

 ただ、芽依子の母親は彼に好意的ではなかった様子であった。幼い芽依子が彼を追って構ってもらおうとするのを、さりげなく遠ざけられた記憶がある。

 そもそも曾祖父というのは父親の血筋の人であり、当然「ただすけお兄ちゃん」も父親の親戚の誰かであったのだろう。配偶者の祖父の法要でしか会う機会のない人物など他人も同然である。だから母親の反応も仕方がないことだったのかもしれない。


 曾祖父の七回忌。

 芽依子は小学三年生になっていた。

 断片的な記憶しか無いが、それでも何年かぶりに「ただすけお兄ちゃん」に会えることが嬉しくて、その日は朝からそわそわしていたことを覚えている。

 法事の読経が終わり、典型的な古い日本家屋の中で「ただすけお兄ちゃん」の姿を探した。

 曾祖父が亡くなった後、平屋建ての古い日本家屋には曾祖母が独りで暮らしていた。その日は法事のため、仏間と座敷の間のふすまを取り払い、一つの大きな広間にしてあった。

 あちこちで小さな輪を作って座り談笑する大人達の小山のような黒い背中の間をくるくると移動しながら、芽依子は気付けば薄暗い廊下に立っていた。

 遠くから父親や叔父達の笑い声が聞こえて、廊下の突き当たりからは母親や叔母達のお喋りが鼠の鳴き声みたいに小さく聞こえていた。

 芽依子は大人達の声に背中を向けた。

 古く薄暗い家の中、ぼんやりとした光を反射して黒光りする柱や廊下を通り抜けて、いつの間にか裏縁に出ていた。

 北向きの湿った小さな庭には、苔むした庭石や気味の悪い渦巻き状の葉っぱをした羊歯シダが植えられていて、そこで遊ぶ気にはなれかった。

 その時、芽依子は小さな庭を囲う黒い木の柵の向こうに、探していた姿を見つけた。そこは家の脇を通り抜ける細い道だった。

 田舎である曾祖父の家の周囲には他の家屋はなく、道は裏の山へと続いている。大人の男の人達と同じ黒いスーツに包まれた痩せた後ろ姿は、見つけた瞬間に笹藪の向こうに見えなくなった。

 芽依子は沓脱くつぬいしの上に揃えてあったサンダルを履いて、後を追いかけた。大人用のサンダルは歩きにくかったが、正面の玄関まで回る時間が惜しかったのだ。

 黒い柵に作られた粗末な木戸を開け、枯れた笹の葉で滑る細い坂道を登った。


 記憶はそこで途切れている。


 次の記憶は、くしゃくしゃに歪んだ母親の泣き顔である。

 自分の体がひどく冷たくて、法事のために着てきたよそ行きの服も整えた髪もずぶ濡れで、枯れ葉や水草があちこちに付着していた。

 自分を囲む大人達の向こうに、青褪あおざめて頭を抱えてしゃがみこんでいる「彼」が見えた。



――だから嫌だったの。あの子、前から気味が悪かったわ。


 帰りの車の中で母親が父親を責めていた。


――忠輔は芽依子を助けてくれたんだろう。

――見つけたのが忠輔じゃなかったら間に合わなかったかもしれない。


――そんなこと、わからないじゃない。

――あの子が芽依子に危害を加えようとしたところに、私達が間に合ったんじゃないの?

――だって、不自然過ぎるでしょう。

――どうして法事を抜け出して、あの子と芽依子はあんなところにいたの。


 父親は何かを反論していたが、母親はついに納得しなかったようだった。


 その後、芽依子は曾祖父の家に行くことはなくなった。


 曾祖母が亡くなった時は父親だけが葬儀に出席した。

 後で聞いた話だが、芽依子が知る曾祖母は曾祖父の後妻で、芽依子とも芽依子の父親とも血の繋がりはないのだそうだ。芽依子の祖母は七人兄弟の長子であり、時代的なことを考えても兄弟が多かったのだが、実は兄弟の下二人は後妻の子供であるという話だ。


 芽依子が「彼」を追いかけた後、何があったのか芽依子は覚えていない。


 ただ、それ以来、芽依子は水が怖くなった。


 プールの授業は母親が学校に事情を説明し、免除されることになった。芽依子は私立の中高一貫の女子校を受験し、地元の中学校には通わなかった。そこは高校ではプールの授業がなく、おかげで芽依子はあまり気にすることなく今まで過ごすことができたのだ。


――無理に思い出さなくていい。


 父親も母親も、芽依子にはそうやって接してくれた。

 芽依子もそれでいいと思う。

 見なければ、ないのと同じ。

 ただすけお兄ちゃんには、それ以降、一度も会えていない。


 芽依子は工学部の手前の下り坂で、自転車に軽くブレーキをかけた。


「いっけない、ボーッとしてた」


 池や大きな川などを見ると、時々こうやって思い出し、ぼんやりしてしまうことがある。これも逃避の一部なのだろうか。


 曾祖父の七回忌で芽依子は溺れかかった。

 そのせいなのか芽依子は大学生となった今でも水辺が苦手だ。

 詳細な記憶はないが、それが原因であることはきっと間違いないのだろうと芽依子も思っていた。

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