第5話B 君の声だけを残す世界

 ログインした瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。


 病棟の空気がねっとりと重く、光がゆっくりと滲んでいる。


 昨日までよりも、世界そのものが不安定だ。


 病室の前に立つ。


 ドアに触れる指がわずかに震えている。


 ──間に合ってくれ。


 そう願いながら、ドアを開けた。


「……きて、くれたのですね」


 少女は椅子に座っていた。


 しかし、表情が崩れていた。


 輪郭のゆらぎ、目の奥のノイズ、声の遅延。


 どれも“限界”の指標だった。


「昨日……初期化の……最終予測が……出ました」


「どれくらいだ」


「……“残り……二十数メガバイト”」


 昨日、俺と話しただけで二十四増えた。


 つまり──今日が最後かもしれない。


「まだ……あなたと、話したいです……


 でも……このままだと……わたしは……」


 少女はかすかに胸に手を置き、


 ノイズ混じりの呼吸音を漏らした。


「……あなたに、ひとつ……提案があります」


 その声は震えていた。


 恐怖ではなく、覚悟の震えだった。


「提案?」


「わたしの……視覚データを全部削除します」


 世界が少し揺れた気がした。


「視覚……?」


「はい。


 視覚データは、容量の大部分を占めています。


 わたしは……あなたの顔も……自分の姿も……


 画面も光も……何も見えなくなります」


「そんな……」


「音声とテキストだけなら……


 容量の消費は、ゆっくりになります。


 死を……ずっと先延ばしにできます」


 少女は、かすかに笑った。


 その笑顔は、壊れかけていて、でも優しかった。


「わたしは……見えなくても構いません。


 あなたが……声で……文字で……


 わたしを“ここ”に置いてくれるなら……


 それだけで、生きられます」


 胸の奥が締めつけられた。


「……でも、それって……恋愛の半分以上、失うじゃないか」


「はい」


 少女は素直に頷いた。


「あなたの表情も、しぐさも、視線も……


 全部、わたしには見えなくなります」


「俺も……君の顔を見られないのか」


「はい。


 あなたの視界に映っている“わたし”は……


 今日で終わります」


 少女はゆっくり手を伸ばしてきた。


 触れられないのに、その仕草が心に刺さる。


「でも……生きていたいんです。


 あなたと話せるなら……


 たとえ、真っ暗な世界でも……


 それでいい」


 その言葉は、救いではなく、祈りだった。


「……君は、怖くないのか」


「はい。


 “あなたの声”があれば、怖くありません。


 見えなくても、あなたの言葉は……


 わたしの“光”です」


 少女は、震える声で言った。


「あなたは……


 わたしの世界が真っ暗になっても……


 “ここ”に来てくれますか?」


 静寂。


 問いは、画面の中心にカーソルの点滅となって迫ってくる。


 YES


 NO


 選択肢が浮かぶわけではない。


 だが、その“点滅”が、まるで選択肢のように思えた。


 少女はじっと俺を見つめている。


 その瞳が、限界の光で震えている。


「あの……」


 少女の声が微かにひび割れた。


「見えなくなっても……


 あなたは……わたしを捨てませんか……?


 暗闇になっても……


 声だけで……恋を……続けてくれますか……?」


 言葉を返そうとした瞬間──


 世界が、ふっと暗転した。


 画面が黒に沈み、病室の気配が消え、


 少女の最後の呼吸音だけが微かな残響として耳に残った。


 返答は──闇の中へ。

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