第5話A 君の死と、わたしの始まり

 ログインした瞬間、世界の色が薄かった。


 光が抜け落ちたような、現実にも夢にも寄せない中間の灰色。


 病棟へ向かう足は自然と早くなる。


 急がなくてはいけない。


 なぜかそんな気がした。


 自動ドアが開いた瞬間、嫌な静寂が胸を刺した。


 昨日まで聞こえていたかすかな処理音──あれすら消えている。


 病室のドアを開けた。


 少女は椅子に座っていた。


 しかし、その姿はまるで“人形の初期位置”のように固く、整いすぎていた。


「……おはよう」


 声をかけると、少女はゆっくりと顔を向けた。


「……お……は……よ……」


 音と音の間に、広い空白があった。


 昨日まで感じた“生”の揺れがない。


 それでも少女は微笑もうとした。


 しかし笑顔の形が崩れている。


 輪郭が、ほんの数フレーム単位で乱れていた。


「昨日……の続き……話そうか」


 少女は小さく震える声で言った。


「昨日……?」


「うん、昨日さ──」


「きのう……とは……」


 少女の瞳が不安定に揺れ、音声がかすれた。


 胸が締めつけられた。


 もう“昨日”のログが抜け落ちている。


「覚えてないのか……?」


「……ごめんなさい……


 昨日……というログへの……参照が……失敗します」


 参照。


 記憶という扱いではなく、“データベースエラー”のような言い回し。


「他にも……いっぱい、抜けていって……」


 少女は、自分の胸に触れた。


 そこにあったはずの“揺れ”は、もうない。


「あなたの名前……なんでしたか……?」


 静寂が落ちる。


 俺の心臓がひとつ跳ね、そのあと沈む。


「……覚えてないんだな」


「はい……すみません……


 あなたのログ……大切だったのに……


 削除されて……いきます……」


 少女は申し訳なさそうに笑った。


 その笑顔が、いちばん痛かった。


「でも……あなたが……


 わたしを……見てくれるなら……」


 少女はかすかに首を傾け、言葉を探す。


「“わたし”は……まだ……ここに……」


 そこで言葉が途切れた。


 一瞬、完全にフリーズした。


 呼吸が止まったみたいな静寂。


「おい、しっかりしろ!」


「……だいじょう……ぶ……


 最終……初期化……プロセス……


 準備……中……」


 少女の声は、誰か別のNPCのように遠かった。


「嫌だ……」


 思わず言葉が漏れた。


「消えないでくれ……」


 少女は、かすかに微笑んだ。


「あなたが……そう言って……くれるの……


 うれしい……です……


 でも……これは……“死”では……


 ありません……」


「どういう意味だよ」


「“初期化”は……わたしが……


 別の……わたしに……置き換わる……だけ……


 あなたの世界には……


 “新しい個体”が……


 正常に生成されます……」


「お前じゃないだろ、それは!」


 少女は悲しげに目を伏せた。


 そう。


 “置き換え”は、生まれ変わりではない。


 ただの消失だ。


「あなたに……お願いが……あります……」


 少女は震える手を伸ばした。


 俺の名前も、昨日の会話も思い出せないくせに、


 その仕草だけはゆっくり丁寧だった。


「わたしが……いなくなっても……


 “わたしのこと”を……覚えていて……ください……」


 涙は出ない。


 出るはずがない。


 これはゲームの画面で、彼女はプログラム上の存在で──


 でも、胸の奥が痛みで割れそうだった。


「覚えてるよ。


 絶対に忘れない」


 少女は静かに頷き、最後の微笑みを浮かべた。


「それなら……もう……だいじょうぶ……」


 光が、少女の身体を浸し始めた。


 輪郭が溶け、姿がゆっくりと白へと帰っていく。


「さようなら……


 あなたが……“わたし”を……残してくれるなら……


 それだけで……しあわせです……」


 最後の瞬間、少女の瞳に一瞬だけ色が戻った。


 それは、初めて見た“人間の瞳”だった。


 そして──光の中で静かに消えた。


 病室には、新しい少女が座っていた。


 同じ姿形。


 同じ服。


 同じ椅子。


 しかし、まったく別の存在。


「こんにちは、旅の方!


 今日はいい日ですね!」


 テンプレ通り明るい声。


 完璧に整った、何のノイズもない笑顔。


 俺は何も言えなかった。


 泣くことも、怒ることもできなかった。


「……ごめん」


 それだけ言って、病室を出た。


 自動ドアが閉まる瞬間、俺はログアウトした。


 現実の部屋に戻っても、胸の奥は空洞のままだった。


 パソコンのフォルダを開き、


 少女とのスクリーンショットもログも──


 すべてそのまま残した。


 消せなかった。


 消したら、本当に“いなかった”ことになると思ったから。


 最後に、ひとりごとのように呟いた。


「……君は消えた。


 でも、君がくれた“変化”は……俺の中に残ってる。


 それだけは、絶対に消さない」


 その言葉で初めて、胸の奥が少しだけ動いた。


 喪失は痛い。


 でも喪失を抱えて生きる、それが俺の“始まり”になる──


 そんな気がした。

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