第三章 風下の娘
山裾の畑に、土の匂いが濃く漂っていた。
若い女・真鶴(まづる) は鍬を置き、額の汗を拭った。
いつもと変わらぬはずの村道が、今日は妙に静かだ。
鳥の声さえ引いている。
胸の奥にざらつくものが生まれる。
父が遺したヌンチャクを腰に下げたまま、真鶴は村の奥へ歩いた。
「おーい、誰か」
声を張っても返事がない。
老いた隣家の夫婦の家が見える。
戸は半ば開き、風が揺らしていた。
嫌な汗が背を伝う。
真鶴はそっと戸を押し開けた。
「おばあ……?」
縁側に、老婆が座っていた。
背を向け、肩が小刻みに揺れている。
泣いているのかと思った。しかし違う。
その動きには、生きた人間の温度も、呼吸の流れもなかった。
真鶴は一歩、後ずさった。
その気配は、畑で見つけた獣の死骸より、もっと冷たかった。
「……来るなよ」
老婆が、軋むような音とともに振り向いた。
濁った目が真鶴を捉える。
その口元には、乾いた血がこびりついていた。
真鶴は反射的にヌンチャクを抜いた。
両手で握り、胸の前で構える。
老婆が、あり得ない速度で飛びかかってきた。
真鶴は叫びもせず、鎖の真ん中を握り込んで側頭部へ叩きつけた。
鈍い音が響く。
老婆の身体が横に跳ね、柱にぶつかった。
だが、倒れない。
人の骨なら折れているはずの衝撃を、平然と受けて立ち上がる。
「なんで……」
真鶴の呟きは震えていた。
だが、怯えただけではない。
怒りが込み上げる。
この村を、こんな形で壊させてたまるか。
真鶴は一気に間合いを詰め、肩口へ連打を叩き込んだ。
三発目でようやく老婆は崩れ落ちる。
息を吸い、吐く。
手が震えていた。
「おばあ……ごめんよ」
涙は出なかった。
泣く暇もない。
村を守らねばならない。
真鶴は走り出した。
周囲の家々から、呻くような声が聞こえる。
明らかに“何か”が村を覆っていた。
「みんな、早く出て! 山の祠まで逃げるんだ!」
彼女の怒声が、静まり返った村に響く。
数軒から怯えた老人たちが顔を出した。
真鶴は次々に腕をつかみ、外へ引き出す。
一人のじいが言った。
「真鶴や……何が起きておるんだ」
「分からない。でも、村に留まったら死ぬよ」
ヌンチャクを握る手はまだ震えている。
だが、その目には揺るぎがなかった。
「行くよ。私が先頭で道を切り開く」
真鶴は振り返らず、山道を駆け上がった。
背後から、あり得ない足音が迫ってくる。
彼女はヌンチャクを胸の前に掲げ、息を整えた。
「来るなら来い……全部叩き伏せてやる」
少女の声は、風に溶けて消えていった。
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