第二章 海鳴りの家
夕刻、安仁屋徳次郎(あにや とくじろう) は漁から戻ってきた。
浜に吹く風は湿っていたが、海は荒れていない。
それでも、胸の底に沈む小石のような違和感だけは、朝からずっと消えていなかった。
家の前に立つと、戸がわずかに開いている。
妻のウシは几帳面な女だった。
こんな形で戸を放ることは、あり得ない。
「……戻ったぞ」
返事はなかった。
徳次郎はわずかな不安を押さえ込み、戸を押し開けた。
薄闇の室内に、二つの影があった。
ウシと、息子の真也だ。
だが、背中を丸め、壁につかまり、首だけがぎこちなくこちらを向いている。
「どうした。具合が悪いのか」
声は震えた。
二人は返事もなく、音も立てずに近づいてくる。
足取りはふらつき、呼吸の音すらしない。
嫌な汗が背中を流れた。
「おい、ウシ……真也……聞こえてるか」
肩に触れようと手を伸ばした。
その瞬間、真也の小さな体が跳ねるように胸へ飛びつき、幼い歯が徳次郎の肩に喰い込んだ。
「――っ!」
痛みより、心の底が崩れ落ちる方が先だった。
ウシの腕も無言で伸び、徳次郎の腕に噛みつこうとしてくる。
「やめろ……やめてくれ……!」
振り払った二人は畳に転げたが、倒れたままではいなかった。
妙な動きで再び立ち上がり、また手を伸ばしてくる。
そこに、妻の面影も、息子の声もなかった。
ただ、生気の抜け落ちた肉の動きだけがあった。
「……ウシ。真也。戻ってきてくれ」
徳次郎は呟いた。
返事はなく、二人はまた近づく。
その姿が、胸の奥で何かを断ち切った。
徳次郎は壁際に立てかけてあったエークを手に取った。
海の男の相棒だ。
それを家族に向ける日が来るなど、夢にも思わなかった。
「すまんな……」
声が震えた。
二人が伸ばした腕を払い、床へ叩きつける。
骨の折れる鈍い音が続き、やがて室内が静まり返った。
徳次郎はしばらく動けなかった。
エークを握る手が血で濡れ、肩の傷口から温かいものが垂れていく。
畳に横たわるウシと真也の身体は、もう息をしていない。
さっきまで共に暮らしていた家族の気配は、どこにも残っていなかった。
徳次郎は膝をつき、嗚咽をこらえきれなかった。
涙が落ち、畳に黒い染みを作る。
「なんで……なんでこうなった……」
答えはない。
海鳴りだけが外から聞こえる。
その音に混じって、遠くで誰かの叫び声も響いた。
徳次郎は立ち上がる。
エークを握り直し、血の跡を辿るように外へ向かった。
島全体が何かに呑まれはじめている――
その確信が、胸の痛みより先に、徳次郎の背を押していた。
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