第四話 護田満夫 その2


 夜の九時を回った頃から雪がちらつき始め、十一時を過ぎると吹雪に近い状態になっていた。

 エアコンの温度設定は二十八度にしてあるのに、どうしようもない冷えを感じる。座布団を三枚重ねて、せめてもの暖を取っても、文字通りの子供だましでしかない。底冷えに震えながら、棚田は机に向かっていた。

 机の上で広げているのは、書き込みを入れた、例の河間町の地図である。

 輪中は東西に細長い楕円形状をしている、いわゆる、ひょうたん型である。この中が五つに分かたれ、瀬古、つまり班を形成しているのだが、だいたいの境界線を聞いてきておいたので、ビデオを再生させながら赤鉛筆でラインを引っ張ってみたのである。蒔蔵に教えて貰った、堤防外の大軒と下田も書き込んであるので、これでかなり町内の区分けが判別出来るようになった筈である。

 家屋密集地を五つに分けて、清水屋敷、東海、西加、南興、北裏、となる。清水屋敷が中央区にあたる。それ以外は、名が示すとおりに大ざっぱに東西南北に区別されている。

 ほぼ均等に六十戸ほどの集団だが、清水屋敷は面積が狭いが戸数が多く、逆に東海が最も広いが戸数は少ない。これは、東のほうには田が迫ってきており、その田の中の小石のように家が点在しているからだろう。

 ――そう言えば、土井教授の事前調査記録によると近年に宮田家が断絶したとあったけど、どこの地区にあったのかな?

 地図の上に指を滑らせながら、棚田はぽつりと呟いた。

「家名断絶、か……」

 身につまされる話ではあった。

 棚田も、一人っ子の跡取り息子だからだ。

 院に進学すると心を決めた大学三年のあたりから、帰省のたびに年老いた祖父母から、大学の更に上なんぞに行っては結婚出来なくなってしまう、このさい出来婚でもいい、すぐ離婚になってもいいからとにかく結婚だけはしてくれ、などと涙ながらにせっつかれるようになりだした。

 そもそも時代が違う、大学在学中に結婚とかする方が無責任だと言ったって祖父母には通用しない。田舎では、時間の流れも事情も、何もかもが違うのだった。

「大卒で就職した友人だって、まだまだ遊びほうけているのにな」

 何回目かのビデオの再生中、耳慣れぬ低いモーター音が聞こえてきた。無遠慮に近づいてくるそれは、軽トラックのエンジン音だった。

 携帯電話のボタンを押して時刻を表示させる。機械音とともに携帯に01:24という表示が出た。

「うわっ!?」

 とっくに日付が変わっていた。

 ――集中していて気がつかなかったな。

 よくあることではあるが、棚田は自分の迂闊さを少々恥じながら立ち上がった。

 どぉん……、どぉん……、どぉん……

 低いうなり声のような太鼓の音も遅れて響いてきた。

 太鼓の音は一定の間隔で鳴らされており、更に近づいてきている。

 それはまるで、年末のスペシャル時代劇の定番である赤穂浪士が討ち入りの際にならしていた陣触れ太鼓のようで、日本人であれば、訳も分からず胸に迫る何かに勝手に感動して無性に心が乱されてしまう、あれである。

 ――東側から聞こえてくる、ということは、南まわりの道を使っているのかな。

 南まわりの道を使ってここまで来るとなると、かなりの大回りになる。しかし、全戸に触れ回るというたてまえである以上は、仕方ない道順なのだろう。

 ビデオカメラの中では、竹を組んでいる最中だった。左義長は村全体で執り行うが、その中で更に五つの瀬古それぞれに持ち回りで細かな役目を仕切る決まりがあり、それを毎年ずらしているのだと言っていた。

 今年の左義長の大役は東海瀬古の持ち分なので、瀬古代表のお歴々以外の人はその地区の住まい、ということになる。

 時折、画面の中を横切っていく、自分より幾つか年長の例の格好が良い若手男性は有志で参加しているのだろうな、と棚田はふんだ。どこでも、やる気のある若手のこうした活動は見られるものだ。

 古い因果が今なお色濃く生きており、しがらみが強く若手が育たない土壌らしき河間町ではあるが、こうして図太く生える雑草のように、新しい芽も確実に育とうとしている。

 幾多の戦乱や時代を乗り越えた人々が、この土地を愛し生きぬく覚悟を持っていた土地柄だからこそ、途絶えようとしても復活しようとする土壌があるのだろう。

 それを思うと、故郷を飛び出したままの自分が、幾分、いやかなり、恥ずかしい存在に思えて棚田はたまらなくなってきた。

 無意識のため息をつきながらビデオカメラをとめ、HDDに残された撮影時間のチェックをし、受電をフルに行ったバッテリーと交換し予備もデイパックに入れた。ひなからもらった携帯カイロをもう一度もみほぐしながらコートのポケットにつっこみ、そこで、ようやく気がついた。

「えっ!」

 ――な、ない!?

 ボイスレコーダーが何処にもない。暖まっていた体が、さっと冷たくなっていく。

 コートのポケットをもう一度まさぐってみるが、ボイスレコーダーは影も形もない。

「えっ、ど、どこにやっちゃったんだろう?」

 床の上をはいずり回り、座布団を振り回し、布団のシーツをはぎ、脱いだ服をひっくり返し、まさにあちらこちらを探ってみたが見当たらない。ついにはカバンを逆さまにして、中身を床にぶちまけた。

 それでも、ボイスレコーダーは見つからなかった。

「一体どこに」

 考えられるとしたら、夕方の取材の時、境内に落としてしまった。それしか、ないだろう。

 ――探し出さないと。

 手荒く荷物を入れ直した棚田は玄関先に走り、キーボックスから鍵を取り出した。

 気が焦っているせいか、指がかじかみ始めているせいか、その両方なのか、上手く鍵がかからない。何度目かのチャレンジでやっと施錠し終えると、みくに教えらた場所に鍵をぶち込んだ。

 そして、腕を組んで強風から身体をガードしつつ足踏みして寒さをやり過ごしながら、軽トラックがこちらに近付いてくるのを待つ。

 ――ああ、どうしよう、しまったなあ。ちょっとでも早く神社に行って、ボイスレコーダーを探して回りたいのに。

 境内にあるならまだ良いが、ひなと一緒に河間を見ているときに落として、そのまま『ポチャン』とやらかしてなどしたら、完全にアウトである。その最悪の事態だけは避けてくれているようにと、曇天に祈りながら、棚田は知らぬ間に貧乏ゆすりをし始めていた。

 身体をゆすると、デイパックが背中でこすれて少し暖かい。はぁっ、はぁっ、と白い息を吐き出しながら、もやのようになっている雪の奥から、軽トラックの丸い灯りが迫ってくるのを見つけると何故か、ほっ、とした。

 動転していても取材開始は、ほぼ本能的に行ってしまうらしく、棚田は、自分でも気がつかぬうちにビデオカメラのスイッチを入れ、丸い灯りに向けていた。

 しめやかに降り積もっている雪に太鼓の音は吸収されることなく、周囲の空気を揺らし、響いている。

 やがて軽トラックが目視できるまで近づいてきた。

 荷台に、棚田と同じ年頃の二人の青年がいる。一人が片膝をついて太鼓を叩いていた。音からの想像どおり、直径は二十センチほどの太鼓だ。

 もう一人は自分の体を盾にして、太鼓を叩く青年に雪がかぶらないよう、カッパで覆うようにして立っている。

 荷台の二人にカメラを向けて、「ご苦労さまです」と声をかける。太鼓を叩いているのは、あの、独特のお囃子をしながら回っていた青年だった。

「お? 学者先生、もしかして徹夜する気か?」

 青年が驚いた声をあげると、太鼓の音までもが裏返ったのには、棚田も苦笑した。しかし、誰から自分の情報を聞いているのか、バレバレである。

「はい、せっかくですので、お粥占いまでしっかり取材させていただこうかと」

「そうか、じゃ、乗っていくか?」

 カッパを広げて持っていた青年が、運転席にむかって「おぅい、停まってくれよ、おっちゃん」 と声をかける。

 悲鳴を上げるように車体をふるわせて、軽トラックは駐車場の前の水たまりに停車した。

「あ、鍵は?」

「大丈夫です、みくさんに教えて貰いましたから」

「おう、そうか」

 手を差しだしてくれたカッパの青年に引きずりあげてもらうと同時に、軽トラックは唸り声を上げて発進、Uターンをした。どうやらもう、村の中に戻るつもりらしい。

「鍵、かけにくかっただろ?」

「はい、みくさんみたいには、なかなか上手くできなかったです」

「あっはは、あれは特別だよ。みくより上手く施錠できる奴はおらんから」

 カッパの青年が笑った。裏表がない人好きのする、いわゆる、眩しい笑顔というやつである。

 荷台には、休憩用とおぼしき簀の子の椅子が置いてあった。カッパの青年は、薄く積もった雪を手で払うと、棚田に座るようにすすめてくれた。かなりバランス感覚を要求されるが、それでも荷台に直座りするよりは良い。棚田は素直に、好意に従った。

「トラックの運ちゃんをやってくれとるんはな、木田文徳ふみのりさんや、瀬古は東海。おじっさらには、ふみは、て呼ばれとるけどな」

 棚田の方にちらりと視線を向けて、軽く会釈しつつ笑ってみせた木田は六十歳を幾つか越えた頃だろうか、角刈りにした頭は白髪が多く、まだら髪であるが全く染めずにおり、逆に潔い。

「陣太鼓叩いとるんが、席田直倫なおみちなおちゃんて呼ばれとるよ。今年は年男だもんで、瀬古はちゃうけど、お触れのお太鼓叩く役をして貰っとるんや」

「素直の『直』に、倫理の『倫』って書くんや、ま、よろしくな」

「席田、というと清水屋敷の、席田和成さんの……?」

「おう、そうそう。今年の瀬古代表やらしてもろとるんは、俺の親父や」

「すごいな、学者先生、よう覚えてきたなあ」

 目を瞬かせながら、直ちゃん、と呼ばれた青年は吹雪などに負けない白い歯を覗かせて笑った。屈んだ姿勢でもよく分かる、筋肉質で背が高い彼は明るい笑顔が実によく似合う。さぞや女性にモテるだろう、と棚田は勝手に凹んだ。

 一方、棚田を荷台にあげてくれた青年は、護田蒼生あおいと名乗った。この時、ひなを庇うように立っていた例の彼は蒼生だったのだと、雪明かりに照られた横顔の頬から顎にかけてのラインを見て、やっと棚田は気が付いた。あんな特徴的な、そのまま芸能界で通用するような美形など忘れられるものではないし直ぐに気が付く、と思っていたのだが、さすがに百均のカッパ姿だと、せっかくのノーブルな雰囲気も半減するようだ。

「くさかんむりの方のあお色の蒼に生きる、で、あおい、って読むんや。俺は東海瀬古や」

 本格的に吹雪の形相を見せだした空の下、棚田は雪明かりでまじまじと二人の青年を見比べた。

 直倫は歳男ということなら、みくよりも三~四歳年上だろう。そして直倫よりも十ほど若そうな蒼生は、逆算して自分より二~三歳上くらいだろうか。

 年齢をたずねてみると、実際、蒼生は棚田よりも三つ年上だった。つまり知り合った若者の年齢を順にあげると、今年三十六歳の直倫、アラサーのみく、二十七歳になる蒼生、そして春に大学院二年生となり二十四歳になる棚田、となるわけである。

 ――しかし年が近いといっても、僕とは真逆だな。

 何がと言うと、何もかもがである。

 本当に蒼生には、田舎には似つかわしくない存在感というか、麗しいオーラがあるのだ。

 全てにおいて、貴族的な高貴さがある。

 直倫も育ちの良さを随所に感じさせるが、蒼生のそれは出会った瞬間に感じ取れる程のもので、一線を画すのである。唯一、彼のかもし出すオーラに当てはまらないといえば、みくのように時折でるものではなく、常に口に出る濃い方言だろうか。

 それだって魅力の一部としてうつるのだから、美形は得である。勝敗の問題では無いのに、敗北感に打ちのめされながら棚田はぼんやり思った。

 陣太鼓を叩きながら、直倫はデンタルガムかなにかのCMにそのまま使えそうな、白い歯をキラリとさせた笑顔をみせた。

「いやいや、蒼生はたいしたもんなんやで?」

「直ちゃん、何や、こんな時に」

「蒼生は子供の時に親御さんの仕事の都合で一度、むらを出てったんや。けどな、大学卒業してから爺ちゃんの家を継ぐ、って、こっち戻ってきて住んでくれとるんや――なあ?」

 どぉん……、

 陣太鼓が、鼓膜を揺るがす。

 蒼生はこそばゆそうな笑顔になり、「いやあ」と照れると、頬と鼻の頭をいっそう赤くした。

「俺の家というか、生きてく場所は、やっぱり、ここしかない。それだけなんやって」

 蒼生は、明るくきっぱりと答えた。

 これ以後、すっかり意気投合した荷台の上の三人は、運転手の文徳が、ちらちらと様子をうかがっているのに全く気がついていなかった。

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