第四話 護田満夫 その3
町内のうねっている細い道という道をくまなく隅々まで通って、ようやく八幡神社が見えるところにまで軽トラックがやって来られたのは、夜中の三時をとっくに回ったところだった。
体は完全に冷え切っている。頭を洗わないでおいたのは正解だった、と棚田はほっと息をついた。
「学者先生みたいに水を出すなり、雪かきするなりしといてくれると助かるんやがなあ」
文徳ののんびりした声に、さあでは取材を、と気合い充分に飛び出しかけた棚田は、膝裏を小突かれた気分だった。しかし、せっかく話しかけてくれたのに、無視するのは悪い。
「頼みにくいものなのでしょうか?」
「水道代、馬鹿にならんからな」
「あ、確かに。でも、除雪作業するよりは楽ですし、とか掛け合えないものなんですか?」
「言えとったら、こんなぼやきはせんて。ま、文句だけ達者なヤツはどこの世界にもおる、ちゅうこっちゃな」
軽トラックの運転席で、まだら髪をタバコの白い煙まみれにさせながら文徳がぼやいた。
天気予報のとおり、路面の凍結がはげしく、軽トラックは慎重に慎重を重ねて運転せねばならず、精神的な疲労感は半端ないだろうから、多少のぼやきは仕方ないだろう。
夜中では除雪車が入る事もないだろうし、たしかに『おふれさん』がまわるのだと分かっているのだから、各戸で多少の気づかいをしてくれても良さそうなものだが、事はそう簡単にはいかないのだろうな、と棚田もだいたい察しがついた。
それでなくとも、市の中心部から遠く外れている地区だ。
左義長の手伝いに数人、手伝いに出てはいるが若くても還暦前後のようである。瀬古の重鎮たちの年齢層を見、そしてみくの話と照合すると、この河間町はいわゆる『限界集落』に最も近い状態で、老夫婦や独居老人世帯に、あらかじめ雪対策を頼むのは気が引けるのは当然だろう。
運転手を務めている文徳も年金世代くらいである。もしも彼が子供世代と同居なり近所に住まわせているのであれば、こんな天候の日など代替わりしてもおかしくないのに現役で出張ってきているのだから、推して知るべしだ。
だが道程に時間がかかったおかげで、棚田は蒼生と直倫のプロフィールをあらかた知ることができていた。
直倫は、地元の工業高校から推薦で大学にいき、地元の銀行に勤めているらしい。工業系から銀行というのも不思議なかんじがするが、何とかいうプログラミング関係らしい。
直倫は、仔犬のように目をらんらんと輝かせて詳しく説明しようとしたが、棚田は丁重にお断りした。アナログ人間の肌が、話題についていけない、と察知したのである。
棚田のあからさまに嫌そうな態度に、直倫は残念そうにしてみせはしたが、直ぐに「これからよろしくな」と陣太鼓をたたきながら笑顔になった。あまり、こだわらないというか、怒りが持続しない
――ああ、この笑顔。
惹き込まれてしまう、いわゆる、男ぼれする魅力のある人柄のようだ。
――人好きがする、というか人に憎まれることがないんだろうな。
普通ならここで、わずかなりとも嫉妬に似た思いを抱かずにいられないのだろうが、それが微塵も湧かない。希有な人柄と言うべきだろう。
「直ちゃんはな、古くはこの河間町一、古い血筋なんやで?」
蒼生にこっそり耳打ちされて、棚田は頷いた。実に納得である。人の価値は出生だの血筋だの家柄だので決まるものではない。が、直倫に漂う何かは、有無を言わせず了解させてしまう、そんな不思議な力があるのだ。勝手に嫉妬して勝手に落ち込み勝手に苛ついて勝手に敵視してしまいそうになるが、そんな自分が馬鹿だと、これまた凹ませてしまう、麗しき出自というのは確かに存在するのである。
――取材に専念すべし、ってお告げかもな。
一方の蒼生の一家は、たしかに東海瀬古に地所をもっていたが、父親の満夫が三期十二年の市議から市内外の歴史のある中小企業の後援をうけて県政に打って出るにあたり、会社近くの駅付近のマンションを得て、河間町を出ていったのだという。
県議会に立候補するのであれば、いくら企業の後押しがあるとはいえ地元を大事にした方が良いに決まっているのだが、県議選の直前に妹と母とを続けて亡くしており、満夫としては村に残るのが居たたまれなかったのだろう、と蒼生は語った。
しかし、県議として多忙を極める満夫は帰りも遅く、まだ小学生の蒼生がさびしがらぬよう、結局、実家の両親を時折、呼び寄せて世話をさせた。こうして蒼生少年は中学卒業まで、この河間町の祖父母の手を借りて育った。
父親の満夫は、県議という重圧がかかる仕事を堅実に勤めあげていたのだが、どれほど仕事が忙しくとも祭りのときだけは時間をあけて河間町にもどり、瀬古の役目をになってきた。その満夫の足が遠のきだしたのは、彼が再婚を決心してからだった。
多忙を極める議員生活を続けるには、家の内外を万事そつなくこなす秘書役的な夫人の存在が現代でも必要だったのだ。
しかし再婚時、まだ中学生だった蒼生少年はこの後妻と衝突するようになった。継母は人柄の良い人ではあったが、やはり新婚夫婦の生々しさは、多感な年頃の時期にはきついものがあったのだと白状した。
高校卒業後、地元の国公立大学に在学中は通学の利便性からマンションにいたが、弟の誕生と、市内に就職が決まったのを機会に、遠くなるというのに祖父母宅に住まいをうつし、そこから会社へ通勤するようになった。
そして卒後ものの半年足らずの間に、孫が立派になった姿に安心したのか、まず祖母が、次に祖父が鬼籍にはいった。その際に、遺言でこの河間町の宅地や貯蓄など、祖父母の主だった財産は蒼生に譲られることになったのである。
相続税の手続きなどは父親と継母が率先してこなしてくれ、同時に、親子の間のわだかまりのようなものも氷解し始めた。物事は一度、融解したものを再び固めるのは難しいもので、継母と蒼生の関係も、めきめきと修復されていった。相続というのは、端から見るよりも壮大で過酷な戦場のようなものである。それを共に克服、いや共闘していくうちに、親子でなくとも家族なのだ、という一体感からの情が育つに至ったのである。
家族関係は良好な流れをなしつつあったのだが、満夫が再び、むらの行事に関与しだした事で状況はまた、一変した。
満夫と継母と夫婦仲に、亀裂が生じてしまったのである。最近は満夫がむらを訪れる度に、夫婦間の空気が冷え、ギスギスしたものになっていっているらしい。継母は蒼生の今の状態に理解してくれてはいるが、生活拠点をこの河間町に起き続けるのだけは難色を示しているのだという。
が、蒼生はきっぱりと言い切った。
「だけど俺は、この河間町にこの先も住むし、むらの何もかもに関わっていくつもりだ」
かと思うと、肩を落として萎れ、残念そうに零した。
「でもどうしても、この河間町が嫌いなんだよ、
――あっ……!
棚田はあやうく、頓狂な声を出すところだったが、既の所で手で口元を覆った。みくが言っていた、コミュニティセンターのリフォーム理由というのを思い出したのだ。
――もしかしなくても、蒼生さんの継母さんの事だったのかもしれない。
しかしそんなプライバシーに、ずけずけ踏み込んで良いとは思えない。どうして垂れてくる冷や汗に難儀しながら、棚田は頷くのがやっとだった。
「親父も昨日から手伝いに来てるよ。もう議員じゃないのに、議員先生ってよばれるのは面映ゆい、とかなんとか、ぼやいてたけどね」
言われて、棚田は反射的にカメラを撮影モードから再生モードに切り替えた。早送りをして、竹を組んでいる場面にすると、蒼生はすぐに小さな画面を指さしてきた。
「これ。これが親父だよ」
蒼生と見比べると、なるほど、親子です、と顔面が名刺代わりになっている。
映し出されている人物は、年を食っているとは言え、さすがに県議を務めたというだけあり、町内の老人たちとはひと味違って、田舎者臭さと老人臭さがなかった。
染めているのだろうが黒髪をバック気味にながして、さりげなくブランド品を身に着けていても厭味がない、ノーブルな落ちついた雰囲気がある。いわゆる、気品というものがある。
こうして比べてみると顔つきだけでなく、蒼生も身につけているものはブランド品であるが、誇示するようないやらしさがないのも似ている。
しかし、蒼生の話しから総合して考えると、満夫はまだ六十代半ば過ぎくらいという年齢の筈である。
そもそも昨今は、八十近い歳でも元気と健康体を持て余して仕事を続けている人も増えている。特に政治家はそれが顕著である。つまり、定年がないも同然の職種、しがみつこうと思えば幾らでもやれるということだ。それからすると早過ぎる、どころか異様さすら感じさせる引き際である。
「蒼生さんのお父さんは、おふれさんに出ておられないんですか?」
「親父は粥占いの方に回るはずやから――」
言いながら、ちらり、と蒼生は腕の時計を見た。
棚田からも、アナログ時計の針は見えた。
三時半近くである。
そして気がついた。吹雪だった雪は少し落ち着きを見せはじめ、ちらちらとした舞いにかわっていた。
「うん、もう家を出てるはずだ」
それからしばらくして、軽トラックは神社に到着したのであった。
ゲートボール場に、軽トラックはするすると入っていく。
「お疲れさん」
「いや、今年は
労いの声に出迎えられながら境内の中に乗り入れた軽トラックは、組まれた竹の山のまわりをぐるぐると回しだす。直倫が叩く陣太鼓の音のテンポが変わった。
どどど!
どどど!
どどど!
どどど!
どどど!
太鼓の音はいよいよ激しく、高まりをみせていく。耳に痛いくらいである。
軽トラックが止まるタイミングにピタリとあわせ、直倫は、どおん! とひときわ大きく高く陣太鼓を鳴らした。
同時に各瀬古代表が「そぉ~れぃ!」という掛け声をあげて、手にしていた松明を組まれていた竹に向かって投じる。
降り積もった雪が反響する太鼓の音を掬い取って静けさがくるまで、直倫は叩き終わった時の姿勢を崩さない。
この『おふれさん』は、町内に数個ある神社やお社の中でも、最も東に場所に建てられている小さなお社から出発するのだと、雪が降っているにもかかわらずタバコを手放さない木田が教えてくれた。村の東から西にむかって、おふれさんは登っていくのだという。
「おふれさんだけやのうてな、どんなお祭りのときも『おぐんじさん』から出発する決まりなんや」
「おぐんじさん?」
直倫にビデオカメラを向けていた棚田は、あわててコートのポケットの中にしのばせてあるボイスレコーダーのスイッチを入れようとして、紛失しているのを思い出した。
――全く、なんて事なんだろう、せっかくの取材のチャンスだというのに!
棚田は仕方なく、デジカメの録画機能を使って直倫の声を録音し始めた。
「村のなかで一番、
「えっ、そうなんですか?」
「このむらン中で、一番、古いお社や、いうことだけは確かなんやけど。どんなご縁があって来てくたれたんか、誰も知らん――ってのは、まあ何かこう、寂しい話しだよな」
「……そうですね」
「おぐんじさん由来の祭りがあらへんのは、御柱がよう分からんくなってまったからかもなあ、と俺は思っとるんやけどな」
直倫の言葉を聞きながら、根本ギリギリまでタバコを吸っていた文徳は、ポイ、と足元にすて、ぎゅ、と爪先で火を消した。
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