第二話 泉田みく その1


 みくが出て行くと、棚田は早速、食料の物色を開始した。ダンボールには菓子パンやカップタイプのスープがいくつか入れてあり、冷蔵庫の中にはスーパーなどで手に入る系のお弁当の他にサラダセット、缶ビールの六本パックがひとつに、チーちくやカニかまに焼き鳥のカンヅメまでが冷えていた。

「ありがとうございます、有り難いです」

 棚田は、手を合わせ、声に出してお礼を言い、頭を下げながら冷蔵庫の戸を閉めた。せっかく用意してもらったビールであるが、さすがにこんな真っ昼間から呑むわけにはいかない。

 ――さあ、いよいよだ。

 左義長は通常、っぴって行われる。

 夜中じゅう、起きていられるだけの体力をつけねばならないので、お弁当は夜に食べ、お昼はスープと菓子パンで軽くすませる事にした。

「いただきます」

 独り飯であっても『いただきます』と『ごちそうさま』をしないと気持ちが悪いのは、祖父母の教育のたまものである。

 かなり遅めの昼食をとりながら、机を前に腰を下ろすと、棚田は愛用のメモ帳をとりだした。本来ならやはり、みっともない、行儀が悪い、と手の甲をピシャリとやられながら叱られる場面である。

 ――時間短縮の為だから、ごめん、お爺ちゃんお婆ちゃん。

 心の中で祖父母に手を合わせて謝りつつ、あらかじめ、研究室でコピーしてきた河間町の地図を拡げる。

 バス停の位置と側にあった大きな灯籠と小さな北向きの地蔵像は地図記号にはないので、赤ペンで印を書き込んでいく。

 そして、柱にかけてあるカレンダーをめくりあげた。

 一月に行われる左義長を始まりとして、以降のお祭りは略名称とともに日時が書き込まれてある。名称といっても、勝手知ったる、であるせいか、殴り書きのようなものが殆どである。

 棚田は「メモメモ」と呟きながら、早速シャーペンを握りしめる。

 ここまでの間に数度、電車がゴゥゴゥと唸り声をあげ、ガラス戸を叩いて通過していった。サッシが枠ごと激しく揺すられて、ピシピシと家鳴りのような音をたて、やがて静かになると、こんどは突風がふいて、またピシピシと窓枠が鳴く。奇妙に気が急く音である。

 そんな喧噪の中でも、棚田は微動だにせず、メモを取り終えた。


 一月 第三土日 左義長

 三月 第二土日曜 おしらさん 

 五月 第二土日曜 おえんさん 

 七月 第二土日曜 おあけさん 

 八月 お盆 お地蔵さん 

 九月 おしめさん 

 十月 第一土日 本祭

 十一月二十三日 新嘗祭 報恩講


「改めて見ると、こりゃすごいな」

 見開きに一年分が記入できる縦型カレンダーにお祭りがある日をまじまじと見詰めながら、棚田はひとりごちた。

 土井教授の事前調査によると、三月のおしらさんというのは白鬚神社への奉納祭、五月のおえんさんというのは記念碑への催しであり、七月のおあけさんというのは例の高灯籠に対しての催し、八月のお地蔵さんというのは灯籠の隣にあった地蔵像前でのお盆祭りのことで、九月のおしめさんというのは堤防にある水神への奉納祭、そして十月の本祭は町内で最も立派な八幡神社で行われる豊穣祭のことだ。十一月の新嘗祭と報恩講は厳密に言えば祭りではないが、ついでに書き込んであるのだろう。

 しかし、こうしてみると一月から十一月までの間に田植えだの稲刈りだの何だのといった稲作に関わる行事を加えると、常に何かしらの催し物があるわけで、総戸数三百程度の村がこれだけの数の行事を今もってこなし続けているのは驚異的なことだといえる。

 ――試験とどう折り合いをつけようか。

 シャーペンの先で頭を引っ掻きつつ、棚田は唸った。

 棚田が籍を置く大学院は、詳しく言うならば前期後期五年生となっている。

 前期二年がいわゆる修士課程で、後期三年が博士課程となる。修士課程二年時の夏に博士の入試が行われ、就職組との活動日程のずれは大体二ヶ月程度となっている。大学院への入学は四月と九月があり、受験は七月から九月にかけてと二月から三月にかけてと二回行われる所が多いのは、大学院は社会人の受け入れ制度があるからだ。在校生組は七月試験のみでの対応となっており、これの合格者のみが次のステップに挑む事が許されるのだが、博士への進学を見据えている棚田にとっては、かなり厄介だと言わざるを得ない。

 先ず、二年生に進級するための口頭諮問会が二月に行われる。論文テーマの質問から進め方や進捗状況が事細かに正されるのだ。学科単位を修得するよりも、こちらをクリアする事の方がはるかに難しいとされている。

 そして、無事に二年に進級できたとしても気を抜く事などできない。

 博士課程の募集要項は五月に発表されるのだが、同時に博士課程進学希望者を対象とした口頭諮問会と小論文提出が行われるのである。軍隊の査問委員会のような針の筵状態の諮問と、指先で埃をぬぐい取って粗探しする意地悪姑よりも目を光らせて小論文が読み込まれる。

 そうして六月に改めて出願募集が開始されるのだが、在校生分は基本的に五月の諮問会と小論文の出来から既に選抜が行われており、教授たちが合格の判を押した者しか願書は受け付けて貰えないので、皆、目を血走らせ死に物狂いの形相となる。

 この、数多の艱難辛苦を乗り越えた強者のみが、本試験に駒を進めるのだ。

 博士課程の本試験は口述試験と論文提出も行われるのだが、ここでも論文進行の諮問会が行われる。学業の成果確認の場と認識されているが、ほぼ論文発表といっても過言ではない。しかもそれは、卒論とは別のものでなくてはならないのだ。試験勉強の片手間に仕上げたような内容で可が出る筈もなく、相当にハードである。

 加えて、授業単位数の必須条件が格段に厳しくなる。遊ぶ間もなく朝から晩まで授業漬けの毎日となり、学校と家との往復で終わる一日に耐えられる精神があるかどうかも問われる事になる。

 つまり試験に挑む者には、卒論と同時に二つの論文を書き上げる筆の速力、授業と同時進行しても文章が迷走しない胆力、絶対に単位を落とさないぞという気力、それを年間通して維持していけるだけの心身共にの健康力が求められるのである。

 最終的にこれらを維持するには、金の力が物を言ってくる。

 授業の拘束時間も長いし論文に追われるので、バイトするなど物理的に無理なのだ。

 とにかく博士受験は、知力体力を保持できる財力を備えた者のみが突破できる狭き門なのである。

 棚田の在籍する大学では毎年七月の海の日に本試験が行われ、八月の山の日に合否が発表される。これはぞくに第一次試験とも言われる。合格者のうち九月入学組が多い海外組と社会人組には小論文提出という第二次試験が待ち構えており、棚田のような来年度四月入学予定組は修士課程の卒論がそれに代わるのだ。

「五月は何とかできても、七月のおあけさんは本試験一週間前なんだよな」

 取材に来るほどの度胸は、流石にない。

 ――本試験が終われば八月のお地蔵さんと九月のおしめさんは取材できるから、それまでの辛抱だと思うしかない。

 心配するのは取材回数が減る事ばかりである。その頃には土井教授の腰の容態も良くなっているであろうし、そうなれば、かり出されるとは限らないのだが、棚田はもう、自分が最後までこの取材を行うものだと思い込んでいた。

 気が弱く、要領が悪く、運も良い方でないくせに、受験資格を得られないとか受験に落ちるとか単位数が足らなくなるとか、取材に来られなくなってしまうかもなどとか、夢中になると、そういった懸念材料が、まるで念頭に置かなくなってしまう図太さが棚田にはあった。

 メモ帳をかかえて戻ると、棚田はテレビをつけた。

 BSが視聴できる状態なら、ウェザーニュースが常にどこかのチャンネルで流れているんじゃないか、と期待したのだ。新聞はさすがにおいていなかったので、テレビ内の番組表を表示させてみる。するとやはり読み通りにとあるチャンネルでウェザーニュースが視聴可能だった。

 早速、そこに番号をあわせる。


 今日の午後から県内は、急速に発達する低気圧の影響を受けやすくなるでしょう

 日本海側からの湿った空気が流れ込み、西高東低の冬型の気圧配置となります

 北風が強まり、夜半ごろから一気に気温が下がりはじめるでしょう

 県内は早ければ日付がかわるころ、遅くとも明日未明ごろには雪が降り始めます

 山間部では大雪になる可能性もあり、平野部でも一日を通して断続的にふり続けるでしょう

 最低気温は0度、最高気温は4度

 強風のため、体感温度はマイナス3度まで下がります

 明日のお出かけのさいには、防寒対策をしっかりとなさって下さい

 積雪、および強風による着雪、路面凍結によるスリップや転倒、屋外にある水道管の管理など、備えを今からじゅうぶんになさって下さい……


 一時間毎の天気予報と気圧配置図と雲の流れを順番にデータ放送で調べ終えると、棚田はテレビのチャンネルをオフにした。コミュニティーセンターの駐車スペースに軽めのエンジン音が飛びこんできて、パパッ! パッパァッ! と軽妙なクラクションの音がしたからだ。

 窓からぎりぎり見える駐車スペースに、みくが「学者せんせーい!」と手をふりながら車から降りて来るところだった。

「みくさん? 早いですね? 準備って、五時からでしたよね?」

 今時、二つ折りの携帯電話ガラケーをズボンのポケットから取り出して、ボタンを押す。ヴィッ、という機械音がして、携帯電話の上部に、15時30分と現在時刻が表示された。

「うん、五時からなんだけどさ、その前に、ご祈祷とかもあるから、それも見たら良いんじゃないかなって思って」

「ご祈祷を見せていただけるんですか?」

 地域によっては、午前中に神主とともに祈祷を済ませたりするので、念頭になかった棚田は色めき立った。

「そ、来てみない? 村のお年寄り代表、みたいな人達も結構来るしさ、いろんな事、聞けると思うよ?」

「ありがとうございます! ぜひ!」

 棚田は急いで放り投げていたコートをはおった。そして取材用の道具を使いこんで端がぼろくなったデイパックにつめこみ、ボイスレコーダーをポケットに突っ込むと、玄関にむかって飛び出し鍵を引っつかむ。

 慣れない鍵はかけ難いものだが、なかなか施錠できない。まだ新しいくせに、古めかしい玄関の鍵が、棚田には殊更もどかしく苦々しく思えた。

「学者先生、ちょっと、慌てないの」

 見かねたみくが、新しいタバコを口にくわえながら棚田の背中をぽんぽん叩く。

「貸してみ?」

「すいません、お願いします」

 鍵を渡すと、みくは慣れた手付きで鍵をまわした。コミュニティセンターの扉は、音もたてずに、一発で施錠された。みくはその鍵を、玄関横のポスト下にあるボックスにかけた。

「外出るときは、ここに引っかけておけば良いよ。学者先生が帰る時もね。私が回収しておくから」

「はい、分かりました」

 ――こんな分かりやすい、いかにもな所にかけて、防犯とかの面は大丈夫なんだろうか?

 施錠について結構うるさく言っていたわりに、変な所で、田舎の鍵開けっ放しでも平気な気風が残っているな、と棚田はおかしくなった。

「さ、行こうか」

「はい」

 棚田が助手席側のドアをあけて、意気揚々と乗りこむと、後部座席から「ガクシャセンセー……?」と震える声に出迎えられた。

「えっ!?」

 ミラーを使って後部座席をのぞいてみる。

 女の子が座っていた。

 小学校の一~二年くらいだろうか、学校指定らしき臙脂色のジャージを着ている。色が白くて黒目がちで、髪をあみこみにしいる。そんな女の子が、座席の上でひざを抱えて緊張した面持ちで座っているではないか。

 自己紹介されなくても誰の子であるか、一目瞭然、ばっちり分かるくらい、可愛い子だった。

「あ、ええと、みくさん、の?」

「そ、娘。ほら、ひな。ちゃんと、ご挨拶して。お母さんが恥ずかしいよ」

「……こんにちは……」

 おどおどしながら、ひな、と呼ばれた女の子が頭を下げると、セミロングの髪がさらりと肩の上で踊った。

「ひなちゃん、っていうの? 初めまして、こんにちは」

 棚田は後部座席にむけて首をひねり、笑顔を向ける。童顔で親しみやすさがあるためか、少しは警戒心がうすれたらしい。みくの娘だというひなは、まだ幾分、固めの面持ちながらも、おずおずとではあるが手を伸ばしてきた。

「ん? なにかな?」

 棚田からも手を伸ばすと、ひなの手から、ぽと、と何かがおちる。ほんのりと温かいそれは、携帯用のカイロだった。

「……さむいから……」

 少女がきょろきょろと視線を左右にふっているのは、目を合わせないようにしたいからなんだな、と棚田は理解した。自分も幼少期、見知らぬ大人に出会ったときはこうだったな、と親近感を抱く前に、みくが頭からどやしつけた。娘の態度が気に入らないらしい。

「こら! ひな! いつも言ってるでしょ!」

「いいですよ、みくさん。知らない変なおっさんが、突然、お母さんの大事な車に乗り込んできたら、そりゃ、固まっちゃいますよ」

「人の目を見て話ししない子に、したくないのよ」

 まあまあ、と棚田は手をふって、みくを諫めたが、彼女は目をつり上げたままだ。みくは、みるみる顔をしかめさせていく。反対に、ひなの表情はどんどん強ばっていく。これはまずい、と棚田は反射的にコートのポケットをまさぐっていた。

「ありがとうね、ひなちゃん。ちょっと前の天気予報で、今夜は寒くなるって言ってたから、助かるよ」

 今度は、棚田がひなに手を差し出した。

 おっかなびっくり、といった様子でひなが両手をお皿のようにして差し出してきた。その小さな手の平の上に、いちごミルク味の三角形のキャンディを数個、棚田はぽとぽとと落とした。

 とたん、ひなは頬を赤くして、やっと少女らしく、かわいらしい笑顔をしてみせた。くわえタバコのまま、棚田と娘のひなが一緒にいちご柄のピンク色のつつみを解いてキャンディを口にふくむのを横目使いで見ていたみくが、もう我慢できないと言いたげに吹き出した。

「やだ、学者先生、いちごミルクなんか好きなの?」

「えっ、みくさん、これ、苦手ですか? 確かになめ続けると、ほっぺたの内側をなめすぎて尖った所で切っちゃったりしますけど、美味しいですよ?」

「うん、あれは痛いよねーーって、違うんやってば」

「えっ?」

「そうじゃなくって、なんか、かわいいな、って言いたかったんよ」

 みくは声をたてて笑い、ひなも俯きながら体をゆらしている。きっと笑っているのだろう。

 その気配が、なんだか棚田にはこそばゆく、しかし心地よく感じたのだった。

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