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 弁当を二つテーブルに出し、他は冷蔵庫に入れた。


 ランドセルから連絡帳ともらったプリントを出し、小物入れからシャチハタを取り出し自ら判を押した。


 照美はナップザックを仕舞おうとしたが少しだけ雨に濡れていたため、室内にぶら下がっている洗濯バサミに挟み暫くの間干す事にした。


 白地に赤いストライプの線が入った柄は自分が好んで選んだわけではなく、小学校入学時に麻友から渡されたものだった。


 柄に対しての愛着を感じているわけではないが、照美の生活には大いに貢献してくれている。




 照美自身も理解していることだが、他のクラスメイトに比べ日常の幸福度は低い生活をしている。


 しかしそんな中でも照美は最近少しだけ楽しんでいるものがあった。それは調理である。




 以前は両親同様弁当を買って食べていたが、五年生になり家庭科の授業が始まった事で、じきに調理実習の授業があることを照美は知り、自身の生活のためになると思い最近は自ら台所に立つようにしていた。


 生活のためというのは主に金銭面のことである。


 自分で気づいたわけではなく、ある日の両親の口論によって知った知識だった。


 幾度も口論の火種となっている剛士の金遣いを麻友はその日も言及していた時だった。


 剛士が仕事の日に買っている昼食の失費が多すぎるという内容だった。


 照美は口論のひとつひとつを覚えていたわけではないが、あるやり取りだけ耳の中に残った。


「お前が弁当作ればいいんじゃねえの?買うより安いに決まってんだから」


「なんであんたのために作んなきゃいけないの?自分の分は自分で作ってよ」


 過去の口論で聞いた、弁当を買うより自分で作った方が安いという情報が、家庭科の授業が始まった照美の脳内で再起したのである。


 そこから照美は授業の範囲ではない調理のページを自発的に読み、包丁の持ち方や火の使い方を、学校の休み時間に眺めるようになった。


 到底まだ両親に出せるほどの技術はないため、自炊したものは自分で毒味する程度だが、ゆくゆくは調理したものを食べてもらえるようになれればと照美は考えていた。




 買ってきた野菜と味噌を改めて冷蔵庫から取り出し、包丁を取り出し味噌汁を作り始めた。


 包丁は小学生には不釣り合いなほど大きな出刃包丁しかなかった。


 これは一時期釣りにはまっていた剛士が買ってきたもので、照美が使うようになるまで一切手入れされていなかった錆だらけの重い包丁。


 切れ味はなく、ただの鉛の塊と化した包丁だったこともあり、照美はこれまで指を切って両親に迷惑をかけずに済んでいた。




 安くなっていたから買った味噌には減塩と書いてあったため、ほんの少しだけ塩を入れようとしたが自分が思っているよりも多く入ってしまった。


 そのトラブルでさえも照美にとっては少しの面白さに変わっていく。


 人参と所々傷んでいたほうれん草を入れた味噌汁が出来上がった時、学校では滅多にない笑顔が出た。それは照美だけの空間だった。




 半額シールの貼られた6個入りのロールパンを一つだけ取り出し、味噌汁と共に食べ始めた。


 ロールパンの残りは剛士の翌日の朝食のためにとっておかなければならない。


 六月になり例年よりも気温の上昇が早く、湿度も高い部屋だったがエアコンは付けない。そんな中でも作りたての味噌汁は白く湯気を立たせていた。




 お椀を持ち3回ほど息を吹きかけ啜った。


「っ…!ゴホッゴホ」


 あまりの塩辛さに照美は鳥肌が立った。


 お椀を即座にテーブルに置き、ふと麻友の方を見た。


 麻友は少しだけ寝返りをうち、部屋には変わらず雨音と微かに聞こえる時計の秒針の音が響いていた。


 照美は麻友の機嫌を損ねていないことを確認し、再度味噌汁に視線を戻し悩んだ。


 一人前の量を作れるほどの技術はなく、今日参考にしたのは教科書に書いてあった四人前の分量で、鍋にはまだ海水のごとく塩辛い味噌汁が、三人前以上残っている事に頭を抱えた。


 幼いながらにも裕福とは程遠い生活をしていることは理解している中で、食材を無駄にしてしまった罪悪感に照美は駆られた。


 しかし、調理での失敗というところにおいては形容し難い充実感を同時に感じていた。




 お椀に入っていた味噌汁を目に涙をためながら一気に腹に流し込み、普段は千切って五、六回に分けながらゆっくり食べる一つしかないロールパンを一気に口に放り込んだ。


 食事をしたことで疲弊したのは照美にとって今日が初めてだった。


 お椀をシンクに入れ、コップ一杯の水を飲んで食事を終えた照美は、包丁やまな板などの食器を洗う前に、気持ちを落ち着かせるようと宿題をすることにした。




 麻友が目を覚まし体を起こして時計を見た。


 この後何か用事があるのかローテーブルに置かれている鏡を、昨日飲んでいた缶チューハイの空き缶をどかしながら自分の前に動かし、化粧を始めた。


 照美はランドセルから算数ドリルと筆箱を取り出し、範囲となっているページを開き問題を解こうと思ったが、それよりも先に食器の片付けをしなければ母に叱られるかもしれないと感じ、一度握ったペンをテーブルに置き立ちあがろうとした。


「あ、あたしの分もある?少し食べるかもしれないからそのままでいいよ」


 麻友はうたた寝をしている中でもここ最近調理をしている照美のことは把握しており、今日はその恩恵を少しだけ受けようとしていた。


 照美は断ろうかと少し悩んだが『はい』と返事をし、席に座りまたペンを握った。




 数問解き終わったその時、予定よりも大分早く剛士が帰宅した。


 傘を持っていなかったのか、ずぶ濡れになっていた剛士はいつもよりもかなり苛立っていた。


 照美はすぐに洗面台に行きバスタオルを取り出し無言で剛士に渡した。


 バスタオルで髪を拭きながら靴を脱ぎ、濡れた靴下で廊下をズカズカと歩く。


「現場で事故った奴がいてよ、作業止まったわ。


俺が原因とかぬかしやがんだよあの馬鹿監督。


どう考えてもあの佐官のジジイの不注意だろ」


 現場で起きた事故により早く帰ってきた剛士は、脱衣所で雨のせいで普段よりもぐちゃぐちゃになっていた作業着と靴下を乱雑に脱ぎ捨て、パンツとタンクトップ姿で台所に歩みを進めた。


「あっそ。え、じゃあ何?暫く仕事ないの?」


「知らねえ。現場はすぐ動くんじゃね?結構納期ヤバくなるかもって言ってたし」


 冷蔵庫から缶ビールを手に取り、立ちながら一口喉に流す剛士。


「あっそ。」


「でも、俺はすぐ戻れるかわかんね」


「は?どういうこと」


「あいつが悪いんだよ。俺のせいだとかほざくからよ。


だから一発ぶん殴ってやったんだよ。教育だよ教育。


ただよ、たまたまそこに社長が来てさ。大事になっちゃってさ」


 麻友は剛士の発言を聞き、ぴたりと手を止めた。


 照美にはそれが化粧の中断なのか完了なのかはわからなかった。


 しかしこれは間違いなくいつもの口論が始まる予兆だと察した。




「え?じゃああんた暫く家いんの?他の現場ないの?」


「だから知らねえって。


あっても同じ会社の現場ばっかりだからな。どうだろうな。




あ、なんだ食いもんあんじゃん」


 そういうと照美の作った味噌汁に手を伸ばした。


 それがいつもみる日常を壊す晩餐になるとは照美は思っていなかった。

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