1-3
少し冷めた味噌汁。
鍋に入っていたお玉で掬い、剛士はそのまま直に口元に運んだ。
照美は足を前に動かし、剛士の動きを止めようとした。
声をかけようとした。
しかし刹那的に少ない生活費を無駄遣いしたことを怒られるかもしれないと感じ動きが止まった。
その一瞬の間が後の崩壊を産んでしまった。
照美のように息を吹きかけることもなくそのままお玉に口をつけ、掬った汁を一気に剛士は啜った。
照美は自分で飲んだ時、舌に触れた瞬間咽せ込んでしまったが、剛士はすぐに飲み込むことはせず全てを口に含んだ。
カチ、カチ、カチ——
その間、外の雨音は聞こえず、時計の秒針が動く音がゆっくり三つ聞こえた。
「ボハァッ…!なんだこれ!!」
静けさを打ち壊すように大きな音を立て剛士は味噌汁をばら撒き吐き出した。
そのまま手に持っていた、まだ中身の入っている缶ビールを握りつぶし、それも床に投げ捨てた。
剛士が吐き出した味噌汁とビールは部屋一面に広がる勢いで四方八方に飛び散った。
そしてその飛び散った汁が化粧したての麻友の頬と服に数滴ついた。
「最悪。ついたんだけど!マジキモい。何してんのマジで」
「てめえがこんな糞不味いもん作んのが悪いんだろ!」
照美は不思議とその光景に焦りをまだ感じていなかった。
——あれ?なんで二人は怒ってるんだろう——
照美は心の中で普通だったら疑わずとも理解できるこの状況に疑問を持った。
自分が作った味噌汁を麻友が作ったと勘違いした剛士は、それを食べて、不味くて吐き出し、お門違いに麻友に怒鳴っている。
自分が作っていない味噌汁を吐き出しビールをばら撒かれ、そしてその汁が付いたことに麻友は怒っていた。
——私は今怒られていないんだ——
日常的に干渉されなくなっていたこともあり、その状況を悲しくも照美はすぐに受け入れることができた。
そしてその光景を見て次に生まれたのは、酒による知能レベルの減退には気をつけなければいけないなという、現実に起きている事に対して不釣り合いな将来への教訓だった。
「あたしがそんなもの作るわけないじゃん。ホント最悪。どいて」
麻友は服に飛び散った汁を洗面台で落とそうと台所に行き水で落とそうとしたが、すぐにそれは無意味だと察し、すぐに変わりの服を取りにクローゼットのある部屋に向かった。
去り際に
「ちゃんと掃除してね。あたしもう用事あるから」
と剛士に吐き、床の吐瀉物類を避けながら部屋に向かおうとした。
その時、剛士は背後から麻友の髪を掴みあげ、自らの方に顔を向かせ頬を一つ大ぶりに叩いた。照美はそこでことの重大さに気がついた。
これまでも起きていた口論は文字通り口だけの喧嘩であり、お互い手を出すことはなかった。
それは照美に対しての叱咤においても同様であり、照美は剛士の暴力をその時初めて見たのだった。
剛士の激昂は、倒れた麻友に馬乗りになり、顔面に向かって何度も大ぶりで叩きつける形で続いた。
これまでの生活態度、照美の管理、男の陰、今日起きた仕事場でのトラブルと、味噌汁の味、少しの酒気——。
それらが怒りのトリガーとなり、剛士は本能のままに鬱憤を言い放ちながら、麻友の両腕で庇っている顔をその上から叩き続けた。
麻友はその状況を打開するため顔前においていた腕を解き、数発平手をくらいながら、剛士の髪を掴み、鼻を目掛けて握った拳を振り抜いた。
思惑通り直撃した剛士はよろけ、麻友は馬乗りから解放された。
そのまま立ち上がり、やられた分だけ剛士を踏み付け続けた。
稼ぎが少ないこと、毎日酒に酔っていること、照美をこっちに任せきりなこと、金の使い方——。
挙句の果てに剛士が疑っていた男の影を裏付けるように、今から男と会う予定だったことまで言い放ち、その前に化粧と髪が崩れたことへの不満を足の裏に込め踏み続けた。
照美は普段自分に向けられた憤怒以外は、その場において空気のような存在に徹することに勤めていた。
自分の行動、言動で両親の気分を悪くしたくなかったからである。
両親は自分に対してかなり厳しい指導をしてきたとは思っている。
しかし一度だって暴力はなかったし、
『お前がいなければ』
『あんたなんか産まなきゃよかった』
などという言葉も言われたことがなかった。
だからこそ干渉されない日常を保つように努めてきた。
そしてあわよくば料理を覚えて、少しでも負担を軽くできるようにと、最近は包丁を握るようになっていた。
生々しい両親の殴り合いを見ていた照美は、焦りと共に自分の中でこれまで生まれなかった怒りのような感情が生まれてきた。
味噌汁を作ったのは自分なのに、口論だろうが殴り合いだろうが問題は解決しないし、宿題は途中だし、まだ洗い物も済んでいないし、洗濯物が増えたからすぐに回さないと雨だから乾かないし、弁当は用意しているし——。
バタバタと大きな音を立てながら大人の男女が取っ組み合いの喧嘩をしている中、照美の頭の中はその光景とは別のストレスで頭がパンクする寸前だった。
この状況を一つずつ解決しなければならないと照美の中の何かが反応し、照美は大きく息を吸った。
「おいお前ら、いい加減にし—」
ドンッ——
照美が少し考え事をしている間に麻友の手には、まだ小さく切った人参が付いている出刃包丁が握られていた。
その前に頭を抑えている剛士がうずくまり、動きが止まっていた。
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