第一章「高梨照美」

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——プロローグから約十八年前——




「連絡帳に授業参観のことちゃんと書いたかな?このプリントもちゃんとお母さんかお父さんに渡して、今週の金曜日までに判子を押してもらってきてくださいね。」

「はーい」

来月にある授業参観の参加の有無を提出しなければならないプリントを、高梨照美はその場で「不参加」を丸で囲んでいた。親に来てほしくないというわけではない。きっと来ないであろうという予想からなる行動である。そのまま普段の筆跡を変えて、あたかも父の名前を母が書いたかのようにそのプリントにサインをし、後は判子を押すだけの状態で連絡帳に挟んだ。

「せんせー!明日の体育、何するんですかー?」

 クラスの人気者である彼の名前を照美はまだ覚えていなかった。小学五年生になり早二ヶ月。クラス替えによって出会った新しいクラスメイトの名前をまだ把握していなかった。

「あ、そうそう。明日雨になるかもしれないから体育館か教室でビデオでも見ましょうか」

「わたし、トムとジェリーがいい!」

明日の体育の授業の代わりに見るビデオの話が、各所で盛り上がる帰りのホームルームの真ん中。照美はその話に入れずにいた。黙ってランドセルの側面についている巾着をぶら下げるフックの丸みを指でなぞりながら、今日帰宅後にしなければいけないことを頭の中で反芻していたら、教室内の突発的トレンドに乗り遅れたのである。

「じゃあ四時間目までみんながいい子にしてたら考えといてあげます!あ、宿題ちゃんとやって来なきゃダメだからね!はーいみんな帰るよ!日直さん号令お願いします」

 本来、学校に持ち込みが禁止されている財布を、照美はいつもこっそり持ってきていた。帰りに自分の晩御飯の食材を買って帰らなければならないため、残金をじゃらりと確認していたのである。

「…あ、そっか」

 米がなくなったことを思い出したが、到底今の持ち合わせでは足りなかった。

「せんせー。さようなら!」

皆と同じように教室を出て、廊下は走らず壁際を歩く。

「遅せぇなぁ。ちんたら走んなら右くんなよ。」

 車の運転中に父、剛士がよく口にしていたその言葉で、急がぬものは端を歩かなければならないと照美は学んでいた。

 約11年前。照美は剛士と麻友の間に生まれた。剛士は建築現場で働き、麻友は照美が生まれてから専業主婦になった。麻友にとって照美はおろか剛士との結婚は百パーセント望んでいたものではなく。むしろ今でも事故にあったような感覚を持って過ごしていた。剛士の収入は決して一人で家族を養えるほどあったわけではなく、加えて金遣いが荒かった。仕事の仲間との付き合いだと飲み会やギャンブルを日常的に行っていた。また、麻友が一人暮らしをしていた安アパートに転がり込み、必然的に同棲、そして今の暮らしが始まったが、当時からお互い自炊することはなく食事は外で済ませるか弁当を買ってくる生活をしていた。

 麻友は剛士に浮気の気配はなかったものの、金銭感覚や収入の面で今後のことに不安を感じていた矢先、妊娠が発覚し入籍せざる得ない状態となったのである。剛士も妊娠に関しては決して望んでいたタイミングではなかったが会社の同僚や上司に相談し、そのまま入籍を決めたという。照美はその事に関して酔っ払った麻友からこんなことを聞かされていた。

 「別に結婚しなくたって良いって言ったの。…あぁ別にあんたがいらないとかそういうことじゃないよ。あんたは産むつもりだったし。多分あの人は周りから祝儀をもらいたかっただけだと思うんだよね。まぁそれも今となっては何に使って無くなったんだかわかんないけど。でもあの時はそれがなかったら正直ヤバかったから、あの人の会社の人には感謝してる。」

 当時小学三年生の照美にはその話を理解するのは難しかった。しかし麻友の様子を見る限りたわいのない、忘れても良いような、なんてことのない内容なのだろうと子供ながらに感じていた。その言葉を今もしっかり覚えているのである。

 照美は両親の仲睦まじい関係だった頃を見たことがなかった。照美が生まれてからというもの生活はより一層圧迫されていった。

 会話は減り、そして次第に口論が絶えなくなっていった。同じ空間に二人が同時にいなくてもどこか苛立ちがあるように感じ、照美は物心ついた時から両親の顔色を伺い大人しくしている日常を送っていた。小学校に上がると家事や生活において求められることが増えていき、生活の中で粗相があった場合、ことあるごとに叱咤され照美は両親の憂さ晴らしの相手となっていた。

 次第に粗相は減っていき、怒られることが少なくなっていった事に比例し、両親は照美に対し干渉していかなくなっていった。

 今では炊事洗濯のほとんどを照美が行い、それにかかるお金は両親のどちらかが定期的にダイニングテーブルに置いてある状況。照美はその小遣いの中で放課後に買い物を済ませ、家事を済ませなければならない。クラスメイトとの交流は自ずと学校で過ごす時間だけだった。

 家に到着した照美はそのまま家に入ることはせず、玄関前にランドセルを置き財布だけを持ってスーパーに向かった。過去学校から直接スーパーに入った際、ランドセルを背負った子が買い物にきていると店員に声をかけられ、麻友を呼び出すはめになり怒らせたことがあった。それに加え、一度荷物を置いて家を出ると、家事もやらず遊びに行くのだと麻友が勘違いをし、これも怒られたこともあった。そのため今ではこうして買い物に出るようにしている。

 照美には次、いつ生活費をもらえるかは共有されていなかったが、これまでの傾向として今週あたりまた渡されるだろうと予想していた。催促したらまた両親の気分を害してしまうため、普段から生活費の使い方には神経を使っていた。今ある残金も多くはない。ここはあえて買えるものは買ってしまおう。そう思った照美はカゴをカートにのせて野菜売り場から歩みを進めた。

 予算の少なさもあって女子小学生の腕でも抱えられるくらいの重さで買い物を済ませることができた。米を買えるほどの予算があったらきっと大変だっただろうと、照美は少しホッとした。味噌と卵、そして両親が今日食べるであろう弁当を二つと、剛士が頻繁に使う一味唐辛子三本を優先的にかごに入れ、残った予算でおつとめ品となっていた野菜を数種類買った。普段からもらったレジ袋はそのまま家庭のゴミ袋に使用していた。つまり途中で穴が開いてはいけない。照美は体操着入れに使っている赤いストライプ柄のナップザックに食材を入れられるだけ入れ、入らなかった卵のパックを手に持ち帰路に就いた。

 パチッ、パチパチ——卵パックから音がなった事で雨が降り始めた事に気づいた照美は残り数百メートルの道を駆けて行った。

 玄関の扉を開けランドセルを拾い帰宅した直後に雨が強くなった。その音は三階建てアパートの二階であるこの部屋の天井にも響くほどだった。照美は雨か汗か、少しだけ濡れた髪を耳にかけ、荷物を静かに置き

「ただいま。買い物してきた」

と麻友に声をかけた。麻友はリビングで横になって、うたた寝をしていた。

 照美にとってこの光景は日常的で、時の進みを忘れてしまうほど同じ空間だった。

 自分が下手なことをしない限り、この光景がずっと続くものだと疑いはしなかった。決して自分では変えられない日常のはずだった。

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