第二章 第10話 中心域外縁 ――都市が軋む夜



 午前一時十二分。

 渋谷から新宿へ続く夜の通りは、平日の深夜とは思えないほど静かだった。


 久世静真は、歩く速度を意図的に一定に保ち、周囲の光と音の変化をモニタしていた。


 人影は少ない。

 だが、街灯の明滅、遠くのサイレン、タクシーのライト──

 都市の“通常の揺らぎ”が、どこか不自然に間引かれている。


(中心域が動いている……これは、Gridの数字以上だな)


 渋谷側の裂け目マップでは、この周辺は“濃いリング”が二重に重なっていた。

 外縁の中でも特に密度が高い区域だ。


 静真はポケットの中でスマートフォンの録画アプリを起動しておいた。

 ただし、画面は点灯させない。

 観測は、あくまで「外側を乱さない状態」で行う必要がある。


 通りの先──

 ビルとビルの隙間に、8話で見た“境界面”がかすかに浮かんでいるのがわかった。


 空気の密度が、そこだけ違う。


 光の屈折が、わずかに不規則だ。


(ここから先が、外縁域の入口……)


 街灯の下で足を止める。


 手首の腕時計は、午前一時十三分四十八秒を指していた。


 


 ──その瞬間。


 


 街全体のノイズが、ぱたりと消えた。


 


 耳が痛くなるほどの静寂。

 空気が凝固したような圧力。

 光の粒同士が、距離を保ったまま固定される。


(来たな──削れとは違う。これは……)


 世界が「止まった」のではなく、「詰まった」。


 削れの三秒とは異なる。

 もっと細かい、0.1秒単位の“フレームの噛み合わせ不良”。


 Grid の統計で見た、削れの前兆現象。


 世界が次のフレームを採用しきれず、

 どちらの方向へ進むか決めかねて、

 演算が滞る瞬間。


 


(中心域外縁……ここまで乱れているのか)


 


 視界の端で、ビルの看板の光が“二重にぶれた”。


 上段の映像と下段の映像が、数ミリだけずれた位置に重なり、

 どちらも“動き出せずに”干渉している。


 どちらが採用されるか、まだ決まっていない。


 


 左側の細い路地で、もっと明確な異常が起きる。


 路地の奥を歩いていた人物の“影”が、0.1秒の差で二つに割れた。


 一つは前へ進み、

 一つは立ち止まり、

 そのどちらも、主観を持たずに揺らいでいる。


(これが……“枝候補”か)


 削れでは見られなかった現象。

 時間のフレームが実際に競合し、どの枝を採用するか世界が迷っている状態。


 普通の人間には、影が濃く見える程度だろう。

 だが観測者の視界は、世界の未採用フレームを認識できてしまう。


 


 ──世界が迷っている。


 その事実だけで十分だった。


 静真は息を一度吐き、境界面の前に立つ。


(ここから先が中心域外縁。内部ではないが……一歩ずつだ)


 


 右足を踏み入れた瞬間──


 


 時間膜が、わずかに“軋んだ”。


 金属板が擦れるような感覚が、足首から膝、そして胸郭へと広がる。


(負荷の立ち上がりが早い……No.5が止めた理由が分かる)


 観測者能力が、無意識に応答を始めている。


 削れのときのような停止ではない。

 「連続したはずの時間を、別の連続と区別しようとしている」ような感覚。


 


 そのとき。


 


 路地の奥に立っていた人物の“片方の影”が、消えた。


 音もなく。

 痕跡もなく。

 世界から丸ごと抜かれたように、滑らかに。


(採用外れ……!)


 残った片方が、“本来の人間”として世界に残された。


 その本人は、当然気づかない。

 揺れたことも、二つ存在したことも。


 だが観測者は違う。


 採用外れの瞬間、

 「そこに存在したはずのフレーム」が、

 視界の裏側でノイズとなって消えた。


 静真は、無意識に observer_log を思い浮かべていた。


 No.3 の死亡記録──

 “どれが本物の自分だったか、分からなくなる”と書かれていたあの行。


(この程度でこれだ。内部では、もっと露骨に分岐するのだろう)


 Grid の統計を思い返す。

 中心域内部から帰還できた観測者は一名だけ。


 その数字が、今目の前で実体を帯びつつある。


 


(まだ外縁だ。ここで深追いする必要はない)


 


 だが──


 境界面の奥で、何かが揺れた。


 


 光でも、影でも、風でもない。


 “情報密度”そのものが膨張しているような感覚。


 世界が、そこに一枚分だけ余計なレイヤーを貼り付けようとしている。


 


 腕時計を見る。


 午前一時十四分五十五秒。


 秒針が──ほんの一瞬、逆方向に震えた。


 


(……巻き戻し? いや、違う。世界側の演算が逆流している)


 


 削れの三秒とは違う。

 これはさらに微細な、0.05〜0.1秒単位の“世界の巻き戻し癖”。


 本来採用すべきでなかったフレームを、

 演算補正が勝手に巻き戻して再読み込みしている。


 その結果──


 視界の右端にあるコンビニの看板が、

 “二種類の文字列”を交互に出し始めた。


 片方は、静真が知っている現実の文字列。

 もう片方は、世界が一瞬だけ採用しようとした“別の現実”。


 たとえるなら──

 再生動画のフレームが二つ混ざった状態に近い。


 


(……ここだな。外縁のピーク)


 


 静真は、深く息を吸う。


 能力を使うかどうかを、冷静に判断する。


(今の状態で時間遅延を使えば、膜の負荷が跳ね上がる。観測専用でいく)


 慎重さを保つ。


 観測者が死ぬ理由の大半は、

 「能力を使ったから」ではなく、

 「能力を使うべきでないところで使ったから」。


 Grid の死亡統計にも出ていた。


 


 境界面に、手を伸ばす。


 空気の層が薄く──いや、厚みにムラがある。


 指先が触れた瞬間。


 


 ──音が戻った。


 


 車のエンジン音。

 遠くの踏切のベル。

 深夜営業の店内BGM。


 世界が、ようやく次のフレームを採用した。


(見れたな……“未採用の層”。外縁でも、これほど露骨に出るのか)


 静真は、ログ用にスマートフォンの時間を確認しようとポケットへ手を入れ──


 そこで、異常に気づいた。


 


 ──スマートフォンの画面が、勝手に点灯した。


 


 誰も触れていない。

 ポケットの中で操作された形跡もない。


 画面中央に、たった一行だけ表示されている。


 


『観測ログ:KZ-0

 一次観測を確認』


 


(……Gridか? いや違う。Grid のUIではない)


 


 フォントが違う。

 通知方式も違う。

 暗号化の層が、Gridのものより厚い。


 


 その下に、もう一行。


 


『──中心域は、今夜、お前を見ている。』


 


 スマートフォンは、次の瞬間すぐに画面を暗転させた。


 


「……誰だ?」


 声が自分のものではないように感じられた。


 世界側のメッセージか。

 観測者か。

 観測者ではない何かか。


 返答は、当然ない。


 境界面は薄く揺れ続けている。

 空気は再び静まり、都市は通常の深夜に戻っていた。


 


(観測を、見られていた……?

 いや、“観測”そのものに、誰かがアクセスした?)


 


 Grid にすら記録されていない通信。


 観測者番号でもない。

 No.5 でもない。

 ログの形式が、Observer Grid の標準と全く違う。


 これは──


 


(……第三の網か?)


 


 観測者網ではなく、

 世界側でもなく、

 第三のレイヤーからの介入。


 中心域の内側でしか成立しないはずの通信形式。


 だとすれば──


 中心域は、まだ外縁に踏み込んだだけの観測者候補を、

 “認識している”。


 


 腕時計を見る。


 午前一時十六分。


 削れ発生時刻──

 サーバルームで遭遇した「三秒欠落」のサイクルとほぼ同じ時間帯。


 


(……戻る)


 


 静真は、反転した。


 今回はあくまで外縁の初観測。

 深追いするべきではない。


 だが、次の観測計画はすでに脳内で形になりつつある。


 


 帰路につきながら、observer_log の文面が自然に頭に浮かぶ。


『外縁での第一次観測において、未採用フレームの混在を確認。

 中心域は、“観測者側”を観測している可能性。

 識別不能の第三レイヤーからの介入あり。』


 


 ログに書き残すべきことは多い。


 都市は動いている。

 演算は走っている。

 世界は“整え直されつつある”。


 


 そして──


 観測者の視線は、すでに世界から“見返されている”。


 


 その事実だけが、静真の背筋をかすかに冷たく撫でていった。

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三秒削れの観測者──都市の時間は、静かに壊れ始めている @ryutan

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