第1章 第8話 閾値の縁
渋谷駅から少し外れたビル街は、夜になると音の粒が粗くなる。
大通りの喧噪は、交差点を二つ離れるだけで、電源を落としたディスプレイのように急に暗くなる。
その境目に、久世静真は立っていた。
目的地は、昼間に計測しておいた“時間膜の薄い地点”の一つだ。
オフィスビルと商業ビルの隙間にある、メンテナンス用の細い通路。
人はほとんど通らないが、周囲のビルの配電や空調の系統が集中している。
世界の演算負荷が、局所的に高くなりやすい場所。
腕時計は二十三時四十一分を指している。
今日の深夜帯──おおよそ二十二時から午前三時にかけてが、中心域周辺の観測に最も適した時間帯だと、昼間のログから割り出していた。
時間膜の厚さが周期的に揺らぎ、その振幅が今夜は明らかに大きい。
ピークは数時間単位で続く。
特定の一瞬だけを逃せば終わり、という種類の現象ではない。
だからこそ、一度足を止める余裕はあった。
通路の入口付近で立ち止まり、静真はスマートフォンを取り出した。
自作の観測用アプリを起動し、画面を軽くスワイプする。
加速度センサー、ジャイロ、描画レイテンシ。
それらから逆算した“世界側の時間補正”の値が、グラフとして表示される。
ラインは、通常値の二倍近くまで上下していた。
「……閾値の手前、というところか」
小さく呟き、通路の奥へと足を踏み入れる。
通路幅は一メートル弱。
片側はビルの壁、もう片側は金属製の柵になっており、その向こうにはビルの裏側の窓と配管が並んでいる。
頭上を、排気ダクトがいくつも横切っていた。
低い振動音が、骨の内側にまでじわりと響く。
空気の密度が、歩を進めるごとに変わっていく。
皮膚の表面に、ごくうすい膜が貼り付くような感覚。
耳鳴りが、まだ“遠く”で鳴っている。
(この先、十メートルほどか)
昼間の計測値を頭の中でなぞりながら、速度を落とす。
時間膜の厚さは、空間的な勾配として感じ取れるようになっていた。
わずかに重い空気、光の屈折の癖、耳鳴りの周波数。
その三つが、同じ方向へ傾き始めるところに、必ず“削れの縁”がある。
通路の中ほどで、静真は足を止めた。
そこだけ、排気ダクトの音が不自然に鈍く聞こえる。
蛍光灯の光が、壁の一部でわずかににじんでいる。
時間膜が薄くなりかけている。
スマートフォンを見れば、グラフの振幅がさらに跳ねていた。
その瞬間、耳鳴りが一段階、近くなった。
高い音が、頭蓋骨の内側に直接刺さってくる。
排気ダクトの振動が、急激に遠ざかる。
世界が、じわりと粘度を増していく。
(閾値、突破)
視界の奥で、光が一瞬だけ遅れた。
通路奥に漂っていた埃が、中途半端な位置で静止する。
排気ダクトの振動も、空調の風も、完全に止まった。
通路全体が、“削れ”の外側に入った。
静真は、腕時計に目を落とした。
秒針は、二十三時四十二分三秒を指したまま動かない。
時間の流れが止まっているのは、ここでも同じだ。
ただ、これまでの削れと違うのは、現象の質感だった。
世界が、単に停止しているのではない。
切り取られたフレーム同士が、わずかに重なり合い、その重なりが擦れ合っているような感覚がある。
空気の粒子が、わずかに二重に見える。
通路の奥。
配線ボックスが並んでいるあたりに、薄い歪みが見えた。
そこだけ、世界の輪郭線がわずかにぶれている。
境界面だ。
薄くなった時間膜の、そのもう一段向こう側──中心域の外縁。
静真は、一歩だけ前に出た。
境界面に指先を伸ばす。
触れた瞬間、空気の密度が跳ね上がった。
皮膚の表面に、圧力のようなものがかかる。
指先から肘にかけて、ぴりぴりとした痺れが走った。
世界の層を、ひとつまたいだ感覚。
指先を引く。
境界面は、そこにあり続けていた。
(この厚さで、この密度……中心に近い)
数字に置き換えれば、世界のフレーム同士の重なりが、ほぼ飽和に近づいている状態だ。
ここでさらに内側へ踏み込めば、No.3が体験したような“多重フレーム”が、肉眼で見えるかもしれない。
耳鳴りが、唐突に一瞬だけ途切れた。
次の瞬間、背後で足音がした。
停止した世界の中で、動く足音。
静真は振り返った。
通路の入口近くに、一人の人影が立っていた。
黒いパーカーのフード。
顔の上半分は影に隠れているが、視線だけははっきりとこちらを捉えている。
時間停止の外側にいる。
観測者だ。
「……来るとは思っていました」
低い声が、粘度を帯びた空気を割るように響いた。
「観測密度が、ここ数日で不自然に跳ね上がっていましたから。あなたが動くタイミングも、おおよそ読めた」
「No.5、だな」
確信を込めて名を口にすると、相手はわずかに頷いた。
フードの奥で、目だけが静かに笑っているように見えた。
「観測者番号を名指しする未番号観測者は、そう多くありませんよ」
「あなたがログに残した“言い回し”は癖が強い。交差点の死点ログでも、同じ語彙があった」
「……なるほど。読み込んでいますね」
No.5は、通路の奥──静真がさきほど触れた境界面の方向に視線を向けた。
停止した埃の粒子が、その奥でわずかに揺れている。
世界の層同士の重なりが、不規則に軋んでいる。
「ここが、今夜の“浅い側の縁”です。中心域までの距離が、この数年で最も縮まっている」
「今が、最適な観測タイミング、ということか」
「時間帯としては、そうです。今夜の二十二時から午前三時の間、観測密度は高止まりします。その中でも、この場所は特に突出している」
つまり──“今この瞬間だけ”というわけではない。
ピークは広い。
だからこそ、準備を挟む余地がある。
No.5は、足元を軽く見下ろした。
停止した世界の中で、彼の影だけが、不自然な揺らぎを持っている。
世界側のフレームと、微妙に同期していない。
「中心域が、ゆっくり再配置されつつあります。
都市構造の重なりが限界に近づき、世界のほうがフレームを組み替え始めている」
「その結果が、“削れ”として表に出ている」
「ええ。あなたが見つけた三秒の欠落は、その“端っこ”に過ぎません」
No.5は、境界面のほうへ一歩だけ近づいた。
しかし、その線を越えることはしない。
「ここから内側は、中心域の外縁です。
時間密度は、外側の数十倍。
フレームの重なりも、補正の頻度も、桁が違う」
「あなたは、そこに入ったことがあるんだな」
「一度だけ」
短い答えだった。
それ以上の情報を語るつもりはない、という線引きが、声に混ざっている。
「一度で十分です。二度目は、人間の脳では耐えられない」
「中心に直接触れた観測者は、皆そうなる?」
「全員が死ぬわけではありませんが……戻ってきても、観測者ではいられなくなる」
言葉を選びながら告げる。
彼なりの配慮なのだろう。
「世界の補正を“見過ぎる”と、主観が世界に馴染まなくなる。
どれが採用された現実か、直感的に判断できなくなるんです。
No.3のログは、その過程をほぼ生で記録していましたね」
交差点で読んだ文が、静真の頭の中に蘇る。
『どれが本物の自分だったか、分からなくなる。』
『“採用”されなかった私は、どこへ行くのだろう。』
「中心域に入る観測者の七割は、戻ってこない。
戻ってきた三割のうち、継続して観測を続けられるのはさらに一握り」
「あなたは、その一握りだ」
「そういうことになります」
淡々とした自己認識だった。
その言葉に、自慢の色はない。
ただ、統計の数字として受け止めているだけの響き。
「今夜、あなたはどうするつもりだ?」
静真の問いに、No.5は境界面の奥をじっと見た。
時間の層が、あちら側でわずかに剥がれている。
向こう側には、都市の輪郭があるはずだが、その線が一部だけ霞んでいる。
「私は、内側には入らない」
予想していた答えだった。
「一次観測は、既に経験済みです。
中心域の内側がどうなっているか、概略は知っている。
必要なログも残した。……二度目は、意味が薄い」
「それでも、ここにいる」
「誰かが、“今夜”のデータを外側に持ち帰らなければならないので」
No.5は静真を見た。
フードの影の奥で、その視線だけが鋭く浮かび上がる。
「未番号観測者が、このタイミングで中心縁に触れようとしている。
その行動ログは、Gridにとって価値が高い」
「観測対象としての私、ということか」
「ええ」
あっさりとした肯定だった。
気分を害す種類の言葉ではない。
静真自身、自分を“サンプル”として扱うことに抵抗はない。
ただ、一つだけ確認しておくべきことがあった。
「今夜、この縁から内側へ踏み込むのは、合理的だと考えるか?」
問いに対し、No.5はすぐには答えなかった。
通路の奥──境界面の向こう側で揺らぐ影を、しばらく観察する。
時間密度の揺らぎは、目視でもわかるほど不安定になっていた。
「観測者としては、合理的です」
やがて、短く結論を告げる。
「この規模の再配置は、十年に一度あるかどうか。
中心域がここまで表層に近づく夜は、おそらくそう多くはない。
一次観測を行うなら、今夜の深夜帯が最適でしょう」
「ただし?」
「ただし、人間として生き延びることだけを目的にするなら、合理的ではない」
その言葉には、迷いがなかった。
「中心域の内側は、世界の“未確定フレーム”が剥き出しになっている場所です。
あそこでは、世界のほうがまだ選択を終えていない。
どのフレームを採用するか、決めている最中の層に、観測者として介入することになる」
「観測者が、その選択に影響を与える可能性もある?」
「理論上は。
ただ、影響を与えたとき、その観測者の枝が優先されるのか、むしろ切り捨てられるのか……そこまでは分かっていません」
No.5は、小さく肩をすくめた。
「少なくとも、Gridの統計では、“中心域で強く介入した観測者”は、生き残りづらい傾向にあります」
「介入しなくても、観測だけで負荷はかかる」
「ええ。
だから、まずは“知っておく”べきなんです。
自分が何に踏み込もうとしているのかを」
そこでようやく、話の本題が見えた。
「観測者網に、中心域のログがある?」
「断片なら」
No.5は、パーカーのポケットから小さな紙片を取り出した。
白い紙に、黒いインクで簡素なロゴが印刷されている。
円の中に斜線──そして、その下に小さく「No.5」と書かれていた。
紙片の裏には、短い文字列が印字されている。
URLのようでいて、どの一般的なプロトコルにも該当しない形式。
「観測者Gridのローカルノード。
そこに、中心域の一次観測ログ、死亡記録、裂け目マップなどが集約されています」
「既に、俺のアクセス権は?」
「最低限は付与してあります。
未番号観測者用のL-0権限。
死亡ログと裂け目マップ、それに統計くらいなら読めるはずです」
「それを読み、準備してから来い、というわけか」
「そう解釈してくれるなら助かります」
No.5は、少しだけ口元を歪めた。
それが、この男にとっての“笑い”なのかもしれない。
「無知のまま中心域に踏み込む観測者は、ほぼ例外なく死にます。
統計的事実です。
だから、私はこうやって、わざわざ“余計な介入”をしている」
「あなたは、観測者を守ろうとしている?」
「違います」
即答だった。
「Gridのデータを増やしたいだけです。
死ぬにしても、できるだけ質のいいログを残してから死んでほしい」
「合理的だ」
「そうでしょう?」
通路の奥で、境界面がかすかに波打った。
時間膜の薄い層が、ゆっくりと形を変えていく。
中心域の輪郭が、また少しだけ手前にせり出してきている。
このままここに立ち続けるだけでも、観測負荷はじわじわと蓄積するだろう。
No.5は境界から視線を外し、静真を見た。
「今夜の深夜帯、中心域周辺の観測最適値は、おおよそ二、三時間続きます。
いまから一度戻ってGridを確認し、準備を整えてからでも、間に合う」
つまり──“今この瞬間に突入する”必然性はない。
静真は、紙片を受け取った。
紙の表面に触れた瞬間、指先にわずかな違和感が走る。
単なる紙ではない。
Gridへの一時的なアクセスキーとして、何らかの物理的な符号化が仕込まれている。
「あなたは、今夜はどうする?」
「私は外側にいます。
境界の厚み、削れの頻度、中心域の動きを、できるだけ細かくログに残す。
内側は……あなたの役目です」
いつのまにか、役割が割り振られていた。
それを不自然とは感じなかった。
No.5は、一歩だけ後ろへ下がった。
時間停止の境界面の“こちら側”から、“完全な外側”へ移動する。
その瞬間、彼の影が世界のフレームと再び同期した。
「一つだけ、個人的な助言を」
「聞こう」
「中心域に入る直前に、必ず、自分自身に“基準点”を残しておいてください」
「基準点?」
「どのフレームが採用されても揺らがない、自分にとっての“一点”です。
たとえば、ログ。
ある瞬間の、自分の認識と決意を、外側に固定しておく」
observer_log の最初のファイルを作った夜のことを、静真は思い出した。
『世界の都合より、ログの整合性を優先する。』
あの一文に、自分の観測者としての立場を縛り付けた。
No.5は続ける。
「中心域に入ると、“自分”という概念が、世界と混ざりやすくなります。
どのバージョンの自分が採用されたのか、分からなくなる。
そういうときに、外側に残された記録が、戻るための“目印”になる」
「……なるとは限らない」
「ええ。
でも、何も残さないよりは、わずかにマシです」
それは、観測者としての経験からの言葉なのだろう。
No.5は、通路の入口のほうを顎で示した。
「ここから先は、あなたの問題です。
Gridにアクセスするかどうかも、中心域に踏み込むかどうかも。
私はログを待っています」
そこで、耳鳴りが一段階強くなった。
世界のフレーム同士が、また一枚重なった気配。
削れの前兆。
No.5の輪郭が、ほんのわずかに揺らいだ。
「そろそろ、この削れも閉じます。
戻るなら、今のうちです」
音が、突然戻った。
排気ダクトの唸り、遠くの車の走行音。
腕時計の秒針が、二十三時四十二分四秒へ進む。
停止していた埃が、何事もなかったかのように落下を再開した。
通路の空気は、さきほどまでの粘度を失っていた。
時間膜の厚さは、元のレベルに戻っている。
No.5の姿は、通路の入口付近から消えていた。
本当にそこにいたのかどうかさえ、世界のほうは記録していないかもしれない。
静真は、しばらくその場に立ち尽くした。
さきほど触れた境界面は、もう見えない。
だが、その“位置”は身体が覚えている。
紙片を指先でつまみ直し、ポケットにしまう。
中心域に入る前に、やるべきことが一つ増えた。
観測者Gridへのアクセス。
死亡ログと裂け目マップの確認。
観測者たちの末路と、その統計の把握。
それは、恐怖を煽るための儀式ではない。
単なる前提条件の取得だ。
世界の構造に介入する前に、その“地形図”を頭に入れておく必要がある。
通路を抜け、街灯の下に戻る。
人通りは少ないが、完全に途絶えてはいない。
タクシーが一台、角を曲がっていく。
コンビニの看板が、安定した周期で明滅している。
腕時計は二十三時四十九分を指していた。
観測最適帯のピークまでは、まだ余裕がある。
(今夜の深夜帯のどこかで、中心域には行く。
だが、その前に──)
自宅に戻り、Gridを開く。
No.3の最後のログを、もう一度読む。
他の観測者たちの“死に方”も、確認する。
その上で、どこまで踏み込むかを決める。
それが、久世静真という観測者の選択の仕方だった。
彼は駅とは逆方向に足を向けた。
住宅地へと続く道のほうが、地下鉄への近道だ。
街の明かりが、視界の端でわずかに揺らいで見えた。
都市全体が、ゆっくりと再配置されつつある。
その動きの中で、自分の枝がどこまで残るのか。
どこで切り捨てられてもおかしくはない。
それでも──
「観測は、続ける」
誰に聞かせるでもなく、そう言葉にした。
その一文が、数十分後、observer_log にそのまま写し取られることになる。
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