第1章 第7話 露光する中心点

翌日、空はよく晴れていた。


 雲ひとつない冬の青空に、硬い光がまっすぐ差し込んでいる。

 天気予報は「穏やかな一日」と言っていたが、少なくとも久世静真の内側は、その形容とは程遠かった。


 目を覚ました瞬間から、耳の奥に微細なノイズが張り付いている。

 削れの前兆に似ているが、あの直前の圧迫感まではない。

 世界全体が、ごく薄く震えているような、落ち着かない揺らぎ。


 ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。

 マンションの窓から見える街は、一見いつも通りだ。

 出勤する人間、遠くを走るバス、信号の切り替わり。


 ただ、その全てが、わずかに“重く”見えた。


 フレームレートが落ちている、と言えばいいか。

 普段なら滑らかに流れていくはずの動きが、目に引っかかって残る。


 世界の演算が、これから起こる何かのために、どこかでリソースを積み増している。

 そう仮定する方が納得しやすい、嫌な遅さだった。


 キッチンでコーヒーを淹れながら、スマートフォンの通知欄を確認する。


 深夜二時の通知を最後に、新しい削れアラートは来ていない。

 No.5からの追加メッセージも、なかった。


『中心点は——明日、露光する』


 昨夜届いた短い一文だけが、頭の奥で静かに反芻されている。


 露光。

 隠れていた構造が、一時的に表層に出る。

 観測者からすれば、それは「いちばん見てはいけないものが、いちばん見やすくなる瞬間」を意味している。


 雑な言い方をすれば、今日の削れは「三秒止まりました」で済む類のものではない。

 中心構造そのものが、意図的に露出する。


 時間幅が広がるのか、範囲が広くなるのか、干渉レベルが跳ね上がるのか。

 どのパターンであっても、観測者側にかかる負荷が跳ね上がるのは確定だ。


 コーヒーを一口飲み、タブレットを手に取る。


『本日:中心点露光の可能性あり

 削れ観測優先/通常業務は午前中のみ

 目的:

 ・中心域の空間構造の観測

 ・都市再配置プロセスの具体的パターン把握

 ・自分の観測負荷の許容量測定』


 箇条書きで目的を書き出しながら、自嘲めいた感情がほんの僅かに浮かぶ。


 世界の時間構造を見に行く前にやっていることが、結局「タスク整理とログ計画」という事実が可笑しい。

 フォレンジック技術者は、世界がどれだけ歪んでもやることが変わらないらしい。


     ◇


 午前中は、意図的に「いつも通り」の仕事をこなした。


 クライアントから届いていた追加ログを解析し、

 不審なアクセスをマーキングし、

 報告書のドラフトを作成して、メールに添付する。


 今回の案件は軽い。

 人為的な設定ミスがいくつか見つかったが、システム全体への影響は限定的だ。


 クラウド上の共有フォルダにレポートをアップロードし、送信履歴を確認する。

 モニタに映る自分の顔が、ほんの少しだけ笑っているように見えた。


 都市の時間構造がどれだけ揺らいでいようと、

 企業のインフラはログを吐き続け、人間のミスは数字として蓄積されていく。


 世界の“物理層”と“社会層”は、別々のルールで動いている。

 そのすき間に、観測者としての自分が引っかかっている。


 時計を見ると、十一時を少し回っていた。


 PCを閉じ、イスから立ち上がる。

 外に出る準備をする前に、もう一つだけやっておきたいことがあった。


 部屋の中央に、小型のアクションカメラと音声レコーダーを設置する。

 三脚の高さと角度を微調整し、室内全体が映る位置に固定した。


「削れが露光している間、ここがどう記録されるか、だな」


 自分が中心域に近づいているあいだ、

 世界の別の場所——この部屋——がどう振る舞うのか。


 もし削れが局所現象なら、ここは平常通りの映像になる。

 全域現象なら、何らかのノイズや空白が刻まれる可能性が高い。


 録画開始ボタンを押し、レコーダーの赤いランプが点灯しているのを確認する。

 数時間分なら、バッテリーも記録容量も持つ。


 玄関で靴を履く前に、タブレットに短いメモを残した。


『自室ログ:

 開始=11:23

 用途=中心域観測時の対照データ』


 ドアを閉める音が、いつもより半拍遅れて耳に届いた気がした。


     ◇


 中心点が露光すると予告された座標は、昨日と同じ再開発エリアの中にあった。


 違いがあるとすれば、ピンの位置が数十メートルだけ内側に寄っていること。

 より「核」に近い地点だ。


 電車を乗り継ぎ、駅を出る。

 再開発エリアは、平日の昼にしては人が多い。


 スーツ姿の会社員、ヘルメットをかぶった作業員、警備員、買い物客。

 誰も、世界の時間構造がこれから露出するなどとは思っていない顔をしている。


 だが、静真の目には、彼らの輪郭がわずかに浮いて見えた。


 歩行者の影が、足元から半歩だけ遅れてついてくる。

 遠くを走るバスのタイヤの回転が、フレームごとに微妙にぶれている。


「……膜が薄い」


 世界と世界の間にある“膜”——

 削れが生まれる境界面が、既にこの一帯でゆるんでいる。


 ビルの壁面には、巨大な広告スクリーンが取り付けられていた。

 ファッションブランドの映像がループ再生されているが、

 モデルの歩くステップがところどころ一瞬だけ巻き戻っては、違う軌道を辿る。


 気づく人間はほとんどいないだろう。

 だが、観測者には「フレームの噛み合わせ」が滑っているのが分かる。


 交差点に差し掛かったところで、スマートフォンが震えた。


 画面には、一行だけ。


『——中心域、閾値超過』


 差出人の表示はない。

 それでも、誰から来たかは推測できた。


 No.5。

 観測者ネットワークの、少なくとも一角にいる人物。


 閾値を超えた——

 つまり、中心域の時間密度が、通常の補正処理では捌けない領域に入ったということだ。


 静真は、交差点を見渡せる位置を選び、ビルの影になった歩道の端に立った。

 視界の正面には、ガラス張りの複合商業施設。

 そのファサードに、街と空が反射している。


 境界面を観測するには、こういう反射面が都合がいい。


 耳鳴りが、ごくわずかに音程を上げた。

 人の話し声、クラクション、工事の音——

 それらのボリュームが、誰かがスライダーを下げたように徐々に削られていく。


 信号機の電子音が、ひとつ鳴るたびに薄くなり、

 工事のドリル音が、膜越しの別室から聞こえるように遠のく。


 光もまた、粘度を増していく。


 ビルのエッジに沿って、白い輪郭線がうっすらと滲む。

 影の境界が、普段よりもくっきりと分離して見える。


 削れが、開き始めていた。


 最初に止まったのは、ガラスに映った世界だった。


 ガラスの中の車列が、ぴたりと静止する。

 歩道を渡る人影が、片足を上げた姿勢のまま固まる。


 その一瞬あと、現実側の動きが追従する。


 実物の車が、タイヤを路面に押し付けたまま止まり、

 歩行者の髪が、風に煽られた形のまま静止する。


 音が、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。


 信号機のランプが、黄から赤へ切り替わる途中で止まった。

 その色の境界線すら、空中に固定されている。


 完全停止。


 削れの停止状態自体は、既に何度か経験している。

 しかし、今日の止まり方は、これまでとは質が違っていた。


 静止しているのは、目で見える物体だけではない。

 空気中の塵、ガラスの反射光、路面のテクスチャ——

 それらが、一枚の“静止画”として止まっているのではなく、複数の層に分かれて別々に凍結している。


 ガラスに映る世界と、現実の世界で、

 止まり方に微妙な段差がある。


「……フレームの層がずれてるな」


 現実層と反射層、それぞれが別個のフレーム列で進んでいた。

 削れが露光したことで、その二つの列が、ほんの僅かに異なる位置で止まっているのが見える。


 世界はもともと、ひとつの連続した時間ではなく、

 複数の層が同時並行でフレーム更新されている。


 削れは、その噛み合わせが崩れた時に覗く「隙間」だ。


 視界の中央。

 ガラスの奥に、暗い影が立っていた。


 昨日、中心点のさらに奥に見えた“動いている存在”。


 静止した世界の中で、

 そいつだけがゆっくりとまばたきをしている。


 輪郭は人型に近いが、線が常に揺らいでいる。

 ノイズで描かれた人間、とでも言うべき存在。


 静真は、その影から目を離さないまま、

 自分の内側に意識を沈めた。


 世界の停止に、そのまま同期してしまえば、

 ここで見えるのは「世界が見せたい停止画」だけだ。


 観測者としてやるべきなのは、

 静止したフレームの外へ、半歩だけ出ること。


 自分の中にある「局所時間遅延」と「一秒巻き戻し」の回路に、指先でそっと触れるようなイメージを持つ。


 世界に合わせて動きを止めず、

 自分だけ更新タイミングをずらす。


 耳鳴りが、鋭く跳ねた。

 頭蓋骨の内側で、細い針がこすれるような痛みが走る。


 世界の静止フレームから、自分だけが半歩外へ滑り出る。


 ガラスに映った世界が、“線”になった。


 ビルの輪郭も、道路の端も、車体のシルエットも、

 細かな格子状のラインで構成されている。


 世界のフレーム構造が露出していた。


 都市そのものが、“設計図モード”に切り替わっている。


 削れの露光とは、

 この設計図へのアクセスが、一時的に観測者にも開かれる状態だ。


 ガラスの中の人影——

 No.3なのか、No.5なのか、それとも別の誰かなのか分からない影も、

 格子状のラインの上に立っていた。


 影の足元から、ラインが道路やビルや地下へ向かって、

 何本も伸びている。

 まるで、都市構造のノードを指し示すカーソルのようだ。


 静真は、一秒だけ巻き戻しを試みた。


 自分の脳にどれだけ負荷がかかるか分かっている。

 それでも、中心域が露光しているこの瞬間に確認しておきたいことがあった。


 ——再配置は、単なる自動修復か、それとも“複数候補からの選択”なのか。


 世界から少しだけ視線を外し、

 自分の時間軸を一秒前へ巻き戻す。


 線画の世界が、ふっと薄くなり、

 次のフレームで、線の配置が変わった。


 一本の道路が、わずかに角度を変える。

 隣のビルの高さが、一階分だけ低い。

 一つ奥の路地の幅が、数センチ狭い。


 変化は極小だ。

 だが、確かに「別の配置パターン」が存在していた。


 今見ている都市は、そのうちのひとつの採用結果にすぎない。


「やっぱり、選んでるんだな」


 世界の再配置は、

 無数のパターンの中から“どれかひとつを採用する処理”だ。


 削れは、その採用前後の「差分」が露出している瞬間。


 もう一度巻き戻せば、

 さらに別の配置も見えるかもしれない——そう思った瞬間、

 脳がはっきりと拒絶した。


 吐き気がこみ上げ、視界の端に黒いノイズが走る。

 指先が軽く痺れ、地面との接触感覚が曖昧になる。


「……ここで打ち切りだ」


 限界値は、体感で分かる。

 これ以上巻き戻しを重ねれば、「今の自分」がどこにいるのか認識できなくなる。


 世界の許容量ではなく、自分の認知系の許容量の方が先に破綻する。


 ガラスの向こうの人影が、こちらを向いた。


 顔の造作は相変わらず分からない。

 ノイズの塊が、形だけ人間の頭部を模倣しているような輪郭。


 それでも、「見られている」という感覚だけは確かだった。


 影はゆっくりと手を上げる。

 それが挨拶なのか、警告なのかは、判断がつかなかった。


 次の瞬間、

 線画の都市が、一気に折り畳まれた。


 格子状のラインが、

 中心点の奥へ吸い込まれるように収束する。


 視界が白に跳ねた。


     ◇


 気がついたとき、静真は交差点脇のビルの影で、壁にもたれかかるように座り込んでいた。


 喉の奥に、金属の味が残っている。

 舌先で確かめると、軽く噛んだらしく、血がにじんでいた。


 世界は、動いていた。


 車が走り、信号が切り替わり、人が歩き、工事の音が響いている。

 削れは、すでに閉じている。


 頭痛はまだ残っていたが、

 さきほどのフレーム構造の残像は、もう視界から消えていた。


 正面の複合施設のガラスに目を向ける。


 そこに映る街並みは、一見すると、何の変哲もないいつもの景色だ。

 だが、その右隣が違っていた。


 昨日まで、低層の古い雑居ビルが建っていたはずの場所に、

 小さな公園ができている。


 新しい砂場と、銀色のベンチが二つ。

 植えられたばかりの若木が、風に揺れている。


 記憶と、現実が一致しない。


 スマートフォンを取り出し、地図アプリを開く。

 ストリートビューの過去履歴に切り替える。


 数ヶ月前の画像には、古い外壁と、油で汚れた看板を掲げた三階建ての雑居ビルが写っていた。

 ラーメン屋、マッサージ店、小さなバー。


 最新の画像では、その場所に最初から公園がある。


 世界は、「昔からこうだった」としてログを書き換えている。


 削れの露光中に見た「複数の配置」のうち、

 公園のあるバージョンが採用された。


「……再配置の第一段は、ここか」


 つぶやきは、自分の耳にもかすかにしか届かなかった。


 削れは単に時間を三秒止める現象ではない。

 世界のフレーム構造が露出し、

 その裏で都市の配置が再選択され、その結果が「過去ごと確定」するプロセスだ。


 観測者は、その選択前後の差分を、否応なく知覚してしまう。


 ポケットの中で、カードの角が冷たく指に触れた。


 スマートフォンが、短く震える。


『——再配置、第一段階完了』


 新しい通知。

 差出人表示はないが、文体は見覚えがある。


 続けて、二通目が届く。


『記憶と現実の差分は、観測者の負荷になる。

 差分を保持するか、世界に合わせて捨てるかは、お前が選べ。

 ——No.5』


 差分を保持する、というのは、

 「消えた雑居ビル」を自分の中で現実として維持し続けることだ。


 世界は、公園が“唯一の現実”だと主張している。

 それに従えば、頭痛もノイズも、今よりは軽くなるだろう。


 差分を捨てるというのは、

 観測者としての視点を手放す方向に近い。


 久世静真は、微かに息を吐いた。


「選択の形をしているが、実質的には確認だな」


 数字の整合性の乱れを見過ごせない性格は、今さら変わらない。

 世界のログが書き換わっていると分かっていながら、

 それを「仕方ない」と流せるほど鈍感でもない。


 消された過去と、新しく上書きされた過去。

 その両方を持っていなければ、何がどう変わったのか検証できない。


 観測者とは、

 世界と世界の間に発生する“差分ログ”を抱え込む存在だ。


 公園のベンチに座っている親子を眺めながら、

 静真は頭の中で、もともとそこにあったビルの輪郭をなぞった。


 外壁のひび、狭い階段、古い看板の文字。

 もうどこにも残っていない情報。


 だが、少なくとも今は、自分の記憶の中にある。


「……保持する」


 声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。


 それでも、その瞬間、胸の内側で何かが定位置に落ち着いた感覚があった。

 観測者としてのスタンスが、はっきりと決まった。


 世界の書き換えを、「なかったこと」にしない。


 スマートフォンが、再び震える。


『選択を確認した。

 なら、次は“観測者の死”を見てもらう。

 ——No.5』


 短い文の下に、さらに一行が追記される。


『No.3が消えた地点のログを送る。

 ここから先は、本当に戻れない』


 数秒後、新しい通知がポップアップした。


 緯度と経度。

 都内の、別の交差点の座標。


 地図アプリに打ち込むと、

 今いる再開発エリアから少し外れた、環状線上の一点がハイライトされた。


 都市歪曲のリング。

 その上に並ぶ歪みの一つが、No.3の消えた場所らしい。


 第一段階の再配置が終わり、都市構造は次のフェーズに入ろうとしている。

 観測者としての役割もまた、次の段階へ移る。


 静真は、軽く頭を振って立ち上がった。


 頭痛はまだ残っている。

 視界の端には、微かなノイズがひっかかる。


 だが、その痛みもノイズも、

 もはや単なる不快感ではなかった。


 世界の構造変化と現実のズレを保持するための、

 必要経費だと割り切ることができる程度には、状況は明瞭になっている。


 消えたビルと、現れた公園。

 それは、世界が自分の都合で過去ログを書き換えた証拠だ。


 その証拠を、手放さないと決めた以上——


「……No.3のログも、見ておく必要がある」


 自分がこれから踏み込もうとしている場所で、

 何が起きて、何が失われたのか。


 それを知らずに進むのは、

 技術者として単純に不愉快だった。


 交差点を離れながら、静真はふと空を見上げた。


 冬の陽光は、何事もなかったかのように都市を照らしている。

 再配置されたばかりの新しい公園も、

 そこに「最初からあった」顔で光を受けていた。


 世界は、表面上、何も変わっていない。

 変わったのは、世界の裏側の構造と、

 それに気づいてしまったごく少数の人間——観測者だけだ。


 No.3が消えた地点へのルートを、スマートフォンが淡々と示している。


 そこから先が、本当の“戻れない地点”になる。

 そう理解しながらも、

 足は迷いなく、次の歪みへ向かっていた。

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