第1章 第6話 都市の再配置
翌朝、久世静真は、スマートフォンに残された通知を見つめたまま、しばらく動けなかった。
『――平均値が崩れた』
『中心が動いている』
短い文だが、削れの発生間隔が「一定ではなくなった」ことを意味している。
つまり、削れが自然発生するのではなく、何らかの意思か構造的理由によって“動的に変化している”ということだ。
その事実だけで、都市の異常は次の段階に入った。
コーヒーメーカーをセットし、紙フィルタに湯が落ちる音を聞きながら、頭の中で昨夜の推論を整理する。
削れは
『世界のフレームのズレ』
であり、
『都市の演算負荷の結果』
だという仮説。
だとすれば、中心点が動くという現象は、都市の“密度そのものが再構成されている”可能性に繋がる。
街のどこかで、過密状態が限界に達した。
フレームが耐えきれず、世界の補正が走った。
その衝撃が削れとして露出し、中心点が動き始めた——。
理屈としては分かる。
だが、何がそこまで都市の密度を押し上げているのか。
仕事で扱うデータからは読み取れない“何か”が存在している。
コーヒーを口に含み、喉を湿らせた。
苦味と酸味が舌に広がる。
集中が戻る。
静真は、PCを立ち上げ、昨夜抽出したログの時刻をもう一度確認した。
削れの痕跡がありそうな一秒飛びのログは、全部で十一箇所。
それだけなら、ネットワークの揺らぎとして説明できる。
だが、問題は位置だ。
都市地図と照らし合わせると、十一箇所のログは全て
円形の周縁部
に沿うように並んでいる。
「……環状の波、か」
中心点から外側へ広がるような波。
あるいは、外側から中心に向かう収束。
どちらにせよ、自然現象というより“設計”を感じさせる規則性だ。
さらに地図を拡大し、周囲の施設・交通量・通信量を照合する。
商業ビル、駅、データセンター、病院。
都市の情報密度が集中しやすい地点が多い。
「意図的に密度を高めているのか、自然的に飽和したのか……」
理由はまだ分からない。
ただ、この“円”はおそらく削れの中心点の移動範囲を示している。
そして最後に削れが起きたのは、自分が目撃した交差点付近。
つまり——
中心点は、あのエリアから少しだけ動いた。
そこから計算すると、次の削れは—
思考がそこで遮られた。
耳の奥に、昨日の夜と同じノイズが走る。
静真は即座に立ち上がり、部屋の中を見渡した。
削れの前兆ならば、世界の膜が薄くなる感覚――
だが、今はそれがない。
代わりに、玄関のポストが軽く鳴った。
この時間に郵便は来ない。
明らかに、誰かが意図的に入れた。
スリッパを履き、玄関に向かう。
ポストを開けると、昨日と同じ白い封筒が入っていた。
封を切る。
中には一枚のカード。
そして、メモ用紙に短い文字。
『No.3は“中心点の移動”を追って死んだ。
同じ道を辿るなら、理解してから進め。
削れは現象ではない。構造だ。
——No.5』
「……No.5?」
観測者ネットワークの中で、番号が大きいほど“下位”というわけではないらしい。
むしろ、前後のレスを読む限り、No.3とNo.5はほぼ同格か、それ以上の知識を持つ。
カードを光にかざす。
昨日の「3」と同じ質感のカードに、今度は「5」の数字。
つまり、観測者は少なくとも五人以上存在する。
だが、No.3は最後の書き込みから姿を消した。
その後のカードも届かなくなった。
死んだのか、意識を失ったのか、世界の奥層に飲み込まれたのかは分からない。
ただ、No.5はそれを“死”と表現している。
観測者が死ぬというのは、何がどうなる状態なのか。
肉体的な死ではなく、“観測者としての死”である可能性。
世界のフレームに飲まれ、個の認識が溶ける。
そういう形の「死」もあり得る。
メモには続きがあった。
『中心点は今日、再配置を始める。
位置は——』
その瞬間、スマートフォンが震えた。
画面には、差出人不明の新しい通知。
『——削れ発生』
現在時刻の横に、座標データが二行だけ添えられている。
緯度・経度。
都内を示す数値。
地図アプリに打ち込むと、交差点から南東方向へ二キロほど――
再開発中のビル群が並ぶ地域
がハイライトされた。
人の出入りが急増し、地下インフラも複雑に入り組んだ場所。
都市密度の高さは間違いなく“限界級”。
「……そこか」
偶然ではない。
都市の構造そのものが“削れやすい状態”にある地域だ。
静真はコートを掴み、部屋の灯りを消す。
玄関を開ける直前、タブレットに短くメモを残した。
『削れ:再配置兆候。
座標、都市密度、高リスク。
No.5警告→保留。
目的:一次観測。』
ドアを閉め、階段を降りる。
冷たい外気が頬を刺す。
都市は今まさに、
“再配置”という名の更新処理
を始めている。
その中心点が動き出したなら、
観測者の認識も、次の層へ押し上げられる。
◇
削れの座標に近づくにつれ、街の空気が微妙に変わっていく。
人通りの多いエリアのはずなのに、妙に静かだ。
電光掲示板の明滅が、普段より一拍遅れているように見える。
「……時間密度が落ちている」
削れは“時間の溜まり”ではなく、“時間のスリップ”だ。
それが大規模に発生すると、都市の構造そのものが揺れる。
ビル群の隙間を抜け、大通りへ出た。
座標の中心は、再開発中の複合商業施設。
巨大なクレーンが二基、上空に伸びている。
その瞬間——
世界が、わずかに遅れた。
車の走行音が一拍だけ伸び、信号機の点滅が一瞬だけ引き延ばされる。
削れの前兆だ。
静真は呼吸を抑え、耳鳴りと光の粘度の変化を感じる。
世界の膜が、少しずつ薄くなっていく感覚。
一歩進むごとに、空気の密度が変わる。
時間のフレームが、崩れ始めている。
ビルの壁面のLED画面が、途中のコマで止まった。
歩行者が足を上げた姿勢のまま静止する。
音が剥がれ落ちていく。
視界の端で、クレーンのワイヤーが揺れた状態のまま止まる。
完全停止。
世界が、削れの“内側”へ落ちた。
静真は息を潜め、中心点の方向へ目を向けた。
ビルとビルの間にある空間が、
黒い“穴”のようにゆっくりと膨らんでいる。
裂け目の上位版――
本格的な削れの中心点。
その内部では、世界が演算されていない。
フレームが欠落した空白の領域。
No.3は、ここを追いかけて死んだのだろう。
静真は、一歩だけ前に進んだ。
中心点の縁から、透明な“波”のようなものが外側へと脈打つ。
触れてはいけない。
だが、もっと近くで見なければ、世界の構造は分からない。
観測者として、ここが“次の層”だ。
そのときだった。
静止した世界の中央で、
誰かがまばたきをした。
削れの内側に、
“動いている存在”
がいる。
世界の外側に立っているのは、自分だけではない。
その人物の全貌を確認する前に——
視界が急激に歪んだ。
耳鳴りが爆発的に大きくなり、世界が反転するような感覚。
次の瞬間、世界が通常速度に戻った。
車が走り出し、歩行者が動き、クレーンのワイヤーが揺れる。
削れは、終わった。
そして、削れの中心点の奥にいた“人物”は跡形もなく消えていた。
「……観測者、か。あるいは——」
言葉の続きを呑み込む。
世界の構造が動き始めた以上、
当然、観測者だけが反応するわけではない。
そこにいたのは、おそらく自分と同じ“外層に踏み入った者”。
もしくは、さらに上位の存在。
その正体を探るためには、削れの中心にもっと近づく必要がある。
だが、それはおそらく“危険域”だ。
No.3が死んだ場所。
No.5が警告した場所。
自宅へ戻る途中、スマートフォンに新しい通知が届いた。
『——中心点の観測を確認した。
No.3のように死にたくなければ、次の削れを待て。
中心点は――明日、最大化する。
——No.5』
明日。
削れの中心が最大化する。
削れの目的——
都市の“再配置”が本格的に動く瞬間が来る。
そして、静真は知っている。
その瞬間、観測者が世界の深層に触れることになる。
触れた瞬間、世界がどう反応するのか。
人間はどこまで耐えられるのか。
その答えを知る準備は、まだ整っていない。
だが、次の削れが“最大化”するというなら、
観測者として踏み込むしかない。
静真は拳をゆっくりと握り、息を整えた。
「明日で、入口が終わる」
世界の構造は、次の段階へ進む。
観測者の認識も、次の層へ押し上げられる。
削れの中心点が最大化する日は——
世界そのものが書き換わる日だ。
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