第1章 第5話 観測者の閾値

交差点から離れ、自宅に戻ったのは昼過ぎだった。


 エレベーターを降り、無人の廊下を歩く。

 いつもと同じ景色のはずなのに、壁紙の模様や手すりの質感が、ほんの少しだけ違って見えた。


 削れを一度、裂け目を一度。

 短時間で二種類の異常を連続して観測したせいだろう。


 玄関で靴を脱ぎ、リビングに入ると、その場で立ち止まった。

 部屋の配置は何も変わっていない。

 白とグレーを基調にしたワンルーム。

 壁際に置かれたワークデスク、トリプルディスプレイ、ソファ、ローテーブル。


 だが、空気の密度だけが違う。


 世界の“膜”が、ここにも薄くなり始めている。


 ポケットからカードを取り出す。

 黒地に白い「3」の数字が刻まれた、あのカードだ。


 光にかざすと、数字の輪郭がわずかに揺らぐように見える。

 以前は感じなかった微細な変化。


「……観測者の側が、世界に引き寄せられているのか。あるいは、世界のほうがこちらに厚みを合わせてきているのか」


 どちらにせよ、境界線は曖昧になりつつある。


 ソファに腰を下ろし、テーブルの上にタブレットとスマートフォン、カードを並べた。

 軽く目を閉じ、頭痛の位置を確認する。


 鈍い痛みは、後頭部の奥から側頭部にかけて広がっていた。

 神経系に負荷がかかっていることだけは確かだ。


 削れを観測すること自体が、脳の処理能力をギリギリまで使う行為なのだろう。

 通常の時間感覚の上に、別のフレームを重ねて認識しているのだから、無理もない。


 頭痛が日常生活に支障をきたす前に、自分の「閾値」を把握しておく必要がある。


「実験、だな」


 自分に言い聞かせるように呟き、タブレットの録音アプリを起動した。


「実験二回目。対象は室内環境。目的は局所時間遅延の制御の可否と、副作用の強度測定」


 独り言のように状況を読み上げてから、一度録音を止め、ファイル名を付ける。

 フォレンジックの現場と同じだ。

 記録を残さない観測は、検証可能性に欠ける。


 テーブルの上のペットボトルの水を一口含み、喉の渇きを誤魔化す。

 視界の端で、秒針付きのアナログ時計が、静かに時間を刻んでいる。


 対象を決める。


 今回は、床に置かれたスマートフォンではなく、もっと軽く、動きの少ないものを使うべきだろう。

 視覚的な変化が明確で、かつ危険性の低い対象――


 テーブルの上のマグカップに注がれた水滴。

 ペットボトルの口から、ゆっくりと滑り落ちる一滴。


 視線をそこに固定する。


 世界の連続性に割れ目があると仮定し、その割れ目の位置を意図的にずらす。

 前回、自室で時間停止を起こしたときの感覚を思い出す。


 耳鳴り。

 光の粘度。

 呼吸のテンポ。


 脳のどこかにある「観測モードへのスイッチ」に、意識を合わせるように。


 マグカップの縁から零れかけた水滴が、重力に従ってわずかに形を崩す——

 その瞬間を、内側から掴みにいく。


 世界が、軋んだ。


 照明の光がわずかに濁り、時計の秒針が鈍くなる。

 耳鳴りが、ゆっくりとした波のように広がる。


 だが、完全な静止には至らなかった。


 時計の針は、遅れながらも進んでいる。

 冷蔵庫のモーター音も、絞られたような音量で続いている。


 これは停止ではなく、「減速」だ。


 マグカップの縁から落ちるはずだった水滴が、空中でわずかに速度を失う。

 落下するというより、引き延ばされたゼリーの塊が、ゆっくりと形を崩していくような動き。


「……局所時間遅延、か」


 自分の声は、通常と変わらない速度で耳に届いた。

 世界全体ではなく、視線の先の「一帯だけ」が減速している。


 視覚と聴覚の時間分解能が、一時的に世界の演算より上位に移動した――

 そういう印象。


 意識を緩めると、すぐに水滴は通常の速度に戻ってテーブルに落ちた。

 遅延は、せいぜい一〜二秒程度だ。


 脳の奥で、微かな眩暈が広がる。


 停止と違い、遅延は「世界の側の演算速度」と「観測者の処理速度」のギャップを直接生む。

 その差分を埋めるために、通常以上の演算が脳に走る。


 負荷は、停止より大きいかもしれない。


 息を整え、録音を確認する。

 テーブルに落ちる水滴の音が、一瞬だけ妙に長く伸びて聞こえる部分があった。

 人間の耳には聞き取れないはずの、音の立ち上がりから減衰までの細部が、過剰に強調されている。


 録音データの波形も、その部分だけ密度が異常に高い。


「……こちらの認識だけじゃない、か」


 観測者である自分の体感だけでなく、

 マイクという機械の側にも「異常な一瞬」が刻まれている。


 削れが世界のフレームの穴だとすれば、

 この局所遅延は、観測者が意図的にフレームの間隔を広げた状態。


 世界と観測者の間に、

 一瞬だけ余白を作ることに成功している。


 問題は、どこまで制御できるかだ。


 静真は、もう一度マグカップの水面を見つめた。

 今度の目的は、遅延ではなく、ごく短い「巻き戻し」の発生。


 自室でスマートフォンを落としたとき、

 世界の計測上では一秒しか経過していないのに、

 自分の体感では五秒以上の時間があった。


 録音データにも、「無音の空白」と「突然の落下音」という形で、その齟齬が残っていた。


 あれを、意図的に起こせるかどうか。


「実験三回目。対象は同じく室内環境。目的は一秒巻き戻しの制御の可否」


 録音アプリにそう言い残し、テーブルの上のボールペンに視線を固定する。

 わざとペンを倒し、その動きを眼で追いながら、さきほどと同じように世界の割れ目を探る。


 ペンがテーブルの上を転がり、端から床へ落ちる——

 その瞬間を、「後から掴みにいく」イメージ。


 意識が、世界の時間軸から半歩だけ外れる。


 耳鳴りが高くなり、頭の中で何かがきしむ音がした。


 床にぶつかるペンの音が、

 本来のタイミングより一拍遅れて聞こえる。


 視界がわずかに暗転し、

 時計の秒針が、〇・五秒ほど逆向きに動いた。


 床に転がっていたはずのボールペンが、

 テーブルの端に戻っている。


「……成功、か」


 口に出した瞬間、胃の奥から嫌な感覚が込み上げた。

 軽い吐き気。

 視界の端に黒いノイズが走る。


 ソファの背にもたれ、天井を見上げる。

 額に冷たい汗が滲んでいた。


 一秒の巻き戻し。

 物理現象としては、ペンの位置が一秒前の状態に戻っただけだ。


 だが、その過程で、自分の脳は「世界の時間軸から外れた状態」と「通常の時間軸」を往復している。

 その揺り戻しが、強い負荷となって感覚系を襲っている。


 しばらく呼吸を整え、吐き気が引くのを待った。


 録音を再生すると、「ペンを倒した音」と「床に当たる音」の間に不自然な空白があり、

 その直前直後で時計の秒針の音が僅かに逆転しているのが分かった。


 録音機器は世界の側に属しているはずだ。

 それにも関わらず、世界の時間軸が一瞬だけ折り返された痕跡が残っている。


「観測だけじゃない。……介入だな、これは」


 削れの観測は、世界の構造を「見る」行為だ。

 局所遅延は、世界と観測者の間に余白を作る行為。

 巻き戻しは、その余白を利用して、時間の流れに「手を入れる」行為。


 目の前の現象を整理すると、

 自分が既に「観測者」から一歩進んだ段階に足を踏み入れつつあることが、嫌でも分かった。


 世界はおそらく、観測と介入の境界に対して、何らかの制限を設けている。

 そうでなければ、誰もが好き勝手に時間を弄り、構造そのものが崩壊しているはずだ。


 その制限は、おそらく人間の側の「脳の耐久度」として現れている。


「……現時点での閾値は、遅延数秒、巻き戻し一秒か」


 タブレットにそう記録し、能力の仮設定を整理していく。


・停止(削れ)は、世界側の現象 → 自発制御不可、観測のみ

・局所遅延は、自発制御可能。ただし範囲と時間はごく短い

・巻き戻しは、一秒が限界。それ以上は、体感的に危険


 観測者としての最低限の仕様が、ようやく形になり始めた。


     ◇


 時間操作の実験を終えたあとは、通常の仕事に戻った。


 フォレンジック調査の継続案件。

 別の企業からのログ解析依頼だ。


 複数のサーバログを集約し、アクセスの相関関係を洗う。

 ユーザID、IPアドレス、タイムスタンプ、操作内容。


 画面に並ぶ数字の列は、世界の裏側にあるもう一つの「時間の層」だ。

 コンマ秒単位の遅延、パケットロス、リトライのタイミング。


 こうして見ていると、世界は元々フレーム単位で動いているのではないかという感覚が強くなる。


 単に、通常の人間はそのフレームの細かさを意識していないだけで。


 削れは、そのフレーム同士の噛み合わせがずれたときに露出する「隙間」だ。


 観測者は、その隙間を見てしまう人間。

 自分もその一人。


 そう考えると、今やっているログ解析の作業も、

 削れの構造を理解する助けになる。


 タイムスタンプの一部が、三秒ではなく一秒だけ飛んでいるログを見つけた。

 あくまでネットワークの混雑やログ出力の遅れで説明できる範囲の値だが、

 その飛び方に、妙な規則性があった。


 一定間隔ごとに、綺麗に一秒だけ空白ができている。


 通常の監視対象から見れば誤差の範囲内で、運用上の問題にはならないレベル。

 だが、「削れ」を知ってしまった観測者の目には、別のパターンとして映る。


 静真は、疑わしいログをいくつか抽出し、個人用のフォルダに放り込んだ。

 仕事の報告書には含めない。

 これは、別の調査対象だ。


 ログの時刻と、都市の地図を重ねていく。

 削れの発生地点と関係があるのかどうかを確認するために。


 作業に没頭していると、いつの間にか夕方になっていた。

 西日が窓から差し込み、部屋の中の影を長くする。


 ふと、ブラウザのブックマークに入れたまま放置していたリンクに目が止まった。


 数年前、とある案件の調査中に見つけた匿名掲示板の過去ログ。

 技術者同士がセキュリティの話題やバグ報告を交換している地下フォーラムだ。


 その中に、「三秒だけ時間が消える」というスレッドタイトルがあったのを思い出す。

 当時は都市伝説めいた話として流し読みしただけだが、今は違う意味を持つ。


 リンクを開き、アーカイブされたログをスクロールする。


『三秒だけ時計が飛ぶ現象に遭遇した奴いる?』

『ログも映像も綺麗に三秒抜けてて笑えない』

『仕様だろ(なお再現性は不明)』


 冷やかし半分のレスが多い中、一つだけ気になる書き込みがあった。


『それ、削れだよ。追いかけると死ぬやつ』


 投稿者のハンドルネームは、「No.3」。


 数年前の書き込みだ。


 文体は簡潔で、無駄がない。

 その後も、「削れ」に関する短いレスをいくつか残している。


『三回以上、自発的に観測すると戻れなくなる』

『裂け目の中には入るな。あれは観測点じゃなく、演算の抜けだ』

『平均は七十二時間。でも都市の負荷が上がると短くなる』


 どのレスも、今の自分の状況に妙にフィットする言葉だった。


 最後の書き込みは、三年前の日付で止まっている。


『中心に近づきすぎた。あとは任せる』


 それ以降、「No.3」の名前はスレッドに現れていない。


 死んだのか、

 観測をやめたのか、

 別の層へ移動したのか。


 少なくとも、今自分の手元にあるカードを送ってきた「No.3」は、

 この投稿者と同一人物か、あるいはその系統を継いだ誰かだ。


 世界のどこかに「観測者ネットワーク」が存在し、

 削れのパターンを追い続けてきた集団がいる。


 その末端に、自分もひっそりと接続されたのだろう。


 ブラウザを閉じ、深く息を吐いた。


 三回以上、自発的に観測すると戻れなくなる――

 そのレスを、脳がしつこく反芻する。


 サーバルーム、喫茶店、自室、交差点、路地。

 明確に意図して観測した回数を数えると、すでにそのラインは超えかけている。


 世界のほうがこちらを「観測者」として確定した以上、

 もう「戻る」という選択肢は、ほとんど意味を持たないのかもしれない。


     ◇


 その夜、スマートフォンは静かだった。


 削れ発生の通知は来ない。

 No.3からのメッセージもない。


 七十二時間という平均値が正しければ、

 次の大きな削れまで、あと二日以上ある計算になる。


 問題は、「平均」という言葉だ。


 都市の負荷が上がると短くなる――

 地下フォーラムのログにそう書かれていた。


 都市の負荷が何を指すのかは分からない。

 人の数か、情報量か、歴史の蓄積か。


 ただ、少なくとも今の東京は、

 人間活動と情報の密度という点で、世界でも有数の“重い都市”だ。


 平均値から外れることも、十分あり得る。


 ベッドに横になり、天井を見上げる。


 目を閉じると、交差点の横断歩道の歪んだ白線や、

 路地の奥にぼんやりと浮かんでいた影の輪郭が、映像として蘇る。


 削れを追いかけると死ぬ――

 No.3の古い書き込み。


 職業柄、「死ぬ」という表現はあまり好まない。

 曖昧さが大きすぎる。


 身体的な死か、

 観測者としての死か、

 人間としての連続性の死か。


 何がどこまで失われるのかを定量化できない限り、その警告は「参考情報」でしかない。


 ただ、警告として残されるということは、

 少なくとも何かが失われた事例が実際に存在する、ということだ。


 自分はそのリスクを理解しながら、

 意識的に観測を続ける道を選んでいる。


 冷静かどうかで言えば、

 冷酷に近い選択だ。


 自分自身の感覚に対してさえ。


 眠りに落ちる直前、耳の奥でかすかなノイズが走った。

 削れの前兆に似ているが、それよりも弱い。


 翌朝、目を覚ましたとき、

 スマートフォンの画面に、見慣れない通知が一つだけ残っていた。


『――平均値が崩れた』


 差出人不明。

 時刻は、深夜二時一分三十二秒。


 サーバルームで最初に三秒の欠落を見つけたときと、

 ほぼ同じ時刻だ。


 通知の下には、短い追記があった。


『中心が動いている』


 七十二時間という平均は、

 もはや意味をなさない。


 都市のどこかで、

 削れの中心が本格的に「再配置」を始めている。


 観測者の閾値を超えた先にあるものを、

 世界のほうがこちらに見せようとし始めたのだろう。


 久世静真は、スマートフォンを握りしめたまま、しばらく動かなかった。


 世界の外側からこちらを見ている何者かと、

 こちら側から世界の構造を覗き込み始めた自分と。


 その視線同士が、

 いよいよ正面から交差しようとしている。


 そう直感しながら。

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