第1章 第4話 削れ地点

渋谷駅から少し外れたエリアは、昼と夜で印象が変わる場所だった。


 昼間はカフェとオフィスが混在し、人の流れが途切れない。

 だが、午前十一時台という中途半端な時間帯は、通勤のピークも過ぎ、ランチにはまだ早い。

 駅前の雑踏から数ブロック離れるだけで、歩道を行き交う人間の数は一気に減る。


 スマートフォンの地図アプリに表示された赤いピンは、その「少し外れた」エリアの一角を指していた。

 雑居ビルと古いコインパーキング、くすんだ看板が並ぶ交差点。


 座標は、車道と歩道の境界をかすめるように配置されている。


「……この辺りだな」


 久世静真は、交差点の全景を一度視界に収めた。


 四方向に伸びる道路。

 一角にはコンビニ、別の角には小さな弁当屋、その斜向かいに古いビルの入り口。

 信号機はまだLED化されておらず、赤と青のレンズが並ぶ昔ながらのタイプだ。


 気配は静かだ。

 行き交うのは、たまに通り過ぎる会社員と配送トラックくらい。


 削れが起きるなら、こういう「周囲のノイズが薄い場所」のほうが観測しやすい。


 交差点の隅に立ち、周囲の構造を一つずつ確認していく。

 信号機の位置、電柱の数、張り巡らされた電線の向き、ビルの高さ、車道と歩道の段差。


 視線を足元に落としたとき、違和感に気づいた。


「……線が、ずれている」


 横断歩道の白線。

 アスファルトに塗られた帯の一部分だけ、わずかに歪んでいる。


 塗料の劣化、施工ミス、車のタイヤによる削れ――

 そういった自然な要因で説明できる歪みではない。


 一本の白線の途中から、ペイントが三センチほど“手前”に寄っている。

 線の幅や色は同じだ。

 だが、歪みの境界があまりに滑らかすぎた。


 まるで「三秒前の位置で固定された断面」と、「今の位置の断面」が継ぎ目なく繋がっているかのような、そんな違和感。


 しゃがみ込み、指先で境界部分をなぞる。

 塗料の段差も、ざらつきも感じられない。

 物理的には一枚の塗装面として連続している。


 だが、視覚情報だけが断絶している。


 世界のほうが「そういう塗装だった」として書き換えた結果、

 物理と時間の整合が甘くなった箇所。


 削れの“縁”に近い。


 立ち上がり、道路の反対側へ回り込む。

 角度を変えて見ても、歪みは消えない。

 歩道とガードレールの間の影の付き方も、そこだけ僅かにずれている。


 目を閉じて三秒カウントし、再び開いた。

 歪みはそのままだった。


「補正の残骸、か」


 世界が三秒分の時間を削り取った後、

 整合性を保つために構造を上書きする。


 その“上書き処理”が追いつかなかった部分だけが、こうして視覚ノイズとして残る――

 そう考えれば筋は通る。


 問題は、その削り取りの中心がどこにあるか、だ。


 スマートフォンの画面には、赤いピンの座標と現在位置がほぼ重なって表示されている。

 GPSの誤差を考慮しても、交差点周辺十メートル以内が“現場”であることは間違いなかった。


 静真は、横断歩道の中央に立った。

 信号は青だ。

 車の気配はない。


 耳鳴りが、かすかにした。


 最初は、空調設備の低い唸りと区別がつかない程度の微音。

 だが、それが徐々に、脳の内側へ沈み込んでくるのが分かった。


 世界の粘度が上がる。


 光に重さが乗る。


 遠くで鳴っていたクラクションが、深海へ沈むように遠ざかる。


 信号の赤と青が入れ替わる瞬間、そのどちらも点灯していないフレームが、妙に長く感じられた。


「……来るか」


 抵抗する理由はない。

 むしろ、ここで起きる現象を正面から観測することが、今の自分にできる唯一の合理的な行動だった。


 息を一度だけ深く吸い、吐く。

 心拍数を意識的に落とす。


 次の瞬間、音が消えた。


 交差点を通り過ぎようとしていたトラックのタイヤが、路面との摩擦音を立てたまま固定される。

 運転席の運転手がハンドルを握る手の形も、窓ガラスに映る街並みも、その瞬間のまま止まっている。


 信号機の青いランプは、点灯途中の中途半端な明るさで静止していた。

 LEDではなく、旧式の電球のフィラメントが、わずかに揺らめいた状態で固定されている。


 時間が、また止まった。


 サーバルーム、自室、喫茶店に続く四度目の停止。

 今回は、明らかに「削れ」を観測する意図を持ってここに立っている。


 静真は、交差点の中央で周囲を一周見渡した。


 遠くのビルのガラスに映る空。

 中空で止まったカラス。

 歩道に片足を残したまま停止しているサラリーマンの靴。


 世界全体が、巨大な静止画になったような静寂。


 ただ、一箇所だけ、静止状態が不完全な場所があった。


 交差点の角と角をつなぐように伸びる狭い路地。

 コンビニと古いビルの隙間にある、その細長い空間だけが、色の濃さを変えている。


 視覚的には変わらない。

 だが、そこだけ空気の密度が違う。


 足を一歩、路地の方へ向ける。


 靴底がアスファルトを踏む感触は、通常と変わらない。

 高さも、硬さも、ザラつきも、いつもの道路だ。


 ただ、横断歩道から路地に足を踏み入れる境界線のところで、

 世界の“厚み”が変わった。


 膜を一枚、くぐったような感覚。


 路地に入った途端、静寂の質が変わる。

 交差点の静止が「世界が止まっている」とすれば、

 ここでの静寂は「外界から切り離されている」に近い。


 削れの中心とは、別種の異常。


 世界のフレームが、何枚か抜けたまま固定されているような空間だ。


 壁面の配管が、途中で微かに歪んでいる。

 煙草の吸殻が宙に浮いたまま、地面に落ちる直前の形で止まっている。


 削れの「静止」とは異なる、

 「歪み」の兆候。


 路地の奥は、薄暗かった。

 昼間にもかかわらず、奥に向かうほど光の量が減っていく。

 建物の構造上の問題では説明しづらい暗さだ。


 その暗がりの中に、一瞬、人影のようなものが見えた。


「……」


 長身の人間が、路地の奥で静かにこちらを見ている――

 そんな印象。


 だが、よく目を凝らすと、その影は輪郭を持っていなかった。

 壁の黒ずみと、空気の揺らぎが重なったような、曖昧な形。


 近づこうとした瞬間、耳鳴りが一段階強くなった。


 削れの停止時間には、限界がある。

 サーバルーム、自室、喫茶店――

 どのケースでも、自分の体感で数秒から十数秒程度が限界だった。


 無理をすれば、頭痛や吐き気が強くなる。

 世界の側の「補正」が働き、自分の観測を強制的に押し戻してくる。


 今も、その限界が近いのを、身体が知っていた。


 路地の奥の影は、動かなかった。

 こちらに近づいてくることも、手を振ることもない。


 ただ、“観測されること”を受け入れている静止物のように、そこに存在していた。


 削れは、観測者を選別するプロセス。

 ならば、この影は――その結果として残された「先行者」の残滓かもしれない。


 No.3。

 カードに刻まれた数字と、「No.3が見ている」という通知。


 影の存在と、それらが直結しているかどうかは分からない。

 ただ、路地全体から漂う空気は、交差点の静止とは質が違った。


 削れが「世界のフレームの穴」だとすれば、

 この路地は「フレーム同士の継ぎ目」が露出している場所だ。


 奥へ進むには、情報が足りない。


 静真は、一歩だけ路地の中へ踏み込み、その場で停止した。

 薄暗い奥を見つめたまま、体感で三秒ほど数える。


 頭蓋骨の内側で、何かが軋む音がした。


「……ここまでだな」


 限界値は、超えないほうがいい。

 観測者であり続けるためには、生き残る必要がある。


 踵を返し、交差点のほうへ引き返す。


 路地の境界線を越えた瞬間、世界が大きく揺れた。


 音が、奔流のようになだれ込んでくる。

 トラックのエンジン音、信号機の電子音、遠くのクラクション、誰かの笑い声。

 昼の都市の音が一気に戻ってきた。


 横断歩道の白線は、歪んだままだった。

 路地の暗がりは、通常の陰影に戻っている。


 時計を確認する。

 腕時計の秒針は、十一時二十七分五秒を指していた。


 静止していた時間は、世界の計測上では「存在しない」。

 だが、自分の体感には、明確に残っている。


 頭痛が、じわりと強くなった。

 視界の端に、ノイズのような黒い粒子が散る。


 能力の負荷。

 観測を繰り返した結果、脳の処理能力が限界に近づいているサインだ。


 無理を重ねれば、観測者としての感覚そのものが壊れる。

 そのことは、本能的に理解していた。


 信号が赤に変わったので、歩道側に戻る。

 そのとき、ポケットの中のスマートフォンが震えた。


 取り出して画面を見ると、また、通知が一つだけ表示されている。


『――初観測完了。裂け目を確認』


 差出人不明。

 アイコンもなし。

 履歴に残る気配もない。


 先ほどの路地のことだろう。

 自分はあくまで「裂け目の入口」を見ただけで、中へは踏み込んでいない。


 それを「初観測」と評している。


 続けて、画面に新しい文字列が浮かんだ。


『次の削れまで、平均七十二時間』


 意味を理解するまでに、一秒ほどかかった。


 削れが「ランダムな異常」ではなく、

 統計的なパターンを持つ現象であることを示すメッセージ。


 七十二時間。

 三日間。


 この都市のどこかで、

 また三秒単位の削れが起きる。


 そしてその地点もまた、自分のもとへ通知される――

 そういう前提で動く仕組みだ。


 通知は、すぐに消えた。

 画面には普段通りのホーム画面だけが残っている。


 No.3のカードが、ポケットの中で微かに重みを主張していた。

 既に役割を終えたカードのはずなのに、

 まるでまだ何かを伝えようとしているような、そんな感触。


 交差点から少し離れた位置まで歩いてから、静真は一度だけ振り返った。


 横断歩道の歪んだ白線。

 路地の入口。

 車道に伸びる影の長さ。


 どれも、外見上は「渋谷の一角」にすぎない。


 だが、この場所はもう、自分にとってただの交差点ではなかった。


 世界のフレーム同士が噛み合わなくなり、

 削れと歪みが重なり始めた最初の地点。


 ここから先、

 都市全体の構造を地図のように読み解いていくことになる。


 そう直感しながら、静真は駅方面とは逆方向に歩き出した。


 頭痛はまだ続いていた。

 だが、その痛みは、観測者としての「通行料」のようにも感じられた。


 世界の外側を覗き込むための、小さなコスト。


 三日後に、

 そのコストに見合うだけの情報が得られるかどうかは――そのときになってみなければ分からない。


 ただ一つだけ確かなのは、

 自分はもう、元の連続した世界だけを見て生きる選択肢を捨ててしまった、という事実だけだった。

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