第1章 第3話 封筒の送り主

ポストに白い封筒が入っていたのは、いつもより少し遅い時間帯だった。


 午前十時過ぎ。

 コンビニの袋をぶら下げてエントランスに入った静真は、何気なく集合ポストの前で足を止めた。

 銀色のボックスが縦に並び、その一つに自分の部屋番号が刻まれている。


 このマンションのポストは、外から直接投函できない構造だった。

 宅配業者や郵便配達員は一度管理室側の扉を開け、そこからまとめて差し込む。

 住人が表側から触れるのは、あくまで自分のボックスの小窓だけだ。


 自分のポストの覗き窓に、白い紙の端が見えている。

 通常のチラシなら、他の郵便物と一緒に無造作に押し込まれているはずだが、その封筒は――他の紙類と接触しないように、底にそっと置かれていた。


 誰かが意図してそうした、という印象だった。


 鍵を回してポストを開ける。

 中には封筒が一通だけ。

 チラシも、請求書も、他の郵便物もない。


「……一通だけ、ね」


 差出人欄は空白。宛名もない。

 印刷されたロゴも、料金別納のマークもない。

 真っ白な封筒に、黒いボールペンで小さく部屋番号だけが記されている。


 マンションの管理会社からの連絡なら、もっと別の形式になる。

 ポスティング業者が投げ込むにしては、丁寧すぎる。


 指先で封筒の端を軽く撫でる。

 紙質は、やけに厚い。一般的なコピー用紙の二倍近くはある感触だ。

 表面に、ごく微細な凹凸が走っている。エンボス加工というには不規則で、指紋のようにも感じられた。


 考え込む前に、一度部屋へ戻ることにした。

 コンビニの袋と封筒を持ち、エレベーターで自室のあるフロアへ上がる。


     ◇


 マンションの一室。

 白とグレーを基調とした簡素な空間に、昨夜の実験の名残がまだ残っている。

 床に置かれたままのスマートフォン、テーブルの上のタブレット、ノートアプリに走り書きされたメモ。


 頭痛は、まだ完全には引いていなかった。

 鈍い痛みが、後頭部の奥に残っている。

 削れを連続で観測し、意図して時間の外側へ踏み出した反動だ。


 コンビニ袋の中身をテーブルに置き、ペットボトルの水をひと口飲んでから、静真は封筒を改めて手に取った。


「差出人なし、宛名なし。……郵便の形式としては、ほぼアウトか」


 冗談めかした独り言を口にしながら、封筒をテーブルの上に置く。

 カッターナイフを引き出しから取り出し、封を丁寧に切り開いた。


 中から出てきたのは、一枚のカードだった。


 漆黒に近い黒地。

 名刺サイズほどの長方形の中央に、白い数字が一つだけ印刷されている。


 ――3


 フォントは癖のないゴシック体に見えるが、線の太さがほんのわずかに不均一だ。

 印刷というより、金属の細片を押し込んだような立体感がある。


 裏返す。

 そこには、一行の短い文が刻まれていた。


『――観測は続けろ。削れは近づいている』


 読み上げるまでもなく、文字列は一度で頭に入ってきた。

 影のない文体だ。

 感情も、説明もない。ただ事実だけを述べる文の形。


「観測は続けろ、ね」


 口に出した瞬間、自分の声がわずかに低く響いたように感じた。

 胸の奥に、僅かな引っ掛かりが生じる。


 観測――その言葉は、彼にとって馴染みのある概念だった。

 ログを読むときも、映像を解析するときも、自分の仕事を説明するときに「分析」という言葉よりも「観測」のほうがしっくりくることがある。


 だが、今このカードに書かれている「観測」は、もう少し違う意味を含んでいるように思えた。


 世界そのものを、外側から見ている感覚。

 サーバルームで時間が止まったとき、喫茶店で周囲の動きが三秒だけ抜け落ちたとき、自分の意識だけが別の層に滑り出したような、あの奇妙な浮遊感。


 カードに触れた指先が、微かに痺れた。


 静電気にしては妙に持続する。

 カードの表面を親指でなぞると、目には見えない凹凸が引っかかる。

 印刷ではなく、“刻まれている”感触。


 封筒の中には他に何も入っていなかった。

 差出人を示す名前もなければ、連絡先もない。

 ただ、数字の「3」と、「観測」「削れ」という二つの単語。


 削れ。

 自分がメモの中で仮に付けた「三秒の欠落」の呼び名に近い。


 タブレットを手に取り、昨夜の記録を呼び出す。

 サーバルームでの体感停止、喫茶店でのフリーズ、そして自室での実験。


 三つの現象に共通するのは、「三秒前後の違和感」と、「外側から世界を見ているような観測感覚」だった。


 自分が適当に名付けたつもりの言葉を、

 見知らぬ誰かが、当然のように使っている。


 偶然と呼ぶには、あまりに出来すぎている。


「……観測対象が、こちらの反応を観測している、か」


 静真は、カードをテーブルに置き、手を組んでしばらく黙った。


 カードの送り主は、少なくとも二つの情報を握っている。


 一つ、自分が「削れ」を観測したこと。

 二つ、自分がそれを「観測」として認識していること。


 サーバ企業の関係者、監視カメラを管理している第三者、あるいは昨夜の喫茶店の客――

 いくつかの仮説が頭に浮かんでは消えるが、どれも決定的な根拠に欠ける。


 そもそも、あの時間停止は、通常の手段で“録画”できる種類の現象ではない。

 世界の側の時間が止まっていたのなら、観測手段も一緒に止まっているはずだ。


 にもかかわらず、自分の体感と、録音アプリだけが連続した記録を保持している。


 つまり、

 あれは世界の側の「バグ」ではなく、

 観測者だけが引きずり出された“別の層”で起きた現象だ。


 そう考えると、カードの文面は、やけに腑に落ちる。


『観測は続けろ』


 観測で世界の構造に触れた者に対する、

 承認と――誘導。


『削れは近づいている』


 削れは固定された一点で起きるのではなく、

 観測者の周囲に寄ってくる。


 世界のほうが、観測者を選別している。


 昨夜、サーバルームと喫茶店で二度観測し、

 自室で意図的な実験まで行った自分は、

 その「選別プロセス」に、完全に引っかかってしまったのだろう。


 胸の奥で、微かな嫌悪感と好奇心が交錯する。


 人間としての感覚が、「関わらないほうがいい」と囁く。

 分析者としての癖が、「ここまで見えた以上、最後まで見届けるべきだ」とささやく。


 静真は後者を選んだ。


 冷静であることと、冷酷であることは、彼の中ではほとんど同義だった。

 人間関係においても、仕事においても、余計な情緒を排除して数字と因果だけを見てきた。


 世界そのものが数字と因果で動いているなら、

 それを観測するのは、むしろ自然な仕事だ。


 タブレットの画面に、新しいメモを開く。


『封筒/No.3カードについて』


・差出人不明。物理投函の経路は限定的

・カード素材は通常の紙ではない(静電感、微細な凹凸)

・表面:数字「3」

・裏面:『観測は続けろ。削れは近づいている』

・「削れ」の語が使用されている → 自分以外の観測者の存在がほぼ確定

・「3」は観測者番号の可能性あり


 そこまで書いたところで、スマートフォンが短く震えた。


 テーブルの上の画面に、ひとつだけ通知が浮かぶ。


『削れ発生』


 アプリのアイコンは表示されていない。

 差出人情報も、番号も出てこない。


 ただ、システムメッセージのように簡潔なテキストと、一行の座標データ。


「……なるほど」


 喉の奥で小さく笑いが漏れた。


 封筒が「観測者としての自覚」を促し、

 この通知が「観測者としての行動」を促してくる。


 誘導としては分かりやすい構造だ。


 スマートフォンを手に取り、座標データを地図アプリにコピーする。

 ピンが立ったのは、渋谷の外れにある雑居ビル街。


 昨日、喫茶店から帰るときに通ったエリアだ。

 そこから少し外れた路地の交差点。


 表示された場所を見た瞬間、耳の奥で小さなノイズが走った。


 削れの前兆。

 まだ現象は起きていないが、世界の重心が僅かにずれ始めている感覚がある。


 そのとき、もう一度スマートフォンが震えた。


 二つ目の通知。


『No.3が見ている』


 画面に一瞬だけ表示され、

 次の瞬間には消えていた。


 通知履歴を遡っても、どこにも残っていない。

 スクリーンショットを撮る暇もなかった。


 だが、文字列はしっかりと脳裏に焼き付いている。


 No.3。

 カードに刻まれた数字と同じ。


 あのカードは、「自分がNo.3である」という宣言ではなく、

 「No.3からのメッセージ」だった可能性が高い。


『No.3が見ている』


 この文は、

 「お前を」が省略されている、と読むべきか。

 それとも、「削れを」が主語なのか。


 いずれにせよ――

 自分はすでに、誰かに“観測される側”に回っている。


 静真は、カードをもう一度手に取り、光にかざした。

 数字の「3」が、角度によってわずかに色を変える。

 白にも、銀にも、薄い灰にも見える曖昧な輝き。


 カードの縁を指でなぞると、ほんの一瞬だけ視界が暗くなった。


 照明はそのままだ。

 モニターの光量も変わっていない。


 暗くなったのは、自分の視界だけだ。


 世界と、自分の間に一枚、薄い膜が挟まったような感覚。


 削れの前兆に近いが、時間は止まっていない。

 針は動き、外の車の走行音も聞こえる。


 ただ、意識のどこかが、

 “こちら側”と“向こう側”の境界に足をかけたのを理解した。


 カードをテーブルに戻すと、暗転はすぐに消えた。


「……観測者のスイッチ、というわけか」


 何度も削れに触れたことで、

 自分の脳はすでに「外側へ滑る回路」を学習してしまっている。


 そこへ、No.3からのカードと通知が上乗せされる。

 誘導と選別。

 世界側と、観測者ネットワーク側の両方からの圧力。


 逃げる選択肢も、理屈の上では存在する。

 座標データを無視し、カードをシュレッダーにかけ、二度と削れを観測しないよう目を逸らすこともできる。


 だが、一度見てしまった構造を、

 意図的に見ないふりをするのは、静真には難しかった。


 数字の並びに嘘が混じるのを嫌うのと同じように、

 世界に刻まれた「三秒の穴」を無視することはできない。


 削れは近づいている。

 カードの文は、その事実をただ告げているだけだ。


 ならば、

 こちらからも近づいてやればいい。


 静真は立ち上がり、最低限の荷物をポケットに分配した。

 スマートフォン、カードキー、財布、タブレットの小型版。


 玄関で靴紐を結びながら、一度だけ腕時計の針を確認する。

 午前十一時二十四分。


 秒針が、ほんの刹那――

 遅れた。


 削れは、もう動き始めている。


 世界の外側へ、また一歩踏み出すべき時間が来たのだと、

 そのわずかなズレが告げていた。

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